きたざと しばさぶろう
1853年1月29日(嘉永5年12月20日) - 1931年(昭和6年)6月13日
日本の医学者・細菌学者である
従二位・勲一等旭日大綬章・男爵・医学博士
初代伝染病研究所(現在の東大医科学研究所)所長、日本医師会創立者、初代慶應義塾大学医学部長、初代北里研究所所長
「日本の細菌学の父」として知られ、門下生からはドンネル先生(ドイツ語で「雷おやじ」(der Donner)の意)との愛称で畏れられ、かつ親しまれていた
妹のいくは神官の蔵原惟暁の妻となり、その息子に詩人の蔵原伸二郎
別の妹しうは、惟暁の弟で政治家の蔵原惟郭の妻で、その息子に評論家の蔵原惟人
明治製菓株式会社最高顧問の北里一郎は孫にあたる
出生から ◇◇◇◇
熊本県阿蘇郡小国町に生まれる
父惟保(これのぶ 1829 - 1902) は総庄屋を務めた
温厚篤実、几帳面であった
母貞(てい)(1829 - 1897) は豊後森久留島藩士加藤海助の娘で幼少時は江戸で育ち、嫁して後は総庄屋を切りもりした
柴三郎の教育に関しては甘えを許さず、親戚の家に預けて厳しい躾を依頼した
闊達な性質で、柴三郎が指導者としての性格は母からであろう
柴三郎は8歳から2年間、父の姉の嫁ぎ先の橋本家に預けられ漢学者の伯父から四書五経を教わった
帰宅後母の実家に預けられ、儒学者園田保の塾で漢籍や国書を学び4年を過ごした
その後久留島藩で武道を習いたいと申し出たが他藩であるので許可されなかった
実家に帰り父に熊本に遊学を願い出た
1869年細川藩の藩校時習館に入寮したが翌年7月廃止された
それで、熊本医学校に入学した
その教師マンスフェルトに出会った事をきっかけとして本格的に医学に目覚めることとなった
特別に語学を教わり、3年間在籍したが、2年目からは通訳を務めている
マンスフェルト、職員、生徒の集合写真にはマンスフェルトの横に写っている
1875年(明治8年)に東京医学校(現・東京大学医学部)へ進学したが、勉学に集中せず、何度も留年し1883年(明治16年)に医学士となる
在学中「医者の使命は病気を予防することにある」と確信するに至り、予防医学を生涯の仕事とする決意をし、「医道論」を書いた
卒業時の成績は26名中8位であった
後長与専斎が局長であった内務省衛生局へ就職
留学時代 ◇◇◇◇
同郷で東京医学校の同期生であり、東大教授兼衛生局試験所所長を務めていた緒方正規の計らいにより、1885年(明治18年)よりドイツベルリン大学へ留学
コッホに師事し業績をあげた
1887年 石黒忠悳陸軍省医務局長はベルリンを訪問、北里にペッテンコーフェル研究室に移るように指示したが、コッホに面会しコッホの期待の大きさを目のあたりにした石黒は、移動命令を撤回した
、1889年(明治22年)には世界で初めて破傷風菌だけを取りだす破傷風菌純粋培養法に成功、1890年(明治23年)には破傷風菌抗毒素を発見し世界の医学界を驚嘆させた
さらに血清療法という、菌体を少量ずつ動物に注射しながら血清中に抗体を生み出す画期的な手法を開発した
1890年(明治23年)には血清療法をジフテリアに応用し、同僚であったベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表した
第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に柴三郎の名前が挙がったが、結果は抗毒素という研究内容を主導していた柴三郎でなく、共同研究者のベーリングのみが受賞した
柴三郎が受賞できなかったのは、ベーリングが単独名でジフテリアについての論文を別に発表していたこと、ノーベル賞委員会や(選考に当たった)カロリンスカ研究所が柴三郎は実験事実を提供しただけで免疫血清療法のアイディアはベーリング単独で創出したと見なしたこと、賞創設直後の選考でのちのような共同授賞の考え方がまだなかったことなどが要因としてあげられている
柴三郎に対する人種差別を理由とする明確な証拠はみつかっていない
論文がきっかけで欧米各国の研究所、大学から多くの招きを受けるが、国費留学の目的は日本の脆弱な医療体制の改善と伝染病の脅威から国家国民を救うことであると、柴三郎はこれらを固辞して1892年(明治25年)に帰国した
帰国後 ◇◇◇◇
ドイツ滞在中、脚気の原因を細菌とする東大教授・緒方正規の説に対し脚気菌ではないと批判を呈した為、緒方との絶縁こそなかったものの「恩知らず」として母校東大医学部と対立する形となってしまい、帰国後も日本での活躍が限られてしまった
この事態を聞き及んだ福澤諭吉の援助により私立伝染病研究所が設立されることとなり、柴三郎は初代所長となった
その後、国に寄付され内務省管轄の国立伝染病研究所(現在の東大医科学研究所)となり、伝染病予防と細菌学に取り組む
1894年(明治27年)にはペストの蔓延していた香港に政府より派遣され、病原菌であるペスト菌を発見するという業績をあげた
かねがね伝染病研究は衛生行政と表裏一体であるべきとの信念のもと、内務省所管ということで研究にあたっていたが、1914年(大正3年)に政府は所長の柴三郎に一切の相談もなく、伝染病研究所の所管を突如文部省に移管し、東大の下部組織にするという方針を発表した
長年の東大との対立が背景であるといわれている
医科大学学長であった青山胤通が所長を兼任することになった
柴三郎はこれに反発し所長を辞、新たに私費を投じて私立北里研究所を設立
狂犬病、インフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの血清開発に取り組んだ
諭吉の没後の1917年(大正6年)、諭吉による長年の多大なる恩義に報いるため、慶應義塾大学医学部を創設し、初代医学部長、付属病院長となる
新設の医学部の教授陣にはハブの血清療法で有名な北島多一(第2代慶應医学部長、第2代日本医師会会長)や、赤痢菌を発見した志賀潔など北里研究所の名だたる教授陣を惜しげもなく送り込み、柴三郎は終生無給で慶應義塾医学部の発展に尽力した
また明治以降多くの医師会が設立され、一部は反目しあうなどばらばらであったが、1917年(大正6年)に柴三郎が初代会長となり、全国規模の医師会として大日本医師会が誕生した
その後1923年(大正12年)に医師法に基づく日本医師会となり、柴三郎は初代会長としてその運営にあたった
+ Wikipedia +
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1853年1月29日(嘉永5年12月20日) - 1931年(昭和6年)6月13日
日本の医学者・細菌学者である
従二位・勲一等旭日大綬章・男爵・医学博士
初代伝染病研究所(現在の東大医科学研究所)所長、日本医師会創立者、初代慶應義塾大学医学部長、初代北里研究所所長
「日本の細菌学の父」として知られ、門下生からはドンネル先生(ドイツ語で「雷おやじ」(der Donner)の意)との愛称で畏れられ、かつ親しまれていた
妹のいくは神官の蔵原惟暁の妻となり、その息子に詩人の蔵原伸二郎
別の妹しうは、惟暁の弟で政治家の蔵原惟郭の妻で、その息子に評論家の蔵原惟人
明治製菓株式会社最高顧問の北里一郎は孫にあたる
出生から ◇◇◇◇
熊本県阿蘇郡小国町に生まれる
父惟保(これのぶ 1829 - 1902) は総庄屋を務めた
温厚篤実、几帳面であった
母貞(てい)(1829 - 1897) は豊後森久留島藩士加藤海助の娘で幼少時は江戸で育ち、嫁して後は総庄屋を切りもりした
柴三郎の教育に関しては甘えを許さず、親戚の家に預けて厳しい躾を依頼した
闊達な性質で、柴三郎が指導者としての性格は母からであろう
柴三郎は8歳から2年間、父の姉の嫁ぎ先の橋本家に預けられ漢学者の伯父から四書五経を教わった
帰宅後母の実家に預けられ、儒学者園田保の塾で漢籍や国書を学び4年を過ごした
その後久留島藩で武道を習いたいと申し出たが他藩であるので許可されなかった
実家に帰り父に熊本に遊学を願い出た
1869年細川藩の藩校時習館に入寮したが翌年7月廃止された
それで、熊本医学校に入学した
その教師マンスフェルトに出会った事をきっかけとして本格的に医学に目覚めることとなった
特別に語学を教わり、3年間在籍したが、2年目からは通訳を務めている
マンスフェルト、職員、生徒の集合写真にはマンスフェルトの横に写っている
1875年(明治8年)に東京医学校(現・東京大学医学部)へ進学したが、勉学に集中せず、何度も留年し1883年(明治16年)に医学士となる
在学中「医者の使命は病気を予防することにある」と確信するに至り、予防医学を生涯の仕事とする決意をし、「医道論」を書いた
卒業時の成績は26名中8位であった
後長与専斎が局長であった内務省衛生局へ就職
留学時代 ◇◇◇◇
同郷で東京医学校の同期生であり、東大教授兼衛生局試験所所長を務めていた緒方正規の計らいにより、1885年(明治18年)よりドイツベルリン大学へ留学
コッホに師事し業績をあげた
1887年 石黒忠悳陸軍省医務局長はベルリンを訪問、北里にペッテンコーフェル研究室に移るように指示したが、コッホに面会しコッホの期待の大きさを目のあたりにした石黒は、移動命令を撤回した
、1889年(明治22年)には世界で初めて破傷風菌だけを取りだす破傷風菌純粋培養法に成功、1890年(明治23年)には破傷風菌抗毒素を発見し世界の医学界を驚嘆させた
さらに血清療法という、菌体を少量ずつ動物に注射しながら血清中に抗体を生み出す画期的な手法を開発した
1890年(明治23年)には血清療法をジフテリアに応用し、同僚であったベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表した
第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に柴三郎の名前が挙がったが、結果は抗毒素という研究内容を主導していた柴三郎でなく、共同研究者のベーリングのみが受賞した
柴三郎が受賞できなかったのは、ベーリングが単独名でジフテリアについての論文を別に発表していたこと、ノーベル賞委員会や(選考に当たった)カロリンスカ研究所が柴三郎は実験事実を提供しただけで免疫血清療法のアイディアはベーリング単独で創出したと見なしたこと、賞創設直後の選考でのちのような共同授賞の考え方がまだなかったことなどが要因としてあげられている
柴三郎に対する人種差別を理由とする明確な証拠はみつかっていない
論文がきっかけで欧米各国の研究所、大学から多くの招きを受けるが、国費留学の目的は日本の脆弱な医療体制の改善と伝染病の脅威から国家国民を救うことであると、柴三郎はこれらを固辞して1892年(明治25年)に帰国した
帰国後 ◇◇◇◇
ドイツ滞在中、脚気の原因を細菌とする東大教授・緒方正規の説に対し脚気菌ではないと批判を呈した為、緒方との絶縁こそなかったものの「恩知らず」として母校東大医学部と対立する形となってしまい、帰国後も日本での活躍が限られてしまった
この事態を聞き及んだ福澤諭吉の援助により私立伝染病研究所が設立されることとなり、柴三郎は初代所長となった
その後、国に寄付され内務省管轄の国立伝染病研究所(現在の東大医科学研究所)となり、伝染病予防と細菌学に取り組む
1894年(明治27年)にはペストの蔓延していた香港に政府より派遣され、病原菌であるペスト菌を発見するという業績をあげた
かねがね伝染病研究は衛生行政と表裏一体であるべきとの信念のもと、内務省所管ということで研究にあたっていたが、1914年(大正3年)に政府は所長の柴三郎に一切の相談もなく、伝染病研究所の所管を突如文部省に移管し、東大の下部組織にするという方針を発表した
長年の東大との対立が背景であるといわれている
医科大学学長であった青山胤通が所長を兼任することになった
柴三郎はこれに反発し所長を辞、新たに私費を投じて私立北里研究所を設立
狂犬病、インフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの血清開発に取り組んだ
諭吉の没後の1917年(大正6年)、諭吉による長年の多大なる恩義に報いるため、慶應義塾大学医学部を創設し、初代医学部長、付属病院長となる
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また明治以降多くの医師会が設立され、一部は反目しあうなどばらばらであったが、1917年(大正6年)に柴三郎が初代会長となり、全国規模の医師会として大日本医師会が誕生した
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