さわむら ただし
1943年(昭和18年)1月5日 -
日本の元キックボクサー
剛柔流空手道参段
満州出身
本名は白羽 秀樹(しらは ひでき)
娘はタレントの白羽玲子
半生を描いた漫画やアニメの『キックの鬼』の影響により、世間からは「キックの鬼」と呼ばれていた
幼少より祖父から剛柔流空手道を習う
法政大学第一高等学校(現:法政大学高等学校)を経て、日本大学芸術学部映画科を卒業
大学在学中には全日本学生選手権で優勝し、60戦無敗であった
野口修はその実力を評価し、キックボクシングに勧誘した
1966年(昭和41年)4月に日本キックボクシング協会が旗揚げされ、リングネームを“沢村忠”として参戦
大阪府立体育会館で行われたデビュー戦は“空手vs.ムエタイ”と銘打たれた試合で、ラークレイ・シーハーマンを2RKO勝利した
6月にはリキパレスで、ムエタイのルンピニーフェザー級8位のサマンソー・アディソンと対戦したが、16度のダウン(19の報道もあり)を奪われ25ヶ所以上の打撲を負い、4RKO負けを喫した
しかし、この敗北を機に特訓を積み、当時、YKKアワー キックボクシング中継の実況をしていた石川顕が命名した真空飛び膝蹴りや飛び前蹴りを武器にKOを重ね、活躍
1973年には三冠を達成した読売ジャイアンツの王貞治を抑え、日本プロスポーツ大賞を獲得した
1976年(昭和51年)7月2日に最終試合を行い、翌年の10月10日に引退式を行った
最終成績は、241戦232勝(228KO)5敗4分(一説には500戦以上戦歴があるともされている)であった
梅宮辰夫と結婚・スピード離婚した銀座「姫」のホステス・大門節子と婚約はしたものの結婚はしなかったようである
現在は、自動車の修理販売業を営むかたわら、子供達に空手を教えている
パチンコ台販売会社・セイブシステムリンクの常務取締役でもある
★エピソード
1964年(昭和39年)に空手道代表として中村忠は、ルンピニー・スタジアムでムエタイ選手と対戦してKO勝利した
野口はその強さにあやかり、白羽に「沢村忠」と命名した
あまりにも試合が多く、短いインターバル期間では足の腫れがひかないこともあった
そんなときは「炊いた飯をタオルにくるんで足を温めることで無理矢理治していた」と雑誌・NUMBERのインタビューで答えている
1970年代前半、日本に2台しかないシボレー・コルベットの所有者だった
しかし、もう一人の所有者大場政夫が同車運転中に事故死したため、沢村も手放した
キックの鬼が放映されていた頃、試合で真空飛びひざ蹴りをしたとき、あるファンから「手抜きするな!」と野次られたという逸話がある
「アニメの真空飛び膝蹴りは高く飛ぶが、実際はそこまで飛ばないため、そう思われたのであろう」と、のちに本人が懐かしのアニメソングの番組の中で語っている
噂の出所は不明だが、一時期「引退後、酒で身を持ち崩した」「死亡した」という説が出回っており、現在でも年輩者には信じている人もいる
沢村曰く「こっちが子供みたいに怒って、いちいち(雑誌の出版社に)電話して『無礼者!』とか言ったってしょうがないですからね
そういえば目黒のそば屋で元選手と飯食ってたんだけど、キックの話がでるじゃない
そこのおばあちゃんが『キックと言えば、あの沢村って死んだんだってね』と言われて、思わず『そうですね』と答えたんだけど、店を出てから、ふたりで笑い転げましたね」とある
本人はまったく「アルコールを受け付けない体質」で前述した通り、引退後は堅実な人生を歩んでいる
佐山聡は「格闘技を好きになったのは、小学生の時に沢村さんをテレビで観てから。最初にお会いできた時にはもうびっくりしちゃって・・・。その時にキックを教えてもらったんですが、理論がしっかりしていて驚いた。それまでいろんなキックボクシングジムでいろんなテクニックを教わり、なんでこうなるんだろう?という疑問が、沢村さんに教わり、全部解決した」と語っている
ポケットモンスターのキャラクターの一種であるサワムラーは、沢村の名を元にしてつけられた
+ Wikipedia +
真空飛び膝蹴りの真実―“キックの鬼”沢村忠伝説/加部 究
¥1,575
Amazon.co.jp
1943年(昭和18年)1月5日 -
日本の元キックボクサー
剛柔流空手道参段
満州出身
本名は白羽 秀樹(しらは ひでき)
娘はタレントの白羽玲子
半生を描いた漫画やアニメの『キックの鬼』の影響により、世間からは「キックの鬼」と呼ばれていた
幼少より祖父から剛柔流空手道を習う
法政大学第一高等学校(現:法政大学高等学校)を経て、日本大学芸術学部映画科を卒業
大学在学中には全日本学生選手権で優勝し、60戦無敗であった
野口修はその実力を評価し、キックボクシングに勧誘した
1966年(昭和41年)4月に日本キックボクシング協会が旗揚げされ、リングネームを“沢村忠”として参戦
大阪府立体育会館で行われたデビュー戦は“空手vs.ムエタイ”と銘打たれた試合で、ラークレイ・シーハーマンを2RKO勝利した
6月にはリキパレスで、ムエタイのルンピニーフェザー級8位のサマンソー・アディソンと対戦したが、16度のダウン(19の報道もあり)を奪われ25ヶ所以上の打撲を負い、4RKO負けを喫した
しかし、この敗北を機に特訓を積み、当時、YKKアワー キックボクシング中継の実況をしていた石川顕が命名した真空飛び膝蹴りや飛び前蹴りを武器にKOを重ね、活躍
1973年には三冠を達成した読売ジャイアンツの王貞治を抑え、日本プロスポーツ大賞を獲得した
1976年(昭和51年)7月2日に最終試合を行い、翌年の10月10日に引退式を行った
最終成績は、241戦232勝(228KO)5敗4分(一説には500戦以上戦歴があるともされている)であった
梅宮辰夫と結婚・スピード離婚した銀座「姫」のホステス・大門節子と婚約はしたものの結婚はしなかったようである
現在は、自動車の修理販売業を営むかたわら、子供達に空手を教えている
パチンコ台販売会社・セイブシステムリンクの常務取締役でもある
★エピソード
1964年(昭和39年)に空手道代表として中村忠は、ルンピニー・スタジアムでムエタイ選手と対戦してKO勝利した
野口はその強さにあやかり、白羽に「沢村忠」と命名した
あまりにも試合が多く、短いインターバル期間では足の腫れがひかないこともあった
そんなときは「炊いた飯をタオルにくるんで足を温めることで無理矢理治していた」と雑誌・NUMBERのインタビューで答えている
1970年代前半、日本に2台しかないシボレー・コルベットの所有者だった
しかし、もう一人の所有者大場政夫が同車運転中に事故死したため、沢村も手放した
キックの鬼が放映されていた頃、試合で真空飛びひざ蹴りをしたとき、あるファンから「手抜きするな!」と野次られたという逸話がある
「アニメの真空飛び膝蹴りは高く飛ぶが、実際はそこまで飛ばないため、そう思われたのであろう」と、のちに本人が懐かしのアニメソングの番組の中で語っている
噂の出所は不明だが、一時期「引退後、酒で身を持ち崩した」「死亡した」という説が出回っており、現在でも年輩者には信じている人もいる
沢村曰く「こっちが子供みたいに怒って、いちいち(雑誌の出版社に)電話して『無礼者!』とか言ったってしょうがないですからね
そういえば目黒のそば屋で元選手と飯食ってたんだけど、キックの話がでるじゃない
そこのおばあちゃんが『キックと言えば、あの沢村って死んだんだってね』と言われて、思わず『そうですね』と答えたんだけど、店を出てから、ふたりで笑い転げましたね」とある
本人はまったく「アルコールを受け付けない体質」で前述した通り、引退後は堅実な人生を歩んでいる
佐山聡は「格闘技を好きになったのは、小学生の時に沢村さんをテレビで観てから。最初にお会いできた時にはもうびっくりしちゃって・・・。その時にキックを教えてもらったんですが、理論がしっかりしていて驚いた。それまでいろんなキックボクシングジムでいろんなテクニックを教わり、なんでこうなるんだろう?という疑問が、沢村さんに教わり、全部解決した」と語っている
ポケットモンスターのキャラクターの一種であるサワムラーは、沢村の名を元にしてつけられた
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