皆さん、こんにちは。

 

聖書を読んでも、携挙と言う言葉は出てきません。

キリストが再臨時に、地上に残っている真のキリスト者に対して行われる様相について示す記述が携挙を示していると言えます。

 

こちらの☞キリスト道のブログ主の記事『携挙の真実』をご覧ください。

引用ここから一部抜粋〜

新約聖書 マタイによる福音書 二十四章二十九節〜三十一節(拙訳)

しかし、それらの苦難の日々のすぐ後、太陽は暗くされ、月はその光を出さず、星々は天から落ち、各天の天軍は揺り動かされるだろう。また、その時、人の子のしるしが天に現されるだろう。そして、その時、地のすべての民族は悲しみ、人の子が力と大いなる威厳に満ちて天の雲に乗って来るのを見るだろう。人の子は、大きならっぱの音と共にその天使たちを遣わし、天使たちは各天の果てから果ての四つの風の彼の選ばれた人たちを集めるだろう。

 

これらの預言から分かるんは、苦難の日々の後、即ち、大艱難の後に太陽と月と星々に通常では起こり得へんような大きな変化があるということやな。つまり、大艱難を経過した後に主イエスが再臨しはり、その時に神の民たる真のキリスト者が集められるということであり、その現象を「人々は見るだろう」と主イエスは言わはり、誰でも目視して分かるってことで、秘密に起こるのではないことは明らかやろ。「気付かんかったー」と済ませられる人は居らへんよ。太陽が暗くなり、月が発光をやめ、星が落ちれば、誰でも異常事態と気付くよね。そして、赤字で強調したとおり、人々は主イエスが再臨するのを「雲に乗って来る」んを見るだろうと共通して言われ、天のしるしへの言及も共通し、主が再臨する時に天使たちが真のキリスト者を集める、即ち、携挙するということが分かる。これだけで、艱難期前携挙説は完全に嘘と分かるし、艱難期末期に携挙されることも明らかや。更に、艱難期末期携挙の根拠は上記以外にもある。以下を読むがよい。

 

新約聖書 マタイによる福音書 十三章三十六節〜四十三節(拙訳)

それから、イエスは群衆を追い払い、家に入りはった。すると、彼の弟子たちが彼に寄って来て、「畑の毒麦の例えを説明してください」と言うた。すると、イエスは彼らに答えて言わはった。「ええ種を蒔く者は人の子、そして、畑は世界、これらええ種は王国の子ら、しかし毒麦は悪い者の子らや。毒麦を蒔いた敵は悪魔、そして刈り入れは世の終わりで、刈り入れる者は天使たちや。せやから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにそうなるであろう。人の子はその天使たちを遣わし、罪を犯させるものすべてと不法を行う者どもを自分の王国から集め、彼らを火の炉の中に投げ込むだろう。そこで、むせび泣きと歯ぎしりがあるだろう。その時、正しい人々は、彼らの父の王国で太陽のように輝くだろう。聞く耳を持つ者は聞きなはれ。」

 

これらの主イエスの御発言や行動にも既存聖書には誤訳が多い。主イエスが群衆を追い払う対応をしはったことも地味に注目に値する。群衆というんは、おもに不信仰の者、にわか信者といった人間で構成されており、それらの人々に懇切丁寧に対応するってことはしてはらへんかったということ。そして、この前の文脈から明らかなとおり、すべて例えを用いて語らはったことから、すべての人に理解してもらおうというつもりも毛頭無かったということです。しかし、現代の不法を犯すことをやめへんパウロ教信者でしかない自称キリスト者どもらは、この聖句をも無視し、「イエス様は差別せず、愛のお方。すべての人が救われることを願っておられる」等と寝言を言うてる。しかし、明らかにそれは大嘘であり、主イエスは御自分が選びはる数少ない人間しか救う気はあらへん。最初から一貫してその姿勢です。そして、この主イエスの予告にあるとおり、世の終わりは必ず来るし、ええ麦(種)と毒麦の選り分けは主イエスの再臨時に行われる。よって、再臨までは真のキリスト者もそれ以外の大多数の人々もこの地上で共存したままということが分かる。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 三章十節(拙訳)

あんたは我が忍耐の言葉を守ったさかい、地に住む人々を試すために全人類に来ようとする誘惑の時から、我もあんたを守るであろう。

 

この聖句が意味することは、皆同じように試練である艱難を過ごすことになるが、主イエスに従順で神の掟を守って悪に屈しないで忍耐しとる真のキリスト者だけが全世界の人々を試す誘惑からその艱難中には主イエスによって守られるということや。丁度、ダニエル書三章の話のようです。偶像礼拝をせえへんという神の掟を厳守した三人を炎の中から守ってくださったように。決して、事前に空中に避難させてくれるということではありません。終末時代のすべての人間は艱難時代を経験し、生温いにわかキリスト者を脱落させるんや。いくら口先だけでイエスを主として崇めていても、艱難が来た時その本性が明らかになります。そして、キリストの花嫁として相応しい真のキリスト者が厳選され、ある者は殉教し、ある者は生きたまま携挙されるのです。

 

新約聖書 マタイによる福音書 二十四章九節(拙訳)

その時、人々はあんた方を苦難に遭わせてあんた方を殺すであろう。また、我が名のために、あらゆる民に憎まれるだろう。

 

上記は、主イエスがオリーブ山で再臨の前兆について話された時に仰った内容です。真のキリスト者は、主イエスを信じて従う故に、他の大多数の人々から憎まれ、迫害され、殺されるだろうと教えられました。しかし、ヨハネの黙示録三章十節拙訳のとおり、そのような艱難の中でも神の律法、掟、戒めを守って忍耐する神の民だけが人間が持つ本能に打ち勝つ強さを主イエスが与えはって、真のキリスト者を艱難に屈して命を惜しむ臆病な行動を取らんように守りはるということです。

引用ここまで

 

🔵上記の👆記事からの学び

 

・苦難の日々(大艱難)の後、主イエスが再臨される時に、天使たちが地上に生き残っている神の民、真のキリスト者を集める= 艱難期末期 携挙ということが分りました。

・皆同じように試練である艱難を過ごすことになる。

・主イエスに従順で神の掟を守って悪に屈しないで忍耐する真のキリスト者だけが、全世界の人々を試す誘惑から、その艱難中には主イエスによって守られる。

・キリストの花嫁として相応しい真のキリスト者が厳選され、殉教、又は生きたまま携挙される。

・太陽が暗くなり、月が発光をやめ、星が落ち、そして主イエスが雲に乗って来られる。

・ヨハネの黙示録六章十二節にも、「大地震が起きて、太陽は毛の粗い布地のように黒くなり、月は血のようになって、天の星は地上に落ちた」とも記されている。

・ヨハネの黙示録十四章十四節にも、白い雲が現れて人の子のような方がその雲の上に座っており、頭には金の冠をかぶり、手には鋭い鎌を持っておられた…とも記されている。

・イザヤ書十三章十章にも、主の日に罪人を絶つために「天の星々とオリオンは光を放たず、太陽は昇っても闇に閉ざされ、月も光を輝かさない」とも記されている。

 

 

🔵何故、神は我々にこのような艱難を与えようとするのでしょうか。

 

こちらの☞キリスト道のブログ主の記事『聖書は今後の世界の動向を教えてくれます 前編』をご覧ください。

引用ここから一部抜粋〜

ところで、何故、神は艱難を我々に与えようとするのか考えたことがありますか。人間を愛しているという神が何故いじめるようなことをするのかと神を責めたりしていませんか。そうだとするならば、それはあなたが神を愛してへんからです。神は御自身がお選びになった人間を愛しておられ、その者らが救われて欲しいと願ってはります。神は我等が乗り越えられないような試練はお与えになりません。あんたが、慈悲深い神があなたを助けないと言うならば、あんたは神を愛し、神の掟を守って生きているか自問自答してください。出来てへんのやったら、助けを受けられへんのは当然なんです。例えば、あなたが召使いを雇っているとして、その召使いがあなたが決めた掟を守らず、言うことも聞かないのであれば、解雇したくなるでしょう。それと同じようなものです。もっとも、救われるというのは、肉体的に救われるという意味ではありません。肉は永続的なものではありません。肉は、死後に腐敗して消え去るものです。ですから、肉体的にではなく、魂が救われるという意味なのです。

 

神は、今いる地上の人間すべてに対して、選択を迫ろうとしているのです。それは、神につくのか、それともサタンが支配する人間たち(権力者たち)につくのか、の選択です。なぜなら、神は最終的には悪が一切存在せえへん世界の構築を予定されてとるからです。ヨハネの黙示録を読まれるとお分かりになると思いますが、サタンの敗北、そして最後の裁きの後に来る世界のことです。そこまで残る人を選別するために、神はすべての人間に選択を迫るのです。残る人は、主イエスのように神の掟を守る信心深い人(神への愛故に殉教出来る位)でなければ到底無理です。神を否定する者や無神論者と他の神や偶像を崇める者、信仰が浅く脱落する者は、死後肉体的にも滅び、魂も滅びる運命です。さて、ここで聖書を見ます。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 三章十節(拙訳)

あんたは我が忍耐の言葉を守っとるさかい、地上に住む人々を試すため全世界にやって来る誘惑の時から、我もあんたを守るであろう。

 

一般に流通する日本語訳聖書のこの節の誤訳が原因で、様々な憶測を生み出してます。しかし、ここで守られるのは、勿論、神の掟を守って主イエスの信仰を固守している者だけです。上記聖句が意味することは、全世界の人々の品性と信仰の不動さを証明するために来る大艱難を暗示し、すべての人間が持つ肉の弱さから来る誘惑(死にたくない、命の危険を避ける動物的な本能)に負けない強さを主イエスからいただけるということです。それは神の掟を守る主イエスの信仰を持って世に倣わない非常に少数の真のキリスト者だけが対象です。よって、キリスト者も他の人々と同じように試練である大艱難を過ごすことになるということです。決して、この世から引き上げて空中に避難させてくれるということではありません。

〜中略

新約聖書 マタイによる福音書 二十四章四十三節〜四十四節(拙訳)

しかし、このことをあんた方は理解しとる。もし家主が泥棒はどの見張りに来るかを知っとったら、目を覚ましていて、自分の家に押し入らせへんやろう。せやから、あんた方も用意していなはれ。思いがけへん時に人の子は来るさかい。

 

新約聖書 ペトロの手紙二 三章十節(拙訳)

しかし、主の日は夜の盗人のように来るであろう。その時、各天は大きな音をたてながら崩壊し、更に諸要素は焼かれ滅ぼされるでしょう。また、地とそこにある業は焼き尽くされるでしょう。

 

主イエスは天から降って燃え盛る火で不信仰の者や異教徒ら、偽福音を信じるにわかキリスト者らに罰を与えるとあり、環境的にも穏やかであるような描写ではありません。ですから、決して秘密にけえへんのです。主イエスが来はった時は、来はったことが分かるんです。また、「盗人が夜にやって来るように」をその文字通りに解釈して、こっそり来ると解釈する人がいるようです。これはそういう意味やなく、「思いがけない時に、不意に」という意味です。泥棒や強盗が事前に来ることを察知出来へんということです。それは真のキリスト者は聖書を読んで理解しているので、いつ来ても驚かず、突然襲われたと感じひんが、信じてへん人にはとっては不意に来るようなものであるということを聖書は言っています。したがって、多くの人が主張する、艱難期前携挙説(秘密携挙説)は誤りということが明白です。

中略〜

キリストの再臨時、人の運命が永遠に分かれるのです。主イエスが来はる時には、それより前に救われるか否かの審判は既に下されているのであり、下した審判を基に救われるべき人を迎えに再臨しはるのです。

中略〜

新約聖書 ルカによる福音書 十七章三十七節(拙訳)

そして、弟子たちが彼に答えて言う、「どこですか、主よ。」そこで、イエスは彼らに言われた。「死体がある所には、はげ鷹が集められるだろう。」

 

弟子たちは、義人(真のキリスト者)は天に昇ることを知っていましたが、天に昇ることが出来へん悪人(真のキリスト者ではない人全員)はどうなるのかについての質問を主イエスにしました。すると、主イエスが、悪人たちの死体は、はげ鷹と同じ場所にいると答えられました。その様子は、ヨハネの黙示録十九章二十一節にも書かれています。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 十九章二十一節(拙訳)

そして、残りの者どもは、馬に乗っている方の口から飛び出る剣で殺され、すべての鳥は彼らの肉で満たされた。

 

以上より、真のキリスト者ではない大多数の人々の末路が明らかですね。聖書を誤解釈する人々は、キリスト再臨後、少なくとも七年間は悪人たちに悔い改める機会が与えられるという作り話がありますが、聖書のどこにも根拠がありません。このような考えは、今は世俗的に暮らして、少しは苦難を経験するけれども、七年の大艱難の時にもう一度機会があるから、その時に悔い改めて天国に行こうと考えているのでしょう。秘密携挙を信じている人は、最後の大艱難が始まる前に携挙されると考えているので、大艱難を免れると主張します。しかし、上述のとおり、聖書に反しています。二度目の機会はありません。今すぐ悔い改めなければ間に合いません。キリスト再臨の前に悔い改め終えて準備が整っていないと救われへんのです。

引用ここまで

 

🔵上記👆記事からの学び

 

神は最終的には、悪が一切存在しない世界の構築を予定されておられるので、今いる地上の人間すべてに対して、神につくのか、それともサタンが支配する人間たち(権力者たち)につくのか選択するために艱難を与えられる。

・大艱難は、全世界の人々の品性と信仰の不動さを証明するため。

・神の掟を守る主イエスの信仰を持って、世に倣わない非常に少数の真のキリスト者だけを対象に、すべての人間が持つ肉の弱さから来る誘惑(死にたくない、命の危険を避ける動物的な本能)に負けない強さを主イエスからいただける。 

・救われるというのは、肉体的にではなく、魂が救われるという意味。

・二度目の機会はなく、キリスト再臨時がいつか分からないので、常に準備を怠らないようにしておく。

・キリスト再臨時には、それより前に救われるか否かの審判は既に下されていて、下した審判を基に救われるべき人を迎えに再臨される。

・神を否定する者や無神論者と他の神や偶像を崇める者、信仰が浅く脱落する者は、死後肉体的にも滅び、魂も滅びる運命。

 

現在、世界中で災害や戦争、飢餓等が起こり、暮らし難い状況となってきました。これから先のことを思い巡らすと憂鬱な気持ちになってきますね。しかし、神が御計画された事は必ず成就されます。殉教する人も最後に携挙される人も神は人数を決めておられるので、その人数に達したらキリスト再臨があるのですから、最期を迎えて殉教する真のキリスト者は、自身が殉教することで、キリスト再臨が一歩近づいたと思い、復活に希望を持ちましょう。

主イエスの品性に近づき、完全な者となり、人々の前で主イエスの証をし、栄光を携えて、天の父なる神の御前に揃いましょう。

 

🌿旧約聖書 イザヤ書六十一章一節 (参照) 

わたしの主なる神、神の霊が、わたしの上におられる。何故なら、主はわたしの頭の上に聖油を注がれ、(イスラエルの)苦しんでいる貧しい者に良い便り(福音)を伝道するために。彼(主なる神)は、わたしを心が砕けた苦境(傷)を慰め包むために遣わされた。そして、囚われ人に自由を、縛られている者に解放を宣言する。

 

 

主イエスの御言葉を信じて、今の内から日々悔い改め続け改善しましょう。

皆さんに平安がありますように。

 

以上