詐欺がなくならないのは、単に犯人の手口が巧妙だからではない。「信じる」という美辞麗句の裏にある、“自分で考えない他人任せの姿勢”が、被害を生み続けているのだ
「詐欺師は無差別に人を狙っているわけではない」と語る。むしろ彼らは、騙しやすい相手を見極めてターゲットを選んでいるのだという。
今一度ここで考えたいのは、詐欺を仕掛ける人は「誰を狙うのか」です。
例えば、ホームレスの方をターゲットに詐欺を仕掛ける詐欺師は恐らくいないでしょう。うまくいっても実入りが少ないのでやるだけ損だからです。一方でリテラシーが高く、自らの才覚で財産を築いた人に対しての詐欺は、上手くいけば実入りは多いのかもしれませんが、きっと警戒されてなかなか騙されてはくれないでしょう。下手をすれば、逆に罠にかかって捕まる可能性すらあるので、できるだけ避けたいはずです。つまり、厳しいことを言うかもしれませんが詐欺のターゲットになりやすいのは「自身のリテラシーと比較して分不相応に資産を持ってしまっている人」だと私は考えています。
自分で考えず、他人任せ運任せにして作り上げた資産は「あぶく銭」でしかないのです。その資産形成の過程ではリテラシーが鍛えられているとは言えません。だからこそ、あぶく銭はあっという間になくなってしまうのでしょう。
リテラシーが低いと、誤った情報を信じて拡散してしまったり、騙されたりします。つまり、リテラシーとは「情報を処理し使いこなす能力」であり、実は現代のような高度な情報社会においては、生きていくうえで重要な能力だと言えるのではないでしょうか。
ただし、リテラシーは現代において重要な能力にも関わらず現代ならではの格差が生じやすい土壌があります。それが「スマートフォン」の存在です。
スマートフォンでSNSやニュースを開けば、自分の好みの言説のみが表示され、自分で考えずとも、同様の思考を持った人々と通じる世界で「私の考えは正しい」と思えてしまいます。「自分とは異なる意見には触れにくい」「自分で考えなくても楽に生きられる」という世界では、非常に居心地が良く楽な一方で、リテラシーが自然に鍛えられることが少なくなっている、と危惧しています。
私はよく自戒を込めて自分に言い聞かせるのですが、「自分がわかっていないことをわからない」という気持ちを常に持つようにしています。「我以外皆我師」という姿勢をもっていればこそ、自分と意見が異なるものでも関心をもつことができ、リテラシーを鍛えることに繋がると考えているのです。ただし「師の言うことは全部正しい」というわけではありません。あっちの「師」とこっちの「師」は言うことが違うもの。だからこそ、必死に足りない自分の頭で考えて、判断をしていかなければならず、その過程でこそリテラシーが鍛えられていくのだと信じています。
詐欺師の立場になって考えてみてください。彼らは騙すためにコンタクトを取ってきているので、騙しにくい人の相手は時間の無駄で相手にしたくはありません。
他人任せにせず自分で考え、行動しようとしたのです。こんな面倒な人の相手をしていたら、詐欺師側はボロを出してしまうかもしれません。当然、もっと騙しやすい人のところに時間を使いたいと考え、電話は切ったのでしょう。

