2014年の朝日新聞社の社長=木村伊量。
「(慰安婦問題に関する記事の)間違いを認めるなら謝罪すべき。訂正は遅きに失した」
と批判するコラムを執筆したが、
社長が難色を示し、掲載は見送りとなった。
ウィキ
・2012年6月26日、朝日新聞社代表取締役社長に就任。
秋山耿太郎から2代続けての政治部出身の社長だった。
・政治部長時代に北朝鮮が拉致問題を認めた際、
拉致問題は棚上げし、日朝国交正常化を進めるよう署名記事で主張を提言
・中央日報によると、2014年10月に東京で開かれた韓日言論人フォーラムで、
「韓国は日本の兄のようだ」と語った
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https://news.yahoo.co.jp/articles/ddf7c37c1ad2b5fedec4305f56a3134ea4640cca
52歳で「朝日→ファーウェイ」に転職した男の活路
・記事抜粋
2020年春、朝日新聞社の管理職だった田島幸治さん(54)は会社の希望退職募集に応じて退社した。
52歳で転職したのは、アメリカの規制で窮地にあった中国の通信機器大手ファーウェイの日本法人
「ファーウェイ・ジャパン」だった。
バブル期に朝日新聞社に入社し、経済記者としてキャリアを積んだ田島さんは2014年、
「慰安婦報道の記事取り消し」「池上コラム不掲載」「吉田調書報道の記事取り消し」で
大炎上した同社の広報部次長として、危機管理の前線に立った。
一連の問題を受けて当時の社長は辞任し、朝日新聞社は窮地に陥った。
「外部からの批判を押し戻すのも広報の手腕と思っていたが、間違いだった」
と反省した田島さんは、不祥事の後始末が一段落した後に広報のスキルを一から学び、
次第にセカンドキャリアを意識するようになったという。
・
田島さんは慶応大学を卒業後、1992年に朝日新聞社に入社。
記者時代は経済畑を歩み、バブル崩壊や、ライブドアと楽天のプロ野球参入競争を取材した。
新聞記者は40代で「デスク」と呼ばれる管理職に就き、取材現場を離れるのが一般的だ。
その後、一部が総局長・支局長と呼ばれる地方拠点のトップや本社の部長に昇格し、
50歳前後で多くが関連会社も含めた編集以外のポストに移っていく。
田島さんは福岡でのデスクを経て、佐賀総局長を務めた後、2014年4月に47歳で広報部次長に就任した。
「総局長までやったし、まずまずの会社員人生だと受け止めていました」と田島さん。
広報経験はなかったが、新聞記者は企業や行政の広報担当者との付き合いが多く、
「そこまで忙しくない部署だし、私も会社も、見よう見まねでできると考えていました」
しかしそれは大きな間違いだった。
2014年、朝日新聞社では不祥事が噴出する。
同紙は8月に慰安婦問題に関する検証記事を掲載し、
1980年代から1990年代に掲載した16本を取り消した。
ただ謝罪などはなく、週刊誌や他紙からバッシングを受けた。
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同紙で連載を持っていたジャーナリストの池上彰さんは
「間違いを認めるなら謝罪すべき。訂正は遅きに失した」と批判するコラムを執筆したが、
社長が難色を示し、掲載は見送りとなった。
ところが、この対応にも、他メディアからの批判が続出。
同紙は方針転換して池上さんのコラムを掲載したが、時すでに遅しで、炎上はさらに激しくなった。
・
問題はさらに続く。朝日新聞社は5月に、2011年の東日本大震災発生時の
東京電力福島第一原子力発電所所長・吉田昌郎氏(故人)に対する
政府の事故調査・検証委員会の聴取記録「吉田調書」を基に、スクープを報じた。
だがその後、記述を巡って他紙から次々に反論され、記事取り消しに追い込まれた。
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9月11日、朝日新聞社の木村伊量社長(当時)は記者会見を開き、
吉田調書の記事を取り消すとともに、慰安婦報道と池上コラム不掲載について謝罪し、
責任者の処分を発表した。
この日から2015年1月5日までの4カ月足らずで、3つの問題に関して計5回の記者会見が開かれ、
田島さんら広報部のメンバーは記者会見の準備、取材対応、
そして経営陣との調整に翻弄されることになった。
・
吉田調書を検証した報道と人権委員会(PRC)、慰安婦報道を検証した第三者委員会は、
その後まとめた見解や報告書で、
経営陣だけでなく、経営陣の誤った判断を止められなかった
組織の責任も大きいと指摘した。
「当時の朝日新聞は、
自社媒体で検証することで説明責任を果たしたと考えていました。
私たち広報も、外部からの取材は押し戻すものという感覚で、誠実に対応したとは言えませんでした。
私は自分がだめな広報であることにも気づけていませんでした」
問題の検証が一区切りした2015年春、田島さんと広報部長は外部団体が実施する
広報初心者向けの実務研修に参加した。
参加者の多くは20~30代で、部長が最年長、田島さんがその次だった。
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朝日新聞社は2014年の不祥事によって、多くの読者を失った。
だが、それがなくても新聞業界は部数、広告収入ともに苦境が続いている。
2010年代以降、マスコミ各社は人員整理に着手し、朝日新聞社も2019年末、
45歳以上の社員を対象に希望退職者の募集に踏み切った。
広報部からオリンピック・パラリンピックスポーツ戦略室の次長に異動していた田島さんは、
迷わず転職活動を始め、広報責任者を探していたファーウェイ・ジャパンに応募した。
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ファーウェイは2018年冬に副会長の孟晩舟氏がカナダで拘束され、
安全保障上のリスクから5Gの参入で国際的に排除の動きが加速していた。
だが、田島さんは
「朝日新聞での記者経験、そしてうまくできなかった広報経験の反省を生かして、
大変な状況にある企業の危機管理に関わりたいとの思いがありました。
ファーウェイは情報を盗んでいるとの疑惑もありましたが、
自分でいろいろ調べてその心配はないと判断しました。」と気にしなかった。
2020年春、田島さんは約30年間勤務した朝日新聞社を52歳で退社し、
ファーウェイ・ジャパンの広報部長に転じた。
今は中国人3人、日本人2人のチームで、日本メディアへの情報発信を行っている。
田島さんは「伝統的な日本企業に長くいたから、次は全然違う環境でやってみたい」と、
外資とスタートアップを選んで応募していたが、「今思えば甘かったです」とも苦笑する。
「中国企業と日本企業ではKPI(業績評価指標)の考え方が全然違います。
多くの日本企業は『言い訳をしたり手柄を自慢するのはみっともない』という
価値観があるでしょうが、それは周囲が陰の努力を見て、察してくれるからです。
ファーウェイでは自分が会社にどんな貢献をしたのか、
わかるようにアピールしなければいけない。
その環境はまだ慣れなくて、中国人の同僚にフォローしてもらっています」
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