AI相手には、闘いになりません☆ | 札幌 家庭教師・物語作家わたなべ~小どもたちへの手紙~

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こんにちは。今日は久しぶりに記事を書いてみようと思います(^^♪


先日、一緒に勉強している生徒さんの学校課題で、来るべきAI時代について学ぶものがありました。

 

 

レポートを簡単にまとめるものだったのですが、その生徒さんはAIの台頭で消滅する仕事について、というテーマで文章をまとめていました。


 いろいろな分野で失われる職種が挙げられていて、なるほどと思ったのですが、「学び」の観点から再度確認できることがあると感じたので、今日、少し書いてみますね。


以前にも書きましたけど「学び」とは何でしょうか?


知識の習得、技術の習得、人格の陶冶などたくさん考えられます。これらのいずれも大切なことだと思います。

 

 

テストで得点を狙うための作業だって、そういうものとして自分で納得できていればすばらしいでしょう。



AIとの関係で見ていくと、知識や技術というのはAIに取って代わられる可能性はありますね。


Google先生にお尋ねすれば何でも答えてくれます。専用のコンピュータ、機械ならば正確に再現性高くさまざまな製品を生み出すことができます。


ここから、知識や技術のある範囲の事柄については、人間よりAI、コンピュータの範疇になるとも考えられます。


他方で、大雑把にいいますけど、人格的なものは人間性そのものに関わるから、やはり人間が担うべき分野だ、と。
 

 

 


しかし、ここで立ち止まってみましょう。知識を学ぶとき、僕たちは知識だけを吸収していますか? 

 

 

英単語を覚えるとき、綴りや意味、発音「のみ」を身につけているでしょうか。


答えはNOのはずです。


単語帳の手触り、そのとき耳に入る音、遊びたいのに単語を覚えなきゃという不満感、ようやく終わるという安堵、途中でお遣いを頼まれる面倒さなど、それぞれに応じた体験が必ずあります。


これら自分なりの体験を経ながら、僕たちは単語を記憶したり、テストを受けたり、面接に臨んだり、設計図を描いたり、オンラインミーティングに参加したり、大会に備えたりするのです。


だから、「知識の吸収」といって、ひとくくりに出来る作業が実際に存在するわけではないと考えられないでしょうか。

 

 

僕たちが例えば「AI台頭で消滅する」という観点から議論したいときに、「知識系」というカテゴリーを立てるだけなのではないでしょうか。



この議論はさしあたり措いておくのですけど、つまり、僕やあなたが普段「知識の吸収」「単語の勉強」と認識している活動は、本当はそれ以上のものなのです。

 

 

僕たちが、いつの間にか自分のイメージによって区切っているのではないでしょうか。


同じ時間におやつをつまんだり、ジュースを飲んだり友だちとLINEをしたりもするけれど、それはそうと「単語の勉強はめんどい」とか(笑)


こう考えてくると、AIと人間の住み分けは明らかであるようにも思えてきませんか(^^)/ 何をするにしても、僕たちの向き合い方、精神が(根性とかでなく)ポイントなのですから。


「知識の吸収」と呼ばれる作業に、どのくらい広がりを見出すか、味わうか。

 

 

従来型の学習も、新時代の学習も、人間が形作られることに変わらぬ有効性を持っているはずです。


その奥行きが存在するということを、あらゆる物事について感じていくこと、それこそが「学び」なのではないでしょうか。



しばらく前に書いたことと同じ結論になってしまっていますが、やや異なる視点から検討してみました。もし何か参考になれば幸いです。


ここまでお読みくださってありがとうございました!
またよろしくお願いいたします☆



わたなべ