先日帯広に行ってきたけれども、旅の楽しみの一つは、帯広地域の某霊園にある「またねの墓」を見ることだった。

 随分前にあちこち霊園散歩をしていたときに見つけた墓石で、大きな黒い石板が横たわり、その前面にただ「またね」と大きく彫られていて、文字の下方には幾つもの花が跳ねるように咲いている。

 石の後ろ側を見ると、65歳で亡くなった夫のために奥さんが建立した墓であることが判る。

 65歳である。

 そういえば、私も今、65歳である。

 65歳で死ぬ人も、もちろん、いるのである。

 癌だったのか、交通事故だったのか、あるいは何か別の原因だったのか、は、もちろん墓石は教えてはくれない。

 前回、この「またねの墓」を見つけたときには、献花は無かった。今回行ってみると、黒い石の両側に設置されている灰色の大きな花瓶には、白や黄色や赤の美しい花が飾られていた。きっとつい最近、奥さんがやってきて活けて行ったのだろう。

「またね‥‥」と呟きながら。

 

 また会おうね、それがこの墓石のメッセージだろう。

 あの世でまた会えたなら、それはどんなに素晴らしいことだろう。

 しかし、残念ながら、あの世は無いだろう。

 人はこの世だけで消えてしまうだろう。

 

 同じ霊園に、「無」とのみ彫った墓石もある。これは、その下に小さく✖️✖️家と彫ってある。以前この墓石を見た時には、この「無」は「ゼロ」の意味かと思っていたけれども、今回は、「無常」の「無」であると気付いた。

 すべては移り変わり、常在不変のものなどは存在しない。これを押し広げてゆくと、極楽や地獄やあの世というものすら・そうした「常在」するものすら、本当は存在しないことを理解することができる。

 もし常在するものがあるとしたら、それはこの宇宙の中にあるエネルギーである。物質はエネルギーの一形態である。そしてエネルギー(物質)が存在する理由は、不明である。そうしたエネルギーの移り変わりの中で、ひととき、ひとの意識が生まれ、男と女が存在し、そして相手を失った遺されたほうが、心から、「またね・また会おうね」と願う。その不思議さ、その幸せさ、その穏やかさ、を教えてくれるのが、この「またねの墓」である。

 

「またねの墓」を眺めていると、一人の男と一人の女が共に人生を歩み、笑いや涙や口論や抱擁や、その他もろもろのことがあったのだろうな、と勝手に想像することができる。「共に生きた・共に長い時間を生きた」から、こうした墓石が現前することになったのだろう。

 私の場合は、2013年1月に前の奥さんが亡くなり、それから2年くらいは何もする気になれず、その後は登山仲間の友人と2人で本州各地の山を登り(北海道のめぼしい山には2人で登ってしまっていた)、それから偶然、「台湾美術館旅行」に参加してから、糸の切れた凧のように海外旅行のツアーに一人で参加するようになった、3年間に30回ほど。

 今の奥さんと知り合ったのは、2019年8月である。

 30回旅行していても、それほど楽しいと思ったことは無かった。楽しい、というよりも、死ぬまでの時間潰しに旅行しているようなものだった。前の奥さんが亡くなって、まるで「捨てられた犬」のような惨めな気持ちで主にヨーロッパに旅行を繰り返していた。その「捨てられた犬」を拾ってくれたのが、今の奥さんである。

 

「またね」は無いだろう。

 やがて、どちらかが、病気か、事故か、あるいは何かの原因で先に死ぬことになるだろう。

 それが何時かは知らないけれどもそれが必ずやってくることだけは知っている。

 いつか、どちらかが先に死ぬ。

 だからこそ、今日という日を、精一杯楽しみ、味わい、穏やかに微笑み合う。

 「またね」は無い、しかし、「いま」は有る。

 いまこうして二人で存在していることの幸福を噛み締めながら生きてゆく。

 その大切さを、「またねの墓」や「桜の墓」は、教えてくれるのである。

 霊園散歩は、だから、意義深いのである。