浅利慶太先生の訃報を聞いて一晩経ったけれど、思い出すと涙がこぼれます。


私がミュージカルの世界で生きて行く、その道の第一歩を作ってくださったのは浅利先生です。


 

子供の頃から劇団四季のファンでした。

大学在学中、3度目の挑戦で研究所29期生の聴講生として合格しました。

 

「君は音楽大学に入ったのだから、ちゃんと4年間行って卒業しなさい。それまではレッスンを聴講して、卒業したら毎日来なさい」

 

そう言っていただきました。

言われた通り、卒業後、毎日劇団のレッスンに通いました。

 

地獄でした。

 

バレエもジャズダンスも地唄舞も、未知の世界。

できなくて、悔しくて、情けなくて、毎日泣いてました。

 

初舞台は「夢から醒めた夢」の札幌公演。

 

かわいそうな子供のタイの子の枠だったけど、先生の計らいで、ソロのあるアジアの子とボスニアヘルツェゴビナの子を時々やらせていただくことになりました。

 


ある日、母が札幌まで観にきました。

そのことを知った先生は「お母さんが観に来るのならソロのある役をやりなさい」と言ってくださって、どっちの子供をやらせてもらったのかは忘れてしまったけれど、歌わせてもらいました。

 


私は八重歯がありました。

ある日劇団の先生のお部屋に呼ばれました。

 

「君の八重歯は遠くから見ると歯が抜けたように黒く見える。歌手なんだから人前で口を開くのだから治してきなさい。矯正はダメだ。時間がかかるから、病院を紹介してあげるから抜いてきなさい」

 

言われた通り、4本抜いて差し歯にしました。

健康な歯を抜くなんて・・・矯正がいいな、と思ったけれど、先生のおかげで(差し歯ではあるけれど)きれいな歯並びになりました。

 


またある日、ニッセイ名作「人間になりたがった猫」に出演中、突然大町に行くことになりました。

 

「来週の水曜日のマチネに出すぞ」

 

この一言で、いきなり私のシラバブデビューが決まりました。

 

大町では先生を初め、一緒に行ったシラバブの先輩方に一つ一つお稽古していただいて、あざみ野に戻ったその日からは先輩方に1対1で朝から晩までお稽古していただいて、1週間でCATSシアターに行きました。

 


劇場では、早めに集まって私のために稽古と場当たりをしていただいて、6月下旬の水曜日のマチネにデビューしたことを今でもよく覚えています。

 

 

何をやってもどんくさくて、その上心も弱くて、先輩方に迷惑をかけた挙句、先生も失望させてしまって、反省文を書いたこともあります。

 

何度も何度も先生は私にチャンスをくださいました。

 

私はそれにこたえることが出来なかった。

弱くて弱くて、メンタルを鍛えなおす必要がありました。

 

 

1990年のオーディションから、1996年年末の大阪「美女と野獣」まで、6年間の在籍でした。

 

失望させてしまった先生に、いつか成長した自分を見ていただきたいと思ってこの歳になるまでずっとこの世界にしがみついてきたように思います。

 

先生にもう一度歌を聴いてもらいたかった。

 

 いつか戻る!


そんな気持ちが私の中にずっとありました。


この間「ノートルダムの鐘」を観た時にはもう亡くなられていたのですね。


あの作品を観ながら、やっぱり「いつか戻りたい」という気持ちがまた頭をよぎりました。



いろいろできなくて落ち込んでいる時、


 「紆余曲折あるけれど頑張りなさい。自分の時計を見なさい」


と言ってくださったことを今も時々思い出します。


四季で学んだことはとてつもなく大きなことだったなぁと、今改めて噛み締めています。



浅利先生ありがとうございました。


どうぞ安らかに。

ご冥福をお祈りいたします。





※デビューのための衣裳と鬘合わせの時に楽屋にて