文章をあれするための、あれ。 -28ページ目

文章をあれするための、あれ。

日々気づいたこと、考えること、知りたいこと、など。

自動販売機がこわい。




まずなんだか大きいところ。


どでーんと構えているところ。




そして多すぎるところ。


多すぎる、それにしても多すぎる。


最寄駅から自宅までの徒歩10分の間におよそ20機くらいはあります。


バイト終わりに炭酸が飲みたい!という欲求を節約のために抑えるのには一苦労するほどの数です。




まぁそんなところは我慢します。


こわいですが我慢できるこわさです。






なんといってもこわいのが、


新たに自動販売機が設置されたとき。




あやつはいきなり現れるのです。




ふといつものように帰り道を歩いていると


新入り自販機の存在に気づき ビクッ とします。




大きいから存在感がすごい。


「ウワァ こんなところに新しい自販機が!」と思います。




日頃から慣れ親しんだ何気ない道に新しく自販機が設置されると違和感がすごいです。


そうです、すごい違和感を感じるのですが、


一度その自販機の存在に気づいてしまっては最後、


もともとその道がどんなふうだったか、をうまく思い出せなくなるのです。


確かに違和感は感じる、だけど、前の景色もうまく思い出せない、


思い出すのに時間がかかる、思い出したとしてもそれは今みた景色から自販機を消したただのイメージを作っただけかもしれない。




日が経つにつれ、その自販機は景観になじんでゆき、


まるでずっと昔からそこにいたような振る舞いで立っています。




そのうち私も忘れてしまうのです。昔は自販機がなかった道だったことも。




帰り道というのは常々かわっていてつい最近近くに葬式会館もできたりしたのですが、


自動販売機というのはそういうのに比べると何気ないものなので、記憶を侵略しやすいのだと思います。




大したことではないのかもしれないけれど、そしてもっと他にもたくさんのことがそうであるのかもしれないけれど、


私は自動販売機が私の記憶を侵略してくるのがとてもこわいです。

共感するというのは私にとって難しいことの一つです。

自分も経験のあることならいいのですが、自分で体験していないと、どうにもこうにもそんなにわからない、想像はできるけど本当に体験していなかったら、そこで自分が思うことと他人が思うことはきっと違うし、、などという風にまぁ難しいのです私にとって共感するということは。


特に私はスポーツの分野においての共感が全くできません。

もともと私はスポーツが下手で嫌いです。何度泣かされたことか。

もともと成果の出ないことに努力するのが苦手なタイプ(母調べ)らしいので、

運動においては努力もしませんでした。たぶん。なのでスポーツに対して努力しているという姿をみても、共感するとまではいきません。


そんなわけで、スポーツ系のドラマ・映画・マンガ・小説にまず興味がないですし、見ても読んでも「すごいなぁ~」で終わってしまいます。涙を流す人がいますがわけがわかりません。


高校生の時に、「ルーキーズ」という野球ドラマの劇場版の鑑賞券を友達が持っていたので、一緒に見に行かせてもらったのですが、

熱い市原隼人とその熱い仲間たちが、甲子園出場かなんだかを決めたシーンで

横を見ると友達が泣いているではないか!?と大変驚きました。どこで泣くんや!?と全く理解ができませんでした。むしろ私がそのシーンで良いなと思ったのは、報道陣のカメラマン役の人が柵から身を乗り出し写真をとっていたとこです。なかなか身体を張ったリアルな演技だな~とその人に興味がわきました。


こんな風にいつもスポーツをする人に対して、共感することはあまりなかったのですが、

昨日の入浴中はハッと、スポーツ選手の思いが自分もわかるような出来事がありました。


リンスーを洗い流していたときのことです。

順調に洗面器でお湯をすくっては頭に流し、という作業を続けていたのですが、

次のすくいで私は少し大目のお湯をすくってしまいました。

リズムが乱れました。

いつもならそこでぐっと耐えて頭に流すというところまでこぎつけるのですが、

バイト終わりの0時、そしてシャンプーという第一関門を終えてのリンスーであったので、

腕が疲れていたのかと思います。

頭の上までそのお湯がたっぷり入った洗面器を持ってきた瞬間、

手から力がぬけ、洗面器がひゅるりと落ちていってしまう!!


スローモーションになりました。

頭が!頭が危ない!と思いました。

幸いなことに頭にはあたらなかったのですが、どうなったかもよく覚えていません。なにせびっくりしていたものですから。ただ頭に当たらなくてほっとしたと同時に、今まで私が手で感じ取っていた洗面器との信頼関係がなかったもののようにおもいました。


茫然としていてもしょうがないのでそのまま次のステップからだを洗うに進みましたが、

私はやはりショックを受けていました。


そんなとき、ふと、リレー選手のバトン渡しもこういう感じなのではないか、と思いました。

バトンを渡すのに失敗してすぱっと手から落ちていくあの感じ、きっとあれと一緒だ!と!

悔しい気持ちにも差はあれど、きっと一緒だ!と思いました。

私は自分の腕をつかってお湯を頭へとリレーしているのです。


こんなことを書くと絶対違うやろと思われそうだなとも思います。

実際に私も大きく違うとは思います。

でも、それでも何か同じようなことは感じられたような気がします。


共感は全く同じようなことをしなくても、

同じような気持ちで何かをすることでだってできるのだなぁと思いました。

今、授業での発表に向けて、フランス文学作品にでてくる詩の精読にチャレンジしているのですが、少し壁にぶち当たってしました。

問題は "complaisance" という単語。
私は詩の中でこの単語がどのような意味を持っているのかがいまいちわかりません。

辞書によると、意味は


①好意、親切

②愛想、こび

③うぬぼれ、自己満足


とあります。


初めて耳にする単語がこのようにいくつかの意味を持つ場合、 理解するのがとても難しいです。


日本人の私にとっては「親切」と「媚び」は別のものなのですが、フランス語ではひとつの単語が両方の意味を持っているのですね。


フランス人はじゃあ状況にわけて意味を考えながら使い分けているのでしょうか?



日本語でも複数の意味をもつ単語はたくさんあります。


わかりやすいたとえでいうと、「やばい」。

良い意味でも悪い意味でもありますね。


例1「勉強してなさすぎてテストやばい」

例2「矢沢永吉のライブ当選したやばい」


例1では悪い意味、2では良い意味で使われています。


では私たちは状況にわけて意味を考え使い分けていますか?


たぶんそうじゃないんだと思います。


その状態がもう「やばい」状態なのであって、言うときにいちいちこれは悪い意味のほう、とか、良い意味のほう、とかそんなこと考えてないのだと思います。「やばい」は「やばい」なのです。


ただ「やばい」は「良い意味でやばい」とか「悪い意味でやばい」という言い方をする場合もあるので、多くの人が「やばい」にはいろんな意味があるということを認識しているような気もします。


では「前」はどうでしょうか。


「前」といわれるとまず、「目の前」や「前にあるビル」とか存在(状況)としての「前」が私はまず浮かびます。

しかし「前」には「前に買ったハンカチ」などという過去のことを表す意味もある。


私がこれに気づいたのはフランスに行っているときでした。

フランス語では「存在(状況)の前」は「devant」で「過去の前」は「avant」。似てますが違います。

フランス人にとっては「devant」と「avant」は別のもので、言い換えることはできないものです。


それまでは「前」ということばがいろんな意味を持つことにさえ気づいていませんでした。

「前」は「前」だったのです。もちろん今もですが。


「前」は「前」であって、言うとき書くときにいちいち考えませんよね、自然に出てくるというか、、頭に「前」というものが存在するというか、、。



だから、日本語では様々な意味をもつ外国語の単語は辞書でみるだけでなく、実際にその言葉が使われている状況を何度も経験することで、その言葉の意味が自分の中で育っていくのかなぁと思いました。


若者言葉の「詰んだ」も最初は意味がよくわかりませんでした。友達には「追い込まれる、とか終わったとかそんな感じ」と説明されたのですが、それでもよくわからなかった。

その後、みんなが使っているのを見聞きするなかで頭のなかにもわ~っと「詰む」というものがあらわれてきたような気がします。



余談ですが、今フランスでは、より多くの留学生を呼び込むために、大学の一部の授業を英語でやるという法案が議論を呼んでいます。


反対派の意見でこのようなものがあるそうです。

「その英語は貧しい英語だ」

つまり、ただの情報伝達の英語であり、ただの手段としての英語、人工的な英語だというのです。


フランス人の先生がフランス語で話すと、そのフランス語には彼(彼女)の歴史があって、豊かなフランス語ですが、その先生が英語で話すとその英語はやはりフランス語よりは薄い、貧しいものになってしまう。それで教育をするのはいかがなものか、ということだそうです。


こんな話を今日フランス人の先生から聞いて、悔しくなってしまいました。

私のフランス語はまだまだ薄っぺらく、小さな世界しかあらわすことができない。日本語と同じくらい豊かにするのは日本語を忘れるくらいにまでならないと難しいでしょう。

でも激しく納得もしました。そうなんですよね~~、そういうもんなんですよね。うむ。。


ただ私が思ったのは、フランス語をたくさん学ぶことで、

フランスという日本と大きく違った国の人々が、何をどのように考えているのかを少しでも深く理解できるようになればいいなぁと、そんなことです。


そんなことをいうと近くの日本人のことだって理解していないのに!という感じですがね。


まぁなにせフランスには心惹きつけられるので、これからも経験をつけながらいっぱい学んで、そこにさらに経験をつけてつけてつけて、自分のフランス語に歴史をもたせていきたいなぁとそんな次第です。


なんだか説明するのがとても難しかった。もっとうまく説明できるようになったらまた書こう。とりあえず記憶づけに。






朝、批判される夢をみる。その批判もその通りだった。あまりに図星すぎて起きたら泣いていた。ただもうなんと言われたのかは忘れてしまった。昨夜暑いからといって窓を開けていたが朝になると寒かったので閉めて、二度寝した。二度寝の夢はとても良かった。イケメンに気に入られて幸せな時間を過ごした。とても心地のよい夢だった。ただもうそのイケメンの顔は忘れてしまった。

起きたらごはんを食べようと思い、昨日母がつくった辛いスープがあったので温めた。その間おにぎりせんべいが目に入ったのでぼりぼりたべた。久しぶりに食べるととまらないおにぎりせんべい。
熱くなったスープをおわんに入れてリビングへ。テレビをつけると「せやねん!」がやっていたのでみる。京都の田舎に若手芸人が行き地域の人と交流したり、香川のさぬき市にあるトミーズ雅さんの別荘に若手芸人がピザ釜をつくったりしていて面白かった。野菜やお肉が入った辛いスープを食べていると母が「サラダもあるよ。」と言ってきたので、辛いスープを飲み終えたあとサラダを食べた。そしてヨーグルトとパンを食べた。そうこうしてるうちに「せやねん!」は終わって吉本新喜劇が始まった。おなじみの新喜劇のオープニング曲をききながら母が「この曲やっぱりいいよねぇ~」といっていた。私は「おじゃましますか?」の人、老けたな~と思った。そしてテレビを消して身支度をした。

図書館へ出向いた。本を二冊借りた。バイトまでも時間があるのでどこかでゆっくり本を読んだり発表の準備をしたいなぁと思い、会館にいくか、モスバーガーにいくか、家に帰るか、散々悩んだあと、100円セールをやっていたミスドに入ってドーナツを選んだものの席がなかったので、お持ち帰りにして近所の大きな公園へ行った。
公園にはたくさんの子供とその親たちがいた。天気がいいとやっぱり多い。私はよく外にあるテーブルとイスが一個になってるやつに座って本を読もうとしたけど蜂がきたし暑かったので日陰のベンチに移動した。図書館で借りた瀬尾まいこの「図書館の神様」を読んだ。ドーナツや持ってたお菓子を食べながら。瀬尾さんの本はすごく読みやすくてすぐに読んでしまう。でもしっかり心にのこる。2時間ほどそこで過ごしてバイト前に荷物を軽くしたかったので一旦家に戻っていらないものを置いて、なんとなく着替えて、家をでた。

バイトの休憩中に、よく行くおにぎり屋さんで夜ご飯を買おうとおもったら、沢山並んでいたので、下のお惣菜屋さんに初めて行った。そこでコンビニ弁当のようなものを買った。後悔をした。食べるとき。私はコンビニ弁当が嫌いなのだ。化学の味がするから。でも買ってしまったし化学はいつも食べてるんだから、と思って食べたら不味くはなかった。もう買わないですが。

今日はゼクシィを三冊も売った。なにせ今まで私は一冊もレジでゼクシィを通したことがなかった。しかし一日で三冊!!そういう時期なのですかね。来年のジューンブライドに備えて?


帰りは電車にベロンベロンに酔って車内に座り込む女の子とその友達2人が隣の車両にいるのを発見した。その3人は発車直前にこっちの車両に移動してきた。友達2人が「電車内、他に人もいるしやっぱり降りよう」と声をかけるも酔ってる女は無視した様子で結局そのまま発車。遠かったのでよくはわからないが、友達2人はすこしめんどくさそうだった。そらそうですな。
私は様々なシミュレーションをしたけどなんの訳にも立たなかった。

駅からは聞いてる音楽のリズムに合わせて歩いて家まで帰った。PVの主人公みたいな気分になる。

いい加減の加はとても優しい。


なぜなら、私たちがあるとき「いい加減」と書こうとし、誤って「加」を漢字でなくひらがなで「か」の「カ」の部分まで書いてしまっても、その「カ」を消すことなく、そこから「加」と書くことができる。なんて優しいのだろう。


わたしはつい先日この優しさを頂戴した。


脳内では「いい加減」と書こうとしていた。つまり脳は右手にそういう信号を送っていたのだ。

しかし私の右手は、惰性からか、「いい」につられてか、「加」でなく「か」と書きそうになっていた。

ありがたいことに、私の目が「あれま!右手が間違えて『か』と書こうとしている!」と脳に報告をしたので、完全に「か」と書いてしまう前、「カ」の状態で私の右手は止まった。「ゝ」は書かずにすんだ。不幸中の幸いだと思った。そしてさらなる幸せに私の目は気づいた。

そう、「カ」の状態からでも遅くないことに!まだ「加」にできることに!

その時、小さな、でも力強い希望と大草原のような優しさを「加」から感じた。幸せだった。

文字を書くという行為は一人でするものだけど、文字は私たちの味方なんじゃないだろうか。


「カ」から「加」と書けることで、人生は変わる。

そのまま「いいかげん」と平仮名で書いていては、読む人を 「加減」という漢字も書けないのか と幻滅させてしまうかもしれない。


「カ」からでも「加」と書けるという「加」の優しさに触れることで、また別の誰かに「加」のような広い心を持って優しく接することができるかもしれない。そしてそういうものはめぐりめぐって自分にかえってくると思う。


いろんなところに優しさはひそんでいるのだと気づいた良い日だった。