文章をあれするための、あれ。 -25ページ目

文章をあれするための、あれ。

日々気づいたこと、考えること、知りたいこと、など。

本を読んでいたら、たまに「満ち満ちている」という表現が使われていることがあります。

たとえば、

「このまちはふくまるへの愛で満ち満ちている」など。

考えてみました。

(ふくまるというのはゆるキャラです)



私はこの言葉がとっても好きです。

「満ち満ちている」が文にあったら心がきゅんとしてしまいます。


なぜでしょう。わかりません。


反復されることにより印象深くなっているから?

普段ほとんど使わない言葉だから?


それもありますが、

もう少し考えてみたところ、それは

言葉が言葉以上にその意味をぶつけてくるからではないかと思いました。


「満ち満ちている」は別にそこは「満ちている」と書いても大きく意味はかわりません。

強調されるだけです。

でも、その強調のために、わざわざ「満ち」をひとつ多く書くのです。その分すこし体力を消費するのです。

「満ち満ちている」と書くとなればその際は「道道ている」などと変換ミスをするリスクもあるのです。

そんなリスクを冒してまで、「満ち満ちている」と書く。と、いうことはそれほどまで筆者の思いが大きいことが想像できます。


つまり、「満ちている」や「溢れている」ではなく、あえて「満ち満ちている」が選ばれていることによって、

より「満ちている」感が増しているのをものすごく感じるし、

なにより筆者が「すごく満ちている」感を伝えたい気持ちもすごく感じる。


その筆者のリアルな気持ちがこの「満ち満ちている」からは伝わってくる気がします。


普段は使わないからこそ、簡単に出てくるような言葉ではないと思うのです。まぁそれはわかりませんが。


言葉は人によって持つ意味が違ってなかなか自分の思っているように伝えるのは難しいですが、

「満ち満ちている」はその言葉以上に、「満ち満ちている」ということを伝えることができる言葉な気がします。

これも私の思い違いで、ほかの人にとっては特別な意味を持たないかもしれませんが、

出来るだけそういう言葉をもっとうまく使っていきたいなぁと思う次第でございます。

最近は暑くてとてものどが渇くので、

出掛ける時も飲み物は必須です。


とくにバイトのときはレジで声を出し続けるので、

1回のバイトで500mlがまるまる一本なくなってしまいます。


なので無駄遣いしないように、家の浄水器の水をペットボトルにいれて持っていくのですが、

家から持ってきた飲み物って、コンビニなどで買った飲み物より小さく感じませんか?

同じ500mlのペットボトルであってもです。


目で確かめてみたり、持ってみたら一緒です。

でも、なんとなく自分の気持ちとして、

自分ちから持っていった飲み物のほうが小さい、量が少ないように感じるのです。


なんでだろう、


たぶん、家から持ってく飲み物はタダだからじゃないでしょうか。

家の水は無制限にあるイメージがします。


対して店で買ったらお金がかかります。

無制限に買えるわけではありません。


その点で、買った飲み物は崇高なものに感じる。偉大なものに感じる。


でも家から持って行った水も、アルプス天然水もいろはすも、

水の味に繊細でない私からしてみたらどれも同じ。


同じものなのに、頭の中でのイメージは違うのです。

このところの私の悩みはただひとつ、ニキビです。

ニキビはひとつできるだけでとんでもなく気分が下がるものですね。


そんなものがいくつかできて、しかもなかなかなおらない。

なおったと思ったらまた新しいのができる。


私は原因を考えました。


まず、食生活。

最近は間食をしなかったり、甘いものやジュースも前より飲まないようにしたりしています。

揚げ物も滅多に食べないので、食生活は健康的といえるでしょう。


つぎに生活リズム。

最近は日付がかわる前には大体寝て、(バイトの日以外)8時ごろには起きています。

毎日湯船につかり、あがってから簡単なストレッチをしてから寝ます。

寝つきも前と比べてずいぶんよいです。


あと、よくニキビの原因と考えられるストレス。

思い立つものはなく、一つあげるならばそれはニキビです。

ニキビがストレスでニキビができている、、のか?



こうやっていろいろ考えてみて、

生活をさらに改善してもニキビはできます。


なにがわるいのか?


わたしは違う面から考えてみることにしました。

それはこういうことです。


「健康な生活がニキビをうんでいるのでは?」




朝倉かすみの「感応連鎖」(講談社文庫)という小説に出てくる

墨川節子という女子高生は159cmにして95キロという肥満少女。


節子の母・和代は自分の娘を「セシルちゃん」と呼び過剰な愛をそそぐ。

そんな和代の顔は年々大きくなっていく。


娘に過度の夢を抱いて生きる和代のもとで育った節子は

いつしか少し冷めた目で和代を見るようになり、ある日こんな仮説を立てます。


「わたしを肥満させているのは、和代の思いの丈である。わたしが『夢の娘』になればいいという思いの丈が、わたしのからだと、和代の顔面の中身である。」

「わたしのからだと和代の顔面を膨らませたのは、わたしたちのやりきれぬ思いである。思い通りにならぬ思いが、膨張をつづけているのである。」


つまり節子の肥満と和代の顔面の巨大化の原因は、和代が節子に「夢の娘」になるように期待する思いであり、それが果たされないことのやりきれない思いなのではないかということです。




私も、こんな風にニキビの原因を考えてみました。


私が、19歳の女子大生にしては、あまりに健康的で婆臭い日々を送っていたがために、

私の潜在的な若さエネルギーというものがニキビとなってあらわれているのでは!?


そうかもしれない。と、いうことで、

ジャンクに生きるようにしました。

携帯さわって徹夜したり、天神祭に行ったり、鳥貴族で焼き鳥食べたりしました。


すると心なしか、本当にましになってきました。

嬉しいなぁ。


そんなことなので、やはり少しはジャンクさも大切にして生きていこうと思います。



ちなみに、朝倉かすみさんの「感応連鎖」は女子の自意識をえぐり描いた物語で、

あまりのえぐりようにゾッとしますがおもしろいです、おすすめです。

よく言いますよね。

夢は人に言ったら正夢にならないと。

だから良い夢を見て、それが現実に起こってほしいことならば、人に言うべきではないと。


私ふと思ったのですが、これ、デジャヴが関係しているのでは!?

デジャヴとは、一度夢でみたシーンが実際に起こっているような感覚のことで、

それは実は夢では見ておらず、脳が今見ているシーンを現在の引き出しでなく過去の引き出しに間違えて入れてしまうのが原因だとかそんな風に聞いたことがあります。


正夢にならないことと、デジャヴがどのように関係しているのかというと、つまりこういうことです。


昔、まだデジャヴの不思議が解明されていなかったころ、

デジャヴをみた人は、夢が正夢になったと思ったのではないでしょうか。

実際にはその夢は見ていないのですが、デジャヴという概念がなかったころはそれが正夢だったのでは!?


だから正夢にならないというのは、

その正夢というのがもともとデジャヴだからではないでしょうか!?


みた夢を人に言えば、わりとはっきりそんな夢をみたという記憶がつきますが、

言わなければ、すぐに忘れてしまうので、

デジャヴも夢で見たものと信じてしまう、、、。


少しわかりにくいかもしれませんが、こういうことではないでしょうか。


今からグーグルで検索してみます!


んー、、「正夢 言わない デジャヴ」や「正夢 人に言う デジャヴ」などで少し検索してみたのですが

大体がスピリチュアル系の話で、上のような謎について書いているものはさっと見た感じではみつかりませんでした。

検索でかかったブログにいったらBGMに犬の鳴き声が聞こえてきてこわくなったので検索は中止しました。そのブログの背景画像はフランダースの犬でした。あれはパトラッシュの声なのか・・?



とっても疑問に思うテーマなので、また誰かと意見を交換してみたいですね。

昔から一般的に伝わる正夢=デジャヴなのかもとも思ってきました。


つまりデジャヴの概念がなかったころは、

・夢でみたことを実際にそれが起きる前から覚えている

・実際にそれが起きているときに同じ夢をみたことを思い出す

このどちらもが正夢としてとらえられていたのではないかな~ということです。

今は前者が正夢で後者がデジャヴですが。


まとまりませんがメモ程度に。


あと母にブログ書いてへんの?と聞かれて

思いついたときに書くようにしてるねんこれは!と逆切れ気味に答えたのですが

ただテスト期間でちょっと忙しいふりをしていただけなので、

夏休みに入った今、急いで書きました。


ははは。少し書かないでいるともう文の書き方もわかりやへん。

雑多雑多

佐藤

「一般的な佐藤でよろしいですか?」


江角

「江角マキコの江角でよろしいですか?」


工藤

「図工のコウに、フジでよろしいですか?」


浦田

「さんずいの浦に田んぼのたでよろしいですか?」


村見

「村長のソンに見るでよろしいですか?」

※村長のイントネーションに注意(尊重と分ける)


玉森コーポレーション

「玉入れの玉に、森のもりでよろしいですか?あとはカタカナで、、?」


門林

「門出のカドに、はやしでよろしいですか?」


山内

「山のやまに内側のうちでよろしいですか?」


また考えて領収書に備えます。