三島由紀夫の『小説読本』(中公文庫)を読みました。
小説について三島が大いに語っておられまして、スラスラとは読めないですけど、得るところはとても多かったです。
圧巻は、柳田国男の『遠野物語』の第22話を引用して、如何に此の小話が素晴らしいか、また此の小話が〈小説にしか出来ない事〉をやっているかを語る箇所。
三島でなくても「三嘆これ久しう」するでしょう。成程、舞台では此の小話を再現出来ません。小説にしか出来ません。
「読後この世にたよるべきものが何一つなくなったような気持にさせられるものを秘めている不快な傑作」と称した深沢七郎の『楢山節考』を、恐ろしく読みたくなること請け合い!(←そういえば、今村昌平監督の映画も観ておりません)
小説と犯罪との密接な関係について語ってる部分が素晴らしい…
「それにしても犯罪の中にあるあの特権的な輝きは何だろうか。
(中略)
小説家の犯罪者的素質は、殺人よりもむしろ泥棒にあり、むかしから盗作はおろか、人の魂を盗むことは得手なのだ。
(中略)
成功した犯罪小説(私は『赤と黒』から『異邦人』までをすべて含めて言うのだが)は、作者が、現実の、あるいは仮構の犯罪から犯罪特有の特権的な輝きを、みごとに盗み了せることによって成功したのではないだろうか」
あとコレ、ちと長いんですが、落語にも共通する事を引用します…
「バルザックは毎日十八時間小説を書いた。本当は小説というものはそういうふうにしてかくものである。
詩のようにぼんやりインスピレーションのくるのを待っているものではない。
このコツコツとたゆみない努力の出来る事が小説家としての第一条件であり、この努力の必要な事に於ては芸術家も実業家も政治家もかわりないと思う。
なまけものはどこに行っても駄目なのである。
ある画家から聞いた話だがフランスに行って絵描きが何を学んでくるかというと、毎朝必ずキャンバスの前にきちんと坐って仕事を始める習慣だそうである。
この単なる習慣が日本に帰って来てから非常な進歩のもとになる」
あと…
「いくら私生活が修身教科書のようであろうと、小説に対して道徳的でない小説家は、不徳漢である」
とか…
「小説とはつくづく厄介な仕事で、情感と理智がうまく融け合っていなければならない。
それも情感五〇パーセント、理智五〇パーセントというのでは、釣合のよくとれた良識ある紳士にはなれても、小説家にはなれない。
理想的には情感百パーセント、理智百パーセントほどの、普通人の二倍のヴォルテージを持った人間であるべきで、バルザックも、スタンダールも、ドストエフスキーも、そういう小説家であった」
…と云う箇所に、深く深く感銘を受けました。
此の本から頂いた教訓を胸に、コツコツやっていく所存です。
そして今…コレを読んで読みたくなったバタイユを読んでます☆(←『楢山節考』ちゃうんかい!)