身をもって範を示した
十大弟子
お釈迦様のお弟子さんについては名前は知っているという人は多いと思いますがどういう人かというとあまり知りません。今回はそのお弟子さんの話・・・。
お釈迦様の弟子の中には「二大弟子」「十大弟子」と呼ばれる特にすぐれた高弟がいました。その筆頭にあげられるのが、舎利弗(サーリプッタ)です。般若心経はこの舎利弗(心経の中では舎利子)に説いている形になつています。釈迦教団において「智慧第一」と称されていました。長老として教団を支えた彼は、提婆達多の造反による教団分裂の危機に際し、身を挺して新人比丘五百人の離反を防ぎました。「法王子」とも称され、釈尊の後継者と目されていましたが、郷里で両親を仏教に導き、その地で、釈尊より先に亡くなりました。
釈尊二大弟子の もう1人、目連(モッガラーナ)は「神通第一」と称されていました。お盆の謂れ・・・目連が亡くなった母親を神通力をもって観ると母が地獄に堕ちて、飢餓の状態にあります。なんとか助けたいと釈尊に尋ねますと、雨期が明けた時、供物を供え懇ろに供養したら救われると教えられました。お盆も盆踊りもこのことに由来します。王舎城もバラモン(インドの階級の一つ)の出身で修行時代の友・舎利弗と共に釈尊に帰依して仏弟子となりました。しかし、釈尊の晩年、教団の隆盛をねたむ外道(仏教以外の自由思想家)の弟子に襲われ、命を落としました。
十大弟子の一人、摩訶迦葉 (マハーカッサパ)摩訶 とは「偉大な,多くの、すぐれた」という意味です。釈尊に重んじられた彼は釈尊の入滅後は比丘の上首(統率者)として、経典編纂(第一結集)の主宰者を務めました。
阿難(アーナンダ)は、釈尊55歳の頃、侍者に選ばれ、入滅までの25年間、身辺に仕えたため、説法を一番多く聞きました。それで「多聞(最も多く教え聞いた者)第一」と呼ばれました。経典編纂(第一結集)の時は、経蔵(経典集)の誦出者を務めました。
富楼那(プールナ)は弁舌(説法)がきわめて巧みであったため、「説法第一」と称されました。お釈迦様と生年月日が同じであったと伝えられています。西方の国に伝道に行き、多くの者を仏門に導いて、その地で釈尊より先になくなりました。
阿那律(アヌルッダ)釈尊説法の座において居眠りしたことを恥じて不眠の誓いを立て、これを断行したため失明してしまいました。しかし、これによって心眼(天眼)を開き、「天眼第一」と称されました。
羅ゴ羅(ラーフラ) お釈迦様の実子で、「密行(戒を綿密に守り保つ)第一」としょうされました。
優波離 (ウパーリ) 釈迦族の理髪師で、戒律の実践に秀でていたため「持律第一」と称されました。
須菩提 〔スブーティ) あの有名な祇園精舎を寄進したスダッタ長者の弟の子供で、「解空(空の理解が深い)第一」としょうされました。
迦旃延 〔カーティャーヤナ) 「論議第一」といわれ理論家として名前を知られています。 この「釈尊十大弟子」が仏教の範を身を持って示してくれたのです。