毎年子どもたちから届く『願いの移り変わり』を見ていく内に気づくことがありました。
『夢は変わっていく。』
『夢という曖昧でなく、もっと身近で現実的な事を願っている。』
といったこと。
『夢が変わっていく』。
昨年は野球選手になりたいといっていたが、今年はバスケットボールの選手になりたいと変わっていた、という子がいた。
被災地は野球をするスペースがなく、バスケットゴールを設置して遊ぶ家庭が増えたことが要因のようです。
環境が変われば、夢は変わっていくものですが、捉えた夢があるのなら、一歩も進むことができないジレンマは避けたいと感じます。
そのためには、夢に進めるヒントが大切だと思います。
一方、『夢でなくもっと身近な願い』。
代表的なのがゲームです。
3DSが欲しいといった女の子は、こんな理由を伝えてくれました。
(学校の友達がDSで遊んでいて、私も欲しいと思いました。)
これはゲームが、友だちとのコミュニケーションにおいて『共通の話題・手段』になっていて、これがなければ、友だちとコミュニケーションをとれない、ということになります。
学校にいけば友達はゲームの話しで盛り上がっているのに、自分にはまったくわからなかったら『仲間はずれ』になっちゃうかもしれない・・・これを恐れているのかもしれません。
2015年1月、島根県から神奈川県へ引っ越したご家庭の中学1年生の男の子が殺害された事件がありました。
もし彼が当初からあの不良グループとの関わりを避けていられたら、最悪の結果は避けられたかもしれません。
島根県から引っ越してきたあの優しそうな青年は、不良グループにとって格好のカモとなり、彼らの獲物をつつくような働きかけを避けきることができなかったのではないかと悔やまれます。
暴力を振るわれ目にあざができたりすると彼は、「家に帰ると家族に迷惑をかけてしまうから帰れない。」と友人にもらしていたそうです。
想像するに、山陰の田舎から都会に引っ越してきた彼には、都会への憧れと同時に、山陰の田舎にいた親切で暖かな人たちのような虚像というか、ギャップがあったのだろうと思います。
(ほんとうに悪い人なんていない。声をかけてくれた優しい友だちだと思う、思いたい。)
(あれもこれも自分が我慢すればいいこと。心配かけたら親に申し訳ない。)
彼の未熟な判断は、大人に知られる事なく・・・
昼があれば夜があり、生があり死もあり、私たちは他の生物の死をもって自らの生を保っている。
私たちは生きる為に、牛豚鶏などを殺し、血を抜き、体を引き裂きバラバラにし、焼いて食べていますが、これに対しては宗教的な理由でない限り咎める人を見たことはありません。
しかしこれが犬・猫・カモになると「悪事」になります。
一見すれば同じ現象でも、見る人が見れば、それは違う現象だとわかる、ということ。
子どもの視点と大人の視点、慈しむ事と蔑む事、愛と執着、というような違いを「それは間違っているよ。何故かというとね・・・」と諭す大人の不在、大家族の中でいれば見過ごされない事が見過ごされ(これは大丈夫、許される事)と誤認した歪に育っていく子どもたちの心。
いずれにしたって、現実に存在する事から目を背ける事はできない。
結果的にはいづれ、放っておく事もできない事になるのだから、向き合うべきだろうと思います。
弱いものいじめは最低の悪だと感じますが、行動心理学などの側面で言えば、それは成長の為の一過程だと聞いたことがあります。
しかし昨今、それが度を超した末、というのは良識ある大人の不在や見過ごしですが、自殺や殺人、命が失われる事態にまで発展してなお、残虐性は増してさえいるように思えます。
近くにいて、知りながらも放っておいた人たちは、直接的な加害者に比べて罪は軽いかもしれませんし、法的な罪には問われないかもしれませんが、倫理的にはどう捉えるのか。
もし今、向き合っていなければ、向き合わざるを得ない状況に遭うまで、向き合う事はないのでしょう。
近年の震災、土砂災害、噴火、台風など、自然災害に見舞われた痛ましい悲劇。
ひとつひとつを知りきることはとてもできない。
被災者、消防、自衛隊、警察、ボランティアなど、関わる方々は、助けられる命を助けられなかった事への激しい後悔、自らの不甲斐なさ、これまでの生き方、大切な人への態度など身をもって学ばれているのだろうと思います。
今はまだ、それらの方々が具体的に何を創りだしていっているのかはわかりませんが、手を取りあい、助けあい、分かちあいという世界をご自身で体現し、創りだされているのだろうと思います。
教育、防災、地域社会の変化の兆しとして、より良い予防措置、より高度で有機的な体制がとられはじめていると感じます。
災害対策への準備は進む一方、経済的困窮者に対する措置は進化が感じられないどころか、一部では意図的に生活保護を認可させないように誘導するといった真逆の現象があると聞いた事があります。
制度上の瑕疵なのか、ニーズに合っていないのか、声をあげられないような方々の声を拾っているようで、拾っていない、拾っていても政治の具にされているのが関の山、のように映ります。
一方、経済活動は、民間の手に委ねられており、経済活動を支援する公的な措置は様々にありますが、あくまで「平等に機会を提供する」にとどまっています。
最終的なセーフティネットは生活保護、ひとり親家庭に対する支援などですが、この対象となる貧困家庭のは半数は、活用しないか、できないか、していないという調査結果を知りました。
経済不安から脱却するもしないも、最終的には公的措置によってどうなるのでなく、「個人の責任に委ねられている」のが実態です。
一方、行政から手を差し伸べて積極的に支援を!と動くと、忖度だ!公平性を欠く!だの、騒ぎ立てる輩がいる。
行政はミスを嫌う組織なのだから、かのように騒ぎ立てれば行政機能が鈍化するのは自明の理なわけで、それを狙ってのことなのかもしれません。
少子高齢化、終身雇用の終焉、就職率の低迷、格差社会と、厳しい局面の中でどうやって生き抜いていくのか、多くの人は答えをもっていないでしょうし、政治家、経営者といった国家・組織を牽引すべきリーダーから、それを示される事もない。
生きるも死ぬも、富も貧も、自分次第、これを突きつけ続けられる自己責任の時代なのだと思います。
特に震災のようが悲劇に直面した多くの人は「生きる」事そのものに現代社会とのギャップに苦しむだろうと想像します。
理想とする生き方を見いだせない。
見いだせても就職先がない。
ほんとうにやりたいと思ったことは生活を成り立たせることが難しい。
など。
そして、そんな人を導く存在はなかなか見つけられない。
混迷の時代は、今、前例がない。
すべての人が、その脅威に直面しているのが実態でしょう。
この脅威に気づかなければ、問題として認識することすらできない。
ある日、「いままであった世界を突然に失う」ことを突きつけられる。
震災にまつわる様々な悲劇がありました。
今もそれは続いています。
地震と津波が来ることは、前々から知らされていたし、住民もわかっていた。
わかっていても、悲劇は起きた。
日々を生き抜くことで精一杯の世の中だから?
世の中には、あらゆる悲劇が起き続けている。
それでも、対応しない、備えない、かもしれない。
友達ができない。
学校に居場所がない。
スポーツも勉強もできない。
と嘆き引きこもる子ども。
やっと就職できた会社をリストラされた。
会社がつぶれた。
どこも雇ってくれない。
この社会に自分が生きていく場所はない。
と引きこもるくおとな。
このような家庭を「困難家庭」と呼ぶそうです。
独立行政法人国立青少年教育振興機構の調査では
http://www.niye.go.jp/files/items/307/File/taikennokaze_pamphlet2.pdf
「子どものころの体験が豊富であるほど、大人になってからやる気や生きがい、モラルや人間関係能力などの資質・能力が高い」
としています。
子どものころの体験とは具体的に次のようなことを指していました。
(このアンケート調査では選択式なので限定されています)
・野外活動(自然体験、動植物との関わり)
・地域活動(お祭りなどの地域行事)
・情操体験(お年寄りに席を譲る、いじめをやめさせる、家事手伝い)
・疑似体験(おままごと、ヒーローごっこ、など)
さらに、「子どもの頃の体験の多い少ないが、社会人になってからの年収と相関」している。
そして、「子どもが体験できることは、親(養育者)の実体験とほぼ重なっていて、親の実体験や自己肯定感は、その子ができる体験や自己肯定感に比例」している。
つまり子どもは親の映し鏡。
子どもは、親の様になっていくということ。
子どもの問題は親が抱えている問題であり、子どもが引きこもり、ニートである場合、親にもその要素がある。
親が経済不安を抱えていれば、子どももそうなりやすい。
もちろん、親御さんはその状況を打開したいわけですが、多くは公的なサポートの中に、それを解決できるものをみつけられていない。
3月11日、東日本大震災の命日に、あらためて心を寄せ、学びといたします。
合唱