今回はいろいろなツバキ、1月にはサザンカ系のものをいくつか撮りました。

 そしてツバキについて書かれた文章でちょっと面白いのがあったので転記します。

 『歴史の中の植物 花と樹木のヨーロッパ史』と言う本です。著者は遠山茂樹さんです。八坂書房刊。

 その中で「東洋からの贈り物 ツバキ」という章があります。

 

 

 ツバキ属(学名はカメリア)、東南アジアを中心に約250種あり、日本にはヤブツバキ、サザンカなどの4種が自生します。

 ツバキとチャノキはイエズス会の宣教師のゲオルク・ヨーゼフ・カメル(1661-1706年)の功績でカメリアと命名された。カメルは1661年にボヘミア(現在のチェコ)に生まれ1682年にイエズス会に入会、1688年にフィリピンへ、そこで特にルソン島で植物採集してロンドンの植物学者のジョン・レイ(1627-1705年)や薬剤師で植物学者でもあるジェイムズ・ペティヴァ(1663-1718年)に送って、その著書「フィリピン・ルソン島の本草および薬用植物」として書いたが、海賊により紛失、その後、ジョン・ルイの「植物誌」第3巻の付録として公刊し高い評価を得たが、中国や日本に来たことはない。

 

 

 ツバキを最初に記録したヨーロッパ人はおそらく1690年代に日本に来たドイツ人医師のエンゲルベルト・ケンペル(1651-1715年)とされる。ヨーロッパ人で最初にお茶を飲んだのは、ポルトガル人のイエズス会士ジャスパー・ド・クルツとされ、1560年に中国から祖国に送った手紙の中でお茶について触れ、その後、ポルトガルは茶貿易を開始し中国からリンボンへ茶葉を運んだ。また、中国からイギリスへ茶葉を運んだのは東インド会社で最初1650年にロンドンに着いた。東インド会社はチャノキをイギリスへ持ち込んで増やすとしたがなぜか中国人はチャノキの代わりにツバキを送った。そのツバキの標本は1700年頃、中国からジェイムズ・カニンガム(?-1709年)により王立協会のジェイムズ・ペティヴァの元へ送られた。カニンガムはスコットランドで外科医として東インド会社に入り、中国の舟山(チョウシャン)で活動した。

 ペディヴァは「哲学紀要」でチャの栽培のことなどを記した最初のツバキ、カメリア・ヤポニカのイラストが1702年公刊された。

 

 

 イギリスでは1739年以前、ロバート・ジェイムズ・ピーター卿(1713-1742年)の温室で栽培され、生きた花木として最初、そして何千種もある園芸種で最も人気が出た。その友人に園芸家のピーター・コリンソン(1694-1768年)がいた。当初、織物商人として北米・西インド諸島、1730年代に北米の植物、種子を輸入し、種苗商としても活躍した。植物採集家のジョン・バートラム(1699-1777年)と交流し、北米の植物を入手してイギリスで顧客を増やした。その中には著名人も多く、大物貴族のベッドフォード公爵やリッチモンド公爵、ハンス・スローン卿、カール・フォン・リンネ、アメリカ建国の父、ベンジャミン・フランクリン、植物学者マーク・ケイツビーなどです。

 

 

 ピーター卿のもつ大温室は当時世界一とされ、高さも9メートルもあった。このピーター卿に北米の植物を送ったのがアメリカ人、ジョン・バートラムで、農民から勉強してイギリス王室のご用達の植物採集家になった人物。この中でジョージア州原産で自生地では絶滅しているツバキ科の花木のフランクリンツバキがあった。北米から珍しい植物を送り、18世紀のイギリス園芸界でリンネは高く評価し、世界で最も偉大な植物学者と称賛した。

 

 

 1791年、ドレスデン近郊のピルニッツ城に神聖ローマ皇帝、レオポルド二世、プロイセン国王、フリードリッヒ・ブィルヘルム二世、ザクセン選帝候リードリヒ・アウグスト三世が集まり、フランス革命後のフランスを旧体制に戻すことを決めた「ピルニッツ宣言1791年」、この会議はフランスのブルボン王家を救うため王妃マリー・アントワネットが兄のレオポルド二世に頼んだとされる。そしてこの城に付属するピルニッツ庭に最初のツバキが持ち込まれた。スウェーデン人の医師、リンネの高弟のカール・ペーター・ツンベリー(1743-1828年)でツンベリーは1775年、オランダ商館医として来日し、その時にツバキ4種をロンドンへ送った。この1種がピルニッツ庭園に植えられて、現在でも健在で8メートルを越える高木になって赤い花を咲かせる。

 まだカンツバキ系が主役なので、代表をいくつか撮りました。
 ① 名前が「富士の峰」となっています。

 別名が「峰の雪」です。

 明治初期に関西で作出されたそうです。カンツバキ系です。

 

 

 サザンカは殆どが一重咲きですが、その中では珍しいものだったようです。

 

 

 

 

 ②これは「白腰蓑」という名前でした。

 

 

 この中心の花弁のような重なり・・。

 雄しべを花びらに変えて作られた品種です。

 

 

 これを「唐子咲き」というそうです。

 図鑑には「花芯の雄しべ全体あるいは葯が小さな花弁に変形した」とされていました。紅いのもあり「赤腰蓑」と呼ばれます。

 

 

③ これには「艶姿」という名札がついていました。

 これは「えにし」と読むそうです。

 

 

 これもカンツバキ系ですから、ツパキとサザンカの交雑種です。

 八重咲や千重咲きになります。

 

 

 これは作者がはっきりしていて、斎藤清房氏が杉山茂氏から自然結実の種子を得て実生して命名したとされます。

 

 

 「肥後サザンカ」です。

 

 

④ これは「初雁」です。

 初雁っていろいろなモノに付けられている名前です。

 昔の夜行特急列車にもありました。

 

 

 別名が「昭和侘助」といったり「柳葉侘助」や「雪中花」、「数寄屋侘助」というのもあります。

 

 

 一重咲きで、何といってもこの雄しべ、雌しべが「筒」のようにまとまっています。なので、筒咲きとかラッパ咲きと形容されます。

 それでも、歴史は古くて、江戸時代の中頃、1739年の「本草花蒔絵」に数寄屋の名前で載り、その後、1879年に初雁と改名されたそうです。

 

 

 

⑤は「玉芙蓉(タマフヨウ)」という名前でした。

 

 

 これも中心の蕊が弁化されていて、八重咲のような、獅子咲きのような、なんかとても複雑な感じです。


 

 

 

 なんか、ツバキ・サザンカの世界も八重や千重咲きが多くなっているようで・・

個人的にはちょっと?です。