李 聖彰の物語①
※この物語は2022-2023シーズンにインタビューした内容です
李聖彰がラグビーを本格的に始めたのは、東京朝鮮高校に入学してからだ。中学まではサッカーがメインだったが、高校からボールの種類を変えた。
「父が高校でラグビーをやっていたので、それが記憶として残っていたのかもしれません。高校のラグビー部では、伸び伸びやらせてもらいました。先生方にはめちゃめちゃ感謝しています。そこでラグビーをやらせてもらったからこそ、いまこうして東芝ブレイブルーパス東京の一員でいられるので」
花園に出場することはできなかったが、高校日本代表の候補選手に選ばれた。複数の有力大学が注目する存在となり、そのなかから帝京大学を選んだ。当時の岩出雅之監督から、直々に誘われたことが背中を押した。
「大学ラグビーを熱心に見ていたわけではなかったので、入学してから知ることになるんですが、帝京には僕のように高校からラグビーを始めた人は少なく、有名な高校から来た選手もいました。周りの選手たちが、ものすごくうまく見えました。自分のスキルに自信があったわけでなく、練習もキツくて。高校までは在日の社会で育ったので、寮生活も少し不安でした」
帝京大学ラグビー部は、上級生が率先して雑用をする。“脱・体育会”の気風だ。李が抱えていた不安は杞憂に終わる。
「上下関係が全然なくて、こんなにフレンドリーなんだって驚きました。毎日ガムシャラにラグビーをやっていたら、1年生からリザーブで、2年生からはスタートで使ってもらいました」
ナンバーエイトとしてチームのタイトル獲得に貢献すると、トップリーグの複数チームから声がかかった。
「帝京の1年だったときに、森田佳寿さんが3年で、森太志さんが4年だったんですね。森さんが東芝ブレイブルーパス東京へ入ることが決まったときに、『そんちゃんも来いよ』と言われて、それから東芝ブレイブルーパス東京というチームを意識するようになったんです」
東芝ブレイブルーパス東京のチームカラーにも惹かれていた。
「あるチームの採用担当の方からは、『チームが強くなっていくためにお前が必要だ』と言っていただいたのですが、日本で一番すごいバックローが集まっているチームでチャレンジしたいと思い、最終的にブレイブルーパスに決めました」
李が加入した当時のチームには、現在も所属する三上正貴やリーチ マイケル、日本代表の大野均や廣瀬俊朗らがプレーしていた。キャプテンは現コーディネーターで大学の先輩にあたる森田だった。
「均さんとかマイケルさんとかと一緒に練習することになって、『おおっ、すごいなあ』と。このチームで自分がどこまでいけるんだろう、と思いましたね。ニュージーランド出身のスティーブン・ベイツもいたんですけど、普通にバンと当たったら跳ね返された。それでイラっとしちゃって、そこから3回連続でベイツだけを狙ったけれど、すべて跳ね返されました。『ああっ、この人すごいなあ』というのが1年目でした」
加入4年目の18年シーズンから出場試合数を増やした。トッド・ブラックアダーHCが就任した同6年目の2020年シーズンは、開幕から6番と7番を背負って出場を重ねたが、新型コロナウイルスの感染拡大でリーグ戦が中止されてしまった。
翌21年シーズンは、ケガもあって1試合も起用されなかった。
「その前のシーズンは自分なりにバリバリ出た感覚で、7年目はケガもあったのですが戦力と見なされていないな、というのが自分の受け止めで。メンタルの落ち込みかたがひどくて、不貞腐れてましたね……」
練習には時間ギリギリに来て、キツいメニューはやり過ごした。
練習が終わると、自主練もやらずにすぐに帰った。
「そこでもう切られるだろうと思ったのですが、チームが残してくれた。僕にまだ求められていることが、試合に出ていなくても求められていることがあるんだと考えるようになりました。チームに残してもらっている以上は少しでも貢献しなければ、という思考に切り替えることができました」
続きはのちほど
※ソンチャン10年間お疲れさまでした。