W杯北朝鮮代表メンバー漏れも滞在「仙台のレジェンド」梁勇基が「同じ在日Jリーガー」から受けた刺激 | かっちんブログ 「朝鮮学校情報・在日同胞情報・在日サッカー速報情報など発信」

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「ベガルタ仙台のレジェンド」梁勇基がとことん追求したサッカーと影響を受けたサッカー選手たち

 

の続き

 

 

(引用元:Yahooニュースミョンウの記事より)

 

W杯北朝鮮代表メンバー漏れも帯同…「仙台のレジェンド」梁勇基が「同じ在日Jリーガー」から受けた刺激

 

 

 

 

↑Yahooニュース(ミョンウの記事より)

 

 

前編記事【「ベガルタ仙台のレジェンド」梁勇基がとことん追求したサッカーと影響を受けたサッカー選手たち】では「仙台のレジェンド」梁勇基氏のサッカーでの活躍、そして思い出を振り返ってきた。続くこの中編記事ではW杯を通しての成長など引き続き紹介していく。

 

勇気のいる大きな決断

 

 現役時代の梁勇基氏にも忘れられない試合がある。「2008年のJ1・J2入れ替え戦でジュビロ磐田に敗れて昇格を逃したこと、もう一つは南アフリカW杯に帯同しながら試合には出られなかったことです」。  仙台の歴史には忘れることができないであろうジュビロとの入れ替え戦はまさに死闘。ホームゲームを1-1で終え、その3日後にアウェーのヤマハスタジアムに乗り込んだ。仙台は2点のビハインドから、後半アディショナルタイムに梁氏が直接FKを決めて1点差に迫った。だが、最後は追いつけなかった。思い出せば悔しさが残る試合ではあるが、主力としてチームを牽引する立場から充実した日々を過ごしていた。それと同時に北朝鮮代表でポジションを確立するための大事な時期でもあった。  というのも北朝鮮は2010年南アフリカW杯アジア最終予選を突破し、44年ぶり2度目のW杯出場を勝ち取っていた。ただ、梁は同3次予選にはメンバー入りしていたが、W杯出場を決める最終予選には主力になれなかった。  当時、北朝鮮のキム・ジョンフン監督の堅守速攻スタイルでは、梁が中盤で攻撃センスを発揮するのは難しく、仙台のカテゴリーが当時J2ということも物差しになっていたとも聞く。決してハードワークや守備意識がないわけではないが、監督がチームにフィットしないと判断したのか、同じ在日Jリーガーの鄭大世安英学のように重用されることはなかった。  そこで問題になったのは、梁がW杯のメンバー入りができるのかどうかだったが、直前合宿に参加したが最終エントリーのメンバーには残れなかったのだ。予備登録でメンバー入りされず、最終的には在日本朝鮮人蹴球協会の強い要望で、役員枠で帯同することが決まった。  これは梁にとっては、ものすごく勇気のいる決断だった。それは役員枠だと帯同はできても、試合には出ることができないからだ。実際にはチームをサポートするだけになる。ベンチでピッチにいる選手のプレーを眺めているだけになるのは、仙台の10番のプライドが許さないのではないか。この時の心境を改めて梁氏に聞いた。  「(北)朝鮮代表がW杯に出場するチャンスはそうめったにあることでもないし、自分のタイミングとしてもプロサッカー選手をやっているところで、これは絶対に行かなきゃという気持ちも強かった。もしここで行かなかったら、そこで起こることを見ることも感じることもできない。行かなかったらすべて0で終わってしまうから。メンタル的には正直、簡単ではなかったです。南アの大会期間も一緒に練習もしていましたから、この悔しい感情をどうしたらいいのかっていうのはありました」

 

「先輩、そこまでやるんですか?」

 

この時、南アフリカに滞在期間のホテルで同部屋だったのが、元Jリーガーの安英学(アン・ヨンハ)だった。そこで得たものが、のちに財産となる。  「英学さんは(北)朝鮮代表でもバリバリのレギュラーだったので、同じ在日として頑張ってほしい気持ちはありましたし、一方で、自分のもどかしさや悔しさを発散するところがない状況でした。でも一緒に生活するなかでわかったのは、英学さんのサッカーに対する取り組み方が本当にすごかった。すべてをサッカーに懸けているという感じだったんです。もちろん自分もサッカーに関してはストイックに真剣にしているつもりではあったんですけれど、上には上がいました。部屋にいる間も例えばケアは怠ることはないし、サッカーに関わることをずっとやっているんです。『先輩、そこまでするんですか? 』とちょっと言いたくなるくらい(笑)で、本当にすごかったです」。  W杯に来たもののピッチに立てず、「選手としては受け入れたくない状況があった」なかでも、プロサッカー選手としてお手本のような先輩・安英学の姿勢は、のちにJリーグで戦う梁に大きな学びとなった。それに心を揺さぶられたのは、W杯での国歌斉唱だった。  「W杯の舞台で国歌が流れるのを聞いたときは、すべての不満も吹き飛ぶくらい感情が高ぶりましたよ」と振り返る。鄭大世がブラジルとの初戦で涙を流していた有名なシーンだが、「テセの気持ちは分かります。本当に込み上げてくるものがあって、ましてはあのサッカー大国ブラジルの横に(北)朝鮮国旗が上がる光景を見て『来て良かった』と心の底から思いました」

W杯で得た大きな原動力

幼少期に1990年イタリアW杯のビデオを見て、ストイコビッチに憧れた少年は、ピッチに立つ夢を叶えることはできなかったが、その現実を受け止め、学びに変えた。  「ブラジル、ポルトガル、コートジボワールの3試合は外からでしか見れなかったけれど、ほかの試合とは全然違いました。世界の選手ってこうなんだというのをもすごく感じたんです。自分でも仙台がJ1に上がり、チームでは気持ちよくサッカーをさせてもらっていましたから。ただ、このままじゃいけないなとも思いましたし、もっとJリーグでも圧倒的な活躍だったり、プレーを見せないとその上は行けないなと思いましたね」  W杯を経験することで、梁は一回りも二回りも大きく成長していた。「チームに還元するものもそうですけれど、自分に跳ね返ってくるものもあった。それが原動力になったのは間違いなくありましたね」。 実際、南アフリカW杯が開催された2010年はベガルタ仙台は2002-2003年以来のJ1のシーズンを戦っていた。スタジアムに響く梁の応援歌と「リャンダンス」を初めてこの目で見たのもちょうどその頃。10番の梁が存在感を放っていたのは言うまでもない。この中編記事では「仙台のレジェンド」梁勇基のW杯を通しての成長などについて紹介してきた。続く後編記事【「ベガルタ仙台のレジェンド」梁勇基の本音とアイデンティティー、在日コリアンとして、北朝鮮代表として】では在日選手としてのあり方、そして受け止め方など引き続き紹介していく。

金 明昱(スポーツライター)