在日プロレスラーデビュー2カ月で引退 再挑戦した元プロレス王者、挫折からの学び | かっちんブログ 「朝鮮学校情報・在日同胞情報・在日サッカー速報情報など発信」

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(引用元 毎日新聞記事より)北海道北見市出身のプロレスラー、ジェイク・リー選手=プロレスリング・ノア提供



デビュー2カ月で引退 再挑戦した元プロレス王者、挫折からの学び





↑毎日新聞記事より


 デビューからたった2カ月で、プロレス界から去った。だが、途中で投げ出したことへの後ろめたさは心の中に残り続けた。引退から約4年後に再デビュー。やがて全日本プロレスの三冠ヘビー級王座まで上り詰めたジェイク・リー選手(34)=北海道北見市出身=は今、子供たちにこう伝えている。「逃げることは恥ずかしいことではない」


大学4年だった2010年、ウエートリフティングの練習に明け暮れていたジェイク選手に突然の転機がやってきた。コーチに呼ばれ、向かった先には全日本プロレス社長(当時)の武藤敬司氏が座っていた。


 「シャツを脱いでみろ」


 食事をしていると突然そう言われた。「よし、合格!」。192センチ、110キロの鍛え上げられた体は武藤氏がスカウトを即決するのに十分だった。


 「やるしかない」。プロレスの知識はなかったが、入門を決意。練習生期間を7カ月で終え、11年8月、登別市総合体育館でデビューを果たした。


 右も左も分からないまま足を踏み入れたプロレス界で順調な滑り出しに見えたが、心の中では自身の実力不足に嫌気が差していた。「周りの選手が当たり前にできることができなかった。一言で『鈍くさいやつ』って感じだよね。俺にはこれ以上続けられないな、と」。デビューから2カ月後の同年10月、先輩に「辞めます」と一言だけ伝え、夜逃げするように荷物をまとめて選手寮を出た。


 「当時は一秒でも早くその場を去りたくて。選手が辞めるなんてよくあることだったから、『はい、お疲れ様』って引き留める人もいない。でも、面倒を見てくれた人たちを完全に裏切る行為だった」


 モヤモヤを抱きながらも、やっと抜け出せた解放感で胸がいっぱいだった。その後は、札幌市内で整体師として働き、プロレスとの関わりは一切、絶った。やりたい仕事に就き、悩みもなく充実した毎日。その幸せな日々の中で、ふとした時に過去の自分の姿が頭をよぎった。「逃げたままの自分が嫌で、その気持ちを払拭(ふっしょく)したかったのだと思う。このままだと死ぬ時に後悔すると思った」


 そんな思いを抱えていたある時、テレビでアントニオ猪木氏がプロレス界に残した功績を紹介するダイジェストを見た。「自分もこんな存在になりたい」と憧れを抱いた。「もう一回、挑戦してみよう」。再びプロレス界に戻ることを決意した。


 そこからは、体格を生かしたダイナミックさと、総合格闘技経験者としての巧みな技を駆使し、王座までの階段を一気に駆け上がった。17年7月に野村直矢選手と世界タッグ王座を初獲得すると、21年5月には10選手参加のリーグ戦・第41回チャンピオンカーニバルで初優勝。そして21年6月、宮原健斗、青柳優馬両選手との史上初の王座決定巴戦(ともえせん)を制し、全日本プロレスの最強の証しでもある三冠ヘビー級王座を初めて獲得した。


 「原動力となっているのはやっぱり『感謝』の気持ちだね。私は一回逃げた人間。それを周りの人たちは復帰する時に何も言わず、受け入れてくれた。その人たちに恩返しをしたい」


 22年に全日本プロレスを退団し、現在は新天地の「プロレスリング・ノア」で活躍するジェイク選手。一方で、北見市観光大使も務め、最近ではプロレスの傍ら全国の小中学校を訪問して子供たちと座談会や交流会を行っている。「新型コロナウイルス禍がやっと明けて、子供たちも自由に活動できるようになった。プロレスラーが学校にくるイベントがあってもいいのかなって。こんなに大きい人間と人生で会うことなんてめったにないからね」と笑う。


 自身の経験を基に交流会で伝えているのは「再挑戦」することの大切さだ。「目の前の苦しいこと、つらいことは誰にでもある。その現実から逃げることは恥ずかしいことじゃない。ただ、それから時間がたって心のどこかで後悔が残っているなら、再トライすることをためらわないでほしい。人生の転換点で、チャンスを射止める準備をすることが大切だ」【金将来】