1960年・70年代 「東京朝鮮高級学校」と「国士舘高校」の抗争 1 (どっちが強かったのか?)
1960年・70年代 「東京朝鮮高級学校」と「国士舘高校」の抗争 2 (国士舘側から見ると)
1960年・70年代 「東京朝鮮高級学校」と「国士舘高校」の抗争 3 (説明動画)
の続き
(引用元:28の未来へより)
朝高生に対する集団暴行事件が多発
↑28の未来への記事より
1960年代に入り民族教育が急速に発展した一方、「韓日協定」の早期妥結を急ぐなかで総聯組織と民族教育に対する政治的な嫌がらせが増え、朝鮮学校の学生に対する集団暴行事件が1980年代にかけて多発するようになります。
「高田馬場事件」を目撃した20歳の学生は朝日新聞投書欄(1973.6.22)に「国士舘暴力を目撃して」との題で次のよう書きました。
「先日の国電高田馬場駅で国士舘大生が朝鮮高校生を襲った。その車両に乗り合わせた目撃者の一人として、当時の模様をお知らせしたい。僕の知る限り、襲った方は国士舘大生である。数人の学生が車内の朝鮮高校生一人を引きずり出しカサの柄で何度も頭を打ち、その後も無抵抗の朝鮮高校生を脅すように窓ガラスを割ったり、ののしり声をあげカサを投げつけた。だから新聞が報じていた乱闘の表現は僕には理解できない。電車が発車するとき、国士舘大生がまた窓ガラスを割ると、乗客がけがをすると身をタテにして守ってくれたのも朝鮮高校生であった。事件のあと、朝鮮高校生が僕たちに涙をためて言いかけた。『日本人にこの苦しみがわかるか』、『けんかをしかけたのは国士舘大生なのに、警察はわれわれにやめろ、やめろという』と。その言葉を聞いて、平々凡々と暮らす僕たちより、もっと年若い彼らの余りにも厳しすぎる現実に同情しないわけにはいなかった。」
心ある日本人教師たちによって、1970年代から80年代にかけてウリ学校の訪問や教員学生同士の交流が頻繁に行われました。これらの努力により朝鮮学生たちと日本の高校生たちとのトラブルは激減します。1994年に朝鮮高校生たちがインターハイに参加出来るようになった後には集団暴行事件は起きてはいません。
■前回アップした分■
↑動画はこちら
【ケンカ高校軍団】朝鮮高校 VS 国士舘【ゆっくり解説】
去年の記事がブログで最近
ランキング上位に上がって
くるので見てみると
(写真引用元:映画パッチギより)
1960年・70年代 「東京朝鮮高級学校」と「国士舘高校」が
日々抗争行われてました。
親戚・大先輩方より話は聞いたことがありますが
ネットで検索するといろんな情報がアップされてますね
結果どっちが強かったのか?
ベストアンサーは五分五分だったそうです。
また機会があればアップしますねー
※何年たっても注目される記事なんですねー
当時の話を大先輩方に
機会があれば聞いてみよう。