うちのアボジ(80歳)ルーツ 済州島の法還里・虎島 | かっちんブログ 「朝鮮学校情報・在日同胞情報・在日サッカー速報情報など発信」

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今年80歳を迎えたうちのアボジ 

 

 

 

済州島の法還里出身のアボジは

 

 

 

日本で生まれたのですが3歳~12歳まで

 

 

 

韓国・済州島で過ごしました。

 

 

 

(私の記憶が正しければ)

 

 

 

済州島の歴史などネットで見ていると

 

 

 

こちらにたどり着きました。

 

 

 

 

 

 

 

(引用元:猪飼野 出典: フリー百科事典『Wikipedia』)

 

 

 

 

 

 

 

歴史

古代・仁徳天皇の時代に、多くの「渡来人」が当地にやってきた。その渡来人たちがブタ(猪)を飼う技術を持っていたことからこの地域を「猪飼野(いかいの)」と呼ぶようになる。さらに、渡来人のもたらした優れた技術により、文献上の日本最古の橋がここを流れる「百済川」(現在の平野川)に猪甘津橋が架けられ、時代が下って江戸時代になると「つるのはし」と呼ばれたことから現在の「鶴橋」の地名の元となる。

古墳時代から飛鳥時代初期にかけては物部氏の勢力下にあったが、蘇我氏との抗争に敗れた後は四天王寺の領地となった。また、百済滅亡と白村江の戦いの後、上町台地の東麓一帯に多数の百済国人が移り住んだことから、一帯は「百済野」と呼ばれるようになった。奈良時代から平安時代にかけては百済郡が設置されており、猪飼野も百済郡比定地のうちに含まれる。中世にかけては四天王寺の荘園地となり、猪養野荘(いかいのしょう)と呼ばれた。

近世においては、初期を除き、天領として江戸幕府が直轄支配した。慶長年間に行われた検地では石高千六十石。 大和川の付け替え後は井路川水路となった平野川沿岸の村が加入する用水組合に加入していたが、最末端だったため水不足の折りは水がまわらなかった時もあった。

近代以降もしばらくは大阪市の近郊農村地帯であったが、大大阪時代に差し掛かると市街化・工業化の波が押し寄せるようになる。農地を住宅地に転換する地主や、耕作をやめて働き勤めをする小作人も増えてきた中、1919年頃に地域内の地権者により「鶴橋耕地整理組合」が結成され、民間主導で農地の整理と下水道の整備が行われた。この時にこれまでくねくねと曲がって流れていた平野川をまっすぐに付け替える改修工事が行われた。耕地整理という名目で新平野川水路を中心に区画整理されたものの、農地として利用されることはほとんどなく、1925年の大阪市編入もあいまって急速に住宅・工場密集地帯へと変貌した。

また、市街化・工業化の時期と重なるようにして、1922年の大阪 - 済州島間定期直行船「君が代丸」の就航を機に済州島から朝鮮民族が大量に渡航するようになると、当地は工場労働者の最大の受け皿となり、朝鮮民族(大半は済州島出身者)の人口が急増した。

1945年の日本の第二次世界大戦敗戦後、済州島出身者の約3分の2程度は済州島へ帰ったが、1948年に起きた済州島四・三事件以降に再び日本へ大量に渡航してきた。以降、在日韓国・朝鮮人として当地に根ざした人々によってコリアタウンが形成されていった。済法建親会は、済州島の法還里(법환리、ポパニ、現在の西帰浦市法還洞)出身者の団体で、1929年に三益ゴムを経営していた康興玉が組織した済法青年会の後継団体である。

 

 

 

 

(引用元:済州島 虎島)

 

 

 

 

 

西帰浦港から南西に5キロの海上に位置したボム島は、遠くから眺めると大きな虎がうずくまって座った姿といって付けられた名前。 

この島には海食の双窟があいているが、済州島を作ったというソルムンデハルマンが漢拏山をまくらにして寝たときに伸びた二つの足が作ったのだというおもしろい伝説がある。

 

 

 

 

↑こちらアボジが子供の時

 

 

 

虎島を眺めながらよく遊んでいたという

 

 

 

話を聞きました

 

 

 

私も15年ほど前 済州島に根花と一緒にいきました

 

 

 

アボジもオモニと一緒に済州島に行きました。

 

 

 

済州島機会があればまた行きたいなー

 

 

 

アボジも一緒に・・・