権晶秀前監督(大阪朝高ラグビー部)の決断。退職後はどこへ?新監督は? | かっちんブログ 「朝鮮学校情報・在日同胞情報・在日サッカー速報情報など発信」

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(引用元:ラグリパより)
 

 

 

 

【ラグリパWest】権晶秀の決断。[大阪朝鮮高級学校ラグビー部前監督]

 
 

 

 
 
 
権晶秀(くぉん・じょんす)は決断した。  
 
大阪朝鮮高級学校を退職する。  
 
それは、社会科の教員のみならず、ラグビー部の監督も辞することを意味していた。  
 
朝鮮大学校を卒業直後に赴任。17年をつとめ上げる。今年7月、不惑になる。  
 
3か月前の100回記念全国大会、大阪朝高は4強に進出した。
 
連覇する桐蔭学園に12-40と及ばなかったものの、この3位表彰は3回目の最高位になった。 
 
「やめる理由は、家族を養っていくには、現在の生活では難しいからです」  
 
権は昨年11月、第三子を授かった。7歳を頭に男子3人の養育がその肩にのしかかる。
 
夫人は会計事務所につとめながら、育児や家事をこなしている。  
 
大阪朝高の置かれた厳しい状況も理解している。
 
授業料収入は年々先細る。ラグビーマガジンの付録である全国大会ガイドでは、
 
10年前の91回大会時に377人(男子201)だった生徒数は、
 
この100回大会では210人(同104)と半分近くに落ち込んでいた。  
 
その原因はまず少子化。そこに授業料無償化の対象外が加わる。
 
3年間の費用は割高になる。民族の誇りを伝えることは大切。
 
一方で、「生きる」という現実もある。  
 
東大阪にあるこの学校では韓国、北朝鮮の国籍に関わらず、民族教育が行われる。
 
校内では朝鮮語を使う。創立は1952年(昭和27)である。  
 
学校側は功績を認め、権を慰留した。 「それは、ありがたかった」  
 
しかし、現実から目をそらすことはできなかった。固辞をする。  
 
後任人事の関係もあって、公にされたのは年度末の3月31日だった。
 
 「今、お世話になった方々にお礼と報告の連絡をしている最中です」  
 
新監督には文賢(むん・ひょん)が就く。  
 
文は正式には大阪朝鮮中高級学校になった、その中学部の監督だった。
 
大阪朝高は昨年、中高一貫校になる。
 
中学の母体となる東大阪朝鮮中は3年前、同じ校舎に移っていた。
 
文は今年32歳。権と同じ朝鮮大出身。現役時代はSOだった。  
 
権は初代の金鉉翼(きむ・ひょんいく)から数えて、6代目の監督だった。
 
ラグビー部ができたのは学校創立から20年を経た1972年。来年は創部50周年を迎える。  
 
離任のあいさつと並行して、権は一般人と同じように就職活動をしている。 
 
「アプリを使っています」  企業は在日系に限らない。
 
ラグビーへのこだわりもない。興味があるのは人材系だ。 
 
「人と人をつなげる仕事は、これまでの教員と似ているかなあ、と考えています」  
 
権は大阪朝高のOBである。入学後に競技を始めた。現役時代はFL。
 
朝鮮大では東京教育大(現・筑波大)に学んだ全源治(ちょん・うぉんち)の薫陶を受ける。
 
全は1968年、この大学に創部し、「朝鮮ラグビーの父」と呼ばれた。
 
権は2004年、母校に戻る。監督で恩師でもあった金信男(きむ・しんなむ)の下でコーチをつとめる。  
 
金の後を継いだ呉英吉(お・よんぎる)の退任とともに、2015年4月、権は監督に就任した。
 
呉は前のNTTドコモの育成兼リクルーター。
 
その監督時代、89、90回と2大会連続で全国4強入りを果たす。
 
100回同様、桐蔭学園に7-33、10-21と敗れている。  
 
権は監督として6年を過ごす。生徒数が減少する中、チームを2回、全国大会に導く。
 
最初は98回。神戸製鋼のSOである李承信(り・すんしん)が主将だった。
 
2回戦で報徳学園に29-50と差をつけられた。 
 
「今回の4強は98回の経験が生きています」  
 
100回大会の主軸になった主将でNO8金勇哲(きむ・よんちょる)やFB金昂平(きむ・あんぴょん)は1年生から花園の芝を踏む。
 
2人はこの春、明大に進んだ。  
 
権は1年前にすでに退職を考えていた。
 
 「でもこの代は強かった。クラブの将来のためにも花園に出さないといけない。
 
それに人数は21。彼らの進むところも決めてあげなければなりませんでした」  
 
そのチームは、11回目の花園出場で、朝明(あさけ)、昌平、秋田工、流経大柏をなぎ倒した。
 
10大会ぶりの4強に入る。 
 
「桐蔭学園に負けた悔しさより、楽しい、幸せな時間だったなあ、という思いの方が強いのです。
 
部員たちには改めて感謝したい。本当によくやってくれました」  21人の卒業生の進路もすべて定めた。  
 
3月末、新チームの前で離任を告げた。  
 
7人の新3年生は泣いた。校舎の引っ越しで権は彼らが中3の時から指導した。
 
 「胸が痛かったです。時間のある時には顔を出して、彼らの行く末を見届けてあげたい」  
 
責任感の強さは変わらない。  
 
夢は後任に託す。 「大阪朝高が全国優勝をして、朝鮮市場をパレードしている姿を見たいです」  
 
朝鮮市場とは生野区の御幸(みゆき)通りを差す。
 
そこは大阪、いや全国のコリアン・タウンの中心だ。
 
その中をエンジ×白のジャージーを着た高校生たちが飛球の大旗を持って練り歩く。
 
そのイメージは、チームを離れても、権の脳裏から消えることはない。 
 
(文:鎮 勝也)