東京朝高ボクシング部の歴史 3代目・李成樹監督(団長)ヒストリー(5代目監督は 智成) | かっちんブログ 「朝鮮学校情報・在日同胞情報・在日サッカー速報情報など発信」

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(引用元:朝鮮学校百物語フェイスブックより 月刊イオ「朝鮮学校百物語」facebookページから )

 

 

 

 

vol33.教員編

東京朝高ボクシング部監督・李成樹さん

ー人生のカウンターパンチャーに

(月刊イオ2018年1月号に掲載)

「人生のカウンターパンチャーになれ―」。今でもこの教えを胸に生きる人たちがいる。朝高ボクシングを頂点に押し上げるために人生を捧げた李成樹・東京朝鮮中高級学校ボクシング部監督(享年46歳)。教え子や縁の人から、その情熱を追った。

●試合すら組めなかった

 東京朝高にボクシング部ができたのは、1974年。ブラウン管から流れるファイティング原田の素早いパンチに魅了されボクシングに取り付かれた姜容徳(60)が仲間を集めて始めた。当時、野口ジムにいた在日のボクサー・ゴールドジョーから古いグローブを譲ってもらい教室で練習を始めると、ボクシング好きの高校生が少しずつ集まりだした。

 しかし、朝高には対戦相手がいなかった。姜は朝鮮大学校に進学した76年、後輩たちを不憫に思い、豊昭学園(東京都豊島区)ボクシング部の佐藤監督に電話をかけ練習試合を請うた。それが東京朝高初の対外試合だった。

 それから、朝高の選手は東京都と他県の親善試合で東京都代表として選抜されるようになり、白星を重ねていく。その評判もあってか、81年10月3日、東京都アマチュアボクシング連盟と東京都高体連ボクシング専門部は、第1回東京都高等学校新人戦をスタートさせ、東京朝高をメンバーに加えた。「朝高の参加について話し合ったが、誰一人、同校の参加について異議を唱える役員はいなかった。朝高のボクシングに対する真摯な取り組みと実績を知っていたからだ」と振り返るのは、専門部委員長を務めた駿台学園(東京都北区)ボクシング部の木下英雄監督(76、現顧問)だ。

 初代監督の黄義孝、二代目監督の姜容徳の働きかけに加え、「木下監督、帝京八王子高校の小坂先生をはじめとする日本の理事の協力が大きかった」(姜さん)という。そして、この大会は、在日朝鮮高校選抜対東京都高校選抜親善試合という大きな大会を生んだ。第1回は1983年1月23日、駿台学園で行われ、日本各地の朝高選抜と東京都選抜の日本の選手が競いあった。92年の時点で、戦績は朝高の9勝1敗1分。朝高勢は圧倒的な強さを誇った。

 「ボクシングの良さは、一対一で拳で殴り合う人間の本能のようなもの。試合が終わったら仲良くできるんですよ。しだいに高校生同士のトラブルは減っていきました」(木下さん)。

●全日本への挑戦

 親善試合が始まった年の83年からは、朝鮮大学校理学部を卒業した李成樹(1960年生れ)が第3代の監督に就任した。

 学生時代は、180センチを越える長身を生かしたアウトボクサーとして活躍、のちに「団長」と呼ばれるあだ名は、当時のテレビドラマ「西部警察」の渡哲也役からとった。ボクシングにかける情熱は熱く、朝高は黄金期に向かって突き進んでいく。

 「とにかくハートが強く、そういう所を生徒に毎日見せていたから、厳しい練習を課しても、文句を言わせない。試合ではっぱをかける言葉も絶妙。弱っている金魚に塩をかけるってね(笑)」(姜さん)。

 東京朝高ボクシング部は、都アマチュアボクシング連盟に加入し、オープン戦と呼ばれる強化試合や新人戦には出場していたものの、インターハイにつながる都の選手権には出られなかった。その壁は、日本の学校教育法に定められた法的地位だった。「おたくらは各種学校扱いだからと。けれども、しだいに日本の選手に勝つ選手が増えてきた。すると当事者も周りも矛盾を感じていく。なんで朝高はインターハイに出られないのかと、日本の先生も良心の呵責を感じていた」(姜さん)。

 1992年、李監督は一つの大きな挑戦に出た。社会人が競う、第62回全日本アマチュアボクシング選手権大会に朴成晙(43、当時高3)が出場、バンタム級で3位の戦績をあげたのだ。さらに翌93年には、東京朝高切っての逸材と言われた徐尉隆(41、当時高3)が東京都ボクシング選手権の60キロ級で優勝し、全日本選手権への出場を手にした。

 高校生が社会人の大会で示した実力のインパクトは大きかった。その源について徐は語る。「お前には自信があるから、軽く行けと。手は震えていたが、団長の期待を裏切られない、負けられない思いでリングに上がった」。

●勝利への執念

朝高のインターハイ参加の世論が大きく盛り上がってきたのもこの頃だった。

 1994年、高体連は各種学校への参加を認め、朝高のインターハイへの門戸が開く。ボクシング部門は初年度から実力を発揮し、各地の朝高から12人が出場。6人が出場した東京朝高は3人が3位に入賞し朝高の実力を証明した。

 95、96年は決勝まで進む意地を見せる。実力を試す場がなかった者がやっと手にした「挑戦の場」。発揮された力は、大きなものだった。

 94年度に3位に入賞した安秀英(41)は、「インターハイ出場は、自分たちの存在が認められた出来事だった」と振り返る。

 同じく出場した権喆俊(41)は、朝高に入学して数日後、李監督に「ケガしたことあるか?」と声をかけられ、「ないです」と答えると「明日から練習出てこい」と言われ入部。2年の時、一人親の母親に世話をかけたくないと、部活も学校もやめると話した時、「来年からインターハイが始まるから」と慰留された。

 インターハイの宿泊先で高熱だった李監督と冷水で行水したこと、「オモニに何か買ってあげろ」とお金を渡されたこと…思い出に花を咲かせながら権は言った。「いつか、叱られた時、みんなの念願だったインターハイに出られないくらいなら、なんでもしてやるって。団長の思いはハンパなかった」。

 2001年には春の全国選抜で東京朝高の尹文鉉が優勝、同年夏のインターハイでは大阪朝高の崔日領が朝高勢で初優勝に輝いた。さらにプロボクシングの世界では、00年に東京出身の洪昌守、10年に大阪出身の李冽理が世界チャンピオンの金字塔を打ち立てた。

 朝高から2人の世界チャンピオンが出た「奇跡」は、各地の朝高ボクシング部が掲げた目標―「全国制覇」に挑戦し続けた血と汗の結晶だった。

 李監督と二人三脚で朝高ボクシング部の黄金期を作りあげた梁学哲・元大阪朝高ボクシング部監督は振り返る。「朝鮮で第2次朝高拳闘強化訓練が行われた1996年。早朝5時に大同江遊歩道から英雄の塔までのランニング、英雄の塔の217段ダッシュを指導しながら、李先生が私に話した言葉が忘れられない。『インターハイ決勝戦で東京、大阪朝高が対戦するとき、民族教育が全国を制覇したことになりますね』と」。

 17年10月、教え子たちは、李監督が愛した母校で追慕する集まりを開いた。95年のインターハイに出場した権泳仁(39)は、当日のパンフレットに「人生のカウンターパンチャーになれ」「ピンチをチャンスに」とタイトルを打った。李監督が練習や試合で檄を飛ばしていた言葉だ。

 カウンターパンチは相手が攻め込んできた時、それをよけつつ放つパンチで、劣勢を一気に跳ね返すこともできる。

 「勝者も敗者もその後の長い人生で真の勝者になれるように育てたい。ボクシングの経験を糧に、劣勢や困難に打ち克つ人間を育てたい―。団長の願いでした」(卒業生で元コーチの裵正烈さん、敬称略)

キャプション:

 

 

 

(写真左)東京朝高ボクシング部は、1995年のインターハイでは決勝まで進んだ。選手をねぎらう李監督/(右)1994年夏、インターハイに初めて出場した東京朝高。写真左上は準決勝まで進んだ金成周さん(写真=朝鮮新報)

 

 

 

 

 

※東京朝高ボクシング部

 

 

 

4代目監督はサンスソンセンニン

 

 

 

5代目は康智成ソンセンニン

 

 

 

伝統あるボクシング部をしっかり守っていってほしい