コマチュックで埼玉3連覇!祖国訪問の夢掲げ、優勝へ (月刊イオ2018年12月号に掲載) | かっちんブログ 「朝鮮学校情報・在日同胞情報・在日サッカー速報情報など発信」

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朝鮮学校百物語FBより)1987年の第9回大会で3連覇を成し遂げた埼玉初級サッカー部(東大検見川グラウンド)

 

 

 

はじまりのウリハッキョ編vol.41 

 

 

 

コマチュックで埼玉3連覇

祖国訪問の夢掲げ、優勝へ
 

 

 

(月刊イオ2018年12月号に掲載)

「在日朝鮮初級学校中央サッカー大会」が今年で40回目を迎えた。
「コマチュック(꼬마축구)」(ちびっこサッカー)の愛称で親しまれる、
歴史ある大会で唯一破られていない記録がある。埼玉朝鮮初中級学校の大会3連覇だ。第7回(1985年)から9回(87年)大会にかけて3連覇を果たした埼玉初級にスポットをあてた。

 

 

 

 

第9回大会(1987年)の「埼玉対東京第1」の決勝戦。シュートを放つ埼玉の選手(提供=朝鮮新報)

 

 

●3年生でCチーム結成

 

 

 1979年の第1回大会を皮切りに始まった、「在日朝鮮初級学校中央サッカー大会」(主催=在日本朝鮮蹴球協会)は、朝鮮学校初級部の全国大会として毎年開かれている。埼玉初級は第1回大会から出場し、大会ごとに「優勝候補」として挙げられていたが、草創期は西日本の学校の強さが際立ち、優勝には手が届かなかった。

 第1回大会から同校の監督として指揮を執り、同校を3連覇に導いた黄雲海さん(64、東京朝高サッカー部の監督も歴任)は当時をこう振り返った。「優勝する自信は毎年あったがなかなかできなかった。いつでも優勝できるチームを作るには、低学年からサッカーを経験させなければならない」(黄さん)。こうした考えから黄監督は、82年に埼玉初級でCチームとして3年生からサッカーを教え始めた。

 85年6月の第7回大会は、82年から始まったCチーム体制の児童らが、6年生になり迎えた初めての大会だっただけに、優勝への期待は一段と大きかった。Cチーム1期生であり、当時キャプテンだった河皓容さん(45)は、「前年に準決勝で北大阪に負けて、その北大阪が大会で優勝して悔しい思いをした。4年生のときに、大会優勝チームの祖国訪問が始まり、それを間近で見ていたから、なんとしてでも優勝してウリナラ(朝鮮)に行くんだという気持ちだった」と当時の心境を振り返った。

 当時、埼玉初級サッカー部は「優勝してウリナラへ行こう」をスローガンに、中央大会の優勝を最大の目標に掲げて練習を積み重ねていた。「大会が近づいてくると、夜遅くまで練習するんです。昔はナイター設備がなかったので、黄監督が自身の車にライトをつけてそのなかで練習をしていました」(河さん)。

 迎えた第7回大会は、日本各地の地方予選を勝ち抜いた36チーム、600人を超える選手たちが一堂に会した。当時では稀なパスサッカーを披露し、ディフェンスでもオフサイドトラップを駆使した、現代的なサッカーでセンセーションを巻き起こした埼玉は、リーグ戦を難なく突破し準決勝まで駒を進めた。埼玉、宝塚、西播、北大阪の「1東3西」の顔ぶれとなった準決勝で、埼玉は宝塚と対戦、2―1で勝利を収め、決勝進出を果たした。

 決勝の相手は、前年度優勝校の北大阪を4―1で破った第1回大会王者・西播。当時、「東の埼玉、西の西播」といわれており、5年ぶりの東西対決は注目を集めた。試合は前半4分に得点した埼玉がこの決勝点を守りきり、1―0で念願の初優勝を果たした。「とにかくウリナラに行けるということが嬉しかった」と河さんは振り返る。念願の初優勝と祖国訪問―。祖国訪問では金日成競技場で行われた、朝鮮の選手たちとの試合が忘れられないと河さんはいう。「競技場が平壌市民、学生の大観衆で埋まり、大歓声のもとでサッカーする。ウリナラではすべてが感動的だった。今の自分を自分たらしめる、大きなきっかけとなった訪問でした」(河さん)。

 

 

 

 

埼玉初級サッカー部監督として史上初の3連覇へと導いた黄雲海さん

 

 

 

●日本の公式戦にも

 埼玉が強かったのは、朝鮮学校の児童が集う大会だけではなかった。初優勝を成し遂げた同年、埼玉は大宮市(当時)の大会で優勝し、県大会予選もベスト8まで勝ち進む、県内でも屈指の強さを誇っていた。黄さんは「日本の大会で戦えるレベルの強さがなければ、コマチュックで優勝した価値もない」と常々指導してきたという。

 初優勝時、4年生だった李賢洙さん(43)は、「練習試合、市大会、遠征と年間100~120試合はこなしてきた。休みはなく、毎日試合でしたね。多いときは1日3試合とか。でも、先輩たちに続いて優勝したいと思っていた」と話す。李さんもまた、優勝したら祖国に行けるということが大きな原動力となって練習と試合に励んだという。

 86年に行われた第8回大会には例年より12校多い、48校が参加した。グループリーグを圧倒的な強さで突破した埼玉は、1部トーナメント戦も無失点で勝ちあがり、2年連続の決勝進出を果たした。決勝の相手は東京第4。関東勢対決の決勝は、埼玉が前後半の圧倒的なサッカーで7―0と東京第4を退き、大会史上初となる2連覇を成し遂げた。同大会では、11人中7人のレギュラーが5年生だったため、自然と前人未到の3連覇への期待が寄せられた。

 2連覇を経験した李さんが6年生のとき、埼玉初級は大宮市代表として、県大会ベスト3の成績を収め、その強さは自他共に認めるものとなった。87年の第9回大会で埼玉は、「打倒埼玉」を掲げ挑んでくる学校に苦戦を強いられたが、予選リーグ、1部リーグを突破し、決勝へ進んだ。決勝戦の相手は東京第1、またも関東対決となった。黄さんは「第1は非常に洗練されたチームだった。決勝では当たりたくなかった」と回想する。

 埼玉の組織プレーに、東京第1の攻撃力、一進一退の試合を制したのは、王者・埼玉だった。埼玉は前人未到の3連覇を成し遂げたのだ。李さんもまた、大観衆、大歓声に包まれた金日成競技場での朝鮮選手たちとの交流試合が思い出深いと話す。

 

 

 

初優勝時、キャプテンを務めた河皓容さん

 

 

 

 

 

●圧倒的な強さはどこに

 埼玉の強さの秘訣はどこにあったのか―。 黄さんから指導を受けた河さんや李さん、3連覇以降も「常勝埼玉」を引き継いだ金誠さん(41)は口を揃えてこういう。「黄監督は、厳しくも、いつも児童たちを思っていた。サッカーを通じて朝鮮人としての自負心を教わった。技術的な部分でいうと、ひたすら基礎を反復して練習していました」。サッカーだけでなく、礼儀や規律にも厳しかったという。

 教え子たちの胸に刻まれた指導者―。 黄さんは埼玉の強さについて「子どもたちがサッカーが大好きだったということが一番の理由じゃないかな。優勝して祖国に行くんだという大きな目標も強くなった一因だと思う」と話した。

 コマチュックは今年11月に節目の40回を迎えた。黄さんは、「40回まで大会が続けられていることは大きな財産だ。過去の大会で活躍した選手が、朝鮮学校を卒業し、J3からJ1までプロの世界へと羽ばたいている。コマチュックはまさに『夢を与える大会』だ」と語る。「50回、60回の開催を見据えて、コマチュックのさらなる発展を願っている」(黄さん)。

 

 

 

4年生から3連覇を経験した李賢洙さん

 

 

 

 

 

埼玉17年ぶりのコマチュック優勝

 

 

 

おめでとうございます。

 

 

 

 

 

 

(月刊イオ2018年12月号に掲載)

 

 

 

 

月刊イオ見てくださいねー