コマチュック第1回優勝校の栄誉は永遠にー在日朝鮮初級学校中央サッカー大会 | かっちんブログ 「朝鮮学校情報・在日同胞情報・在日サッカー速報情報など発信」

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朝鮮学校百物語1FBより 10月18日 12:02

 

コマチュック特集

 

 

 

vol.30 第1回優勝校の栄誉は永遠にー在日朝鮮初級学校中央サッカー大会

(月刊イオ2017年10月号に掲載)

 「コマチュック(꼬마축구)」(ちびっこサッカーの意)の愛称で親しまれ、数々のドラマが繰り広げられてきた在日朝鮮初級学校中央サッカー大会が今年で39回目を迎える。第1回大会にスポットを当て、優勝校の西播朝鮮初中級学校(兵庫県姫路市)の足跡もたどりつつ、その歴史をひもといてみる。

 初の全国レベルの大会

 第1回大会は1979年6月8~10日に開催された。大会の正式名称は、「総聯結成24周年記念 在日朝鮮初級学校学生サッカー大会」。在日本朝鮮人蹴球協会が主催して、東京大学検見川グラウンド(千葉県千葉市)と東京朝鮮中高級学校の運動場で行われた。参加したのは日本各地の地方予選を勝ち抜いた36チーム。600人の選手たちが一堂に会した(予選参加は69校)。
 それまで初級部のサッカーに関しては関東大会、近畿大会のほかに、いくつかの県で大会をやるくらいで、全国規模の大会はなかった。70年代半ばから朝鮮学校の選手育成事業に力が注がれてきたが、その一環として、初級部の全国大会を開催する運びとなった。
 「初期の大会は、ワールドカップのような各地域の予選を勝ち抜いた強豪チームが集まるというイメージでした」。運営に長く携わり、大会の移り変わりを間近で見てきた在日本朝鮮人蹴球協会の李康弘理事長(54)はこう話す。
 当時のパンフレットを見ると、後援団体として在日本朝鮮蹴球団後援会が名を連ねている。70年代に結成され、会員は商工人がメイン。選手たちの宿泊費、食費をはじめ大会運営に必要な財政をまかなった。当時の朝鮮新報に後援会の活動が取り上げられていることからも、その存在の大きさがうかがえる。
 栄えある第1回大会の優勝校は兵庫県姫路市の西播朝鮮初中級学校。姫路市在住の韓東洙さん(50)は当時の優勝メンバーだ。背番号11でポジションは右のウィング。今で言うサイドアタッカーで、チームの副主将も務めた。
 当時、同校初級部サッカー部は姫路市内でダントツの強さを誇っていた。「男子児童のほとんどがサッカー部に入る時代。朝から晩までサッカー漬けの毎日でした。練習は厳しかった。日曜日も午前午後とみっちり。試合がある日が一番うれしかった。終わるとすぐ帰れるから(笑)」。
 兵庫県の初級学校10数校のうち、西播と尼崎、東神戸の3校が予選を勝ち上がり、本大会への出場を決めた。

 圧倒的な強さ見せた西播

 大会が始まると、西播は破竹の快進撃を見せた。
 初日目、36チームが12のグループに分かれてのリーグ戦。第7組に入った西播は茨城に3―0、横須賀に8―0と圧勝し、グループ1位で2日目の2次リーグに進んだ。そこでも東京第9を2―0、東大阪第3を3―1で下し、準決勝進出を決めた。韓さんいわく、大会前のどこか弛緩した雰囲気から一変、勝ち進むごとに今まで味わったことのない緊張感が襲ってきたという。
 迎えた最終日。会場を東京中高運動場に移し、準決勝と3位決定戦、そして決勝が行われた。決勝は、下関を2―0で下した西播と東大阪第5を2―0で退けた京都第2の関西勢同士の対決となった。観客席は超満員。東京で開催されたアジア陸上競技選手権大会に出場した朝鮮民主主義人民共和国の選手団も試合を観覧した。「あんなに大勢の観客の前で試合するのは初めて」という韓さんら選手を勇気づけたのは、地元兵庫から駆けつけた選手らの保護者ら30人ほどからなる応援団だった。
 試合は2―0で西播リードのまま終了の笛が鳴った。選手たちは応援団のもとに駆け寄って、抱き合いながら喜んだ―韓さんの回想だ。6戦全勝、総得点20点、失点1。圧倒的な強さを見せつけての優勝だった。
 凱旋した選手たちを、姫路駅で大勢の人々が出迎えた。「ホームで『マンセー!』の大合唱。その時、『自分たちはすごいことを成し遂げたんだな』と実感しました」。
 西播は第1回大会に続いて、第5回でも優勝。第9回までほぼ毎年ベスト4に食い込んだ。大会草創期は西日本の学校が成績上位を占める「西高東低」が続いたが、その中でも西播は抜群の強さを発揮。第7回(85年)~第9回(87年)にかけて3連覇を達成した東の強豪・埼玉とともに初期の大会をリードした。
 「強さの秘密? うちは初中級学校だったので、中級部の先輩たちの足技をまねしてみたり、そういう積み重ねが上達につながっていったのかも。あとは、負けず嫌いな性格かな。たとえ遊びでも勝負にはこだわっていました」(韓さん)
 大会を通じてできた縁は、その後もさまざまな場所で生き続けた。結局実現しなかったが、社会人になってから、決勝で戦った同じメンバーで試合をやろうという話が持ち上がった。今でも年に1~2回、当時のメンバーたちが顧問の先生を囲んで集まる。「最後は必ずコマチュック優勝の話で盛り上がるんです」(韓さん)。

 育成の場、集まる場に

 コマチュックは来年に節目の40回を迎える。
 「し烈な勝負の場から、育成の場、同胞たちが一堂に会する場として発展してきた」と語るのは前述の李康弘理事長。90年代に入ると児童数の減少傾向が顕著になり、合同チームが出現した。99年から夏休み開催になり、2001年からは8人制がスタート。10年から本選と育成という現在の形になった。単なるサッカー大会ではない、民族教育と深く関わりながら、主催側と学校、保護者、選手たちがともに作り上げるユニークな大会として存在感を増している。
 国内でプロリーグが誕生し、日本がワールドカップに出場するようになった90年代。朝鮮学校の子どもたちがサッカーで夢を持てない現実に責任を痛感した李さんは、プロ選手、朝鮮代表、ワールドカップ出場という目標を持てるよう奔走した。そんな夢を、コマチュック大会で育った朝鮮学校出身の選手たちが叶えてきた。
 昨年から大会は11月開催に変わった。今年もまた、熱いたたかいが始まる。

※写真キャプション:記念すべき第1回大会のパンフレット

 

 

 

 

11月17日~19日まで

 

 

 

第39回コマチュックが大阪・堺で行われます。

 

 

 

今年も全試合速報でアップしますねー