1人の教員から始まった在日ラグビー | かっちんブログ 「朝鮮学校情報・在日同胞情報・在日サッカー速報情報など発信」

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朝鮮学校百物語FBより)

 

 

 

 

vol.29 1人の教員から始まった在日ラグビー
 

 

 

 

九州朝高ラグビー部
(月刊イオ2017年8月号に掲載)

朝鮮高校ラグビー部の活躍は全国の在日同胞たちの心に感動と希望を与えている。そんな在日ラグビーの歴史が始まったのは1958年、創立して間もない九州朝鮮中高級学校のグラウンドだった。後に「在日コリアンラグビーの父」と呼ばれた故・全源治さんと生徒たちが切り開いた、ラグビー部の草創期を振り返る。

●サッカー旋風の中で

 九州朝鮮中高級学校が創立したのは1956年。若手教員が集まり手探りで学校運営が始まった。高級部のクラスは1つしかなく、生徒の中には成人もたくさんいた。また、59年には新潟から祖国へ向かう帰国船の運航が始まり、同校の生徒も次々に帰国していった時代でもあった。この頃、在日同胞社会でスポーツといえばサッカー。ラグビーは認知すらされていなかった。
 翌年の57年、同校教員として故・全源治さん(1934-2014)が赴任する。全さんは福岡県立明善高等学校でラグビーをはじめ、東京教育大学時代はラグビー部キャプテンを務めた、ラグビー界では名の知られた人物だった。学校でラグビーを教えることを希望していたが、朝鮮籍で就職宛てがなく悩んでいたところ、同校教員から体育教師を頼まれたのだった。それまで「日本人」として生きてきた全さんにとって朝鮮学校との出会いは人生を変える出来事となる。同時にそれは、「在日ラグビー」という新たな歴史の幕開けとなった。
 全さんの一生を綴った著書「タックルせぇ!」(2011年、文:李淳馹、朝鮮大学校ラグビー部OB会発行)には、生徒たちと初めてラグビーをした日のことが書かれている。「おい、お前たち、ラグビーっちゅうスポーツを知ってるか?」「度胸のあるやつしかできんぞ」。ラグビーボールを初めて目にした生徒たちだったが、「けんかなら負けたこつなか!」と興味津々。「やりたいヤツは、まずはこん先生ば捕まえちみろ」。ボールを持って走る全さんに生徒たちは一斉に挑むが、まったく歯が立たないのである。
 「最初から負けるつもりもなかったれど、それで私はあいつらからすれば神様みたいになったんだね。…それでもみんな必死にくらいついてきたね。確かに元気はあった。だからこいつらにはね、ラグビーを教えてみたいと思った。ものになるんじゃないかってね。ラグビーやるにはやっぱり気持ちが大事だから」(全さん、前述の著書から)。
 58年、日本全国の朝鮮学校で初となるラグビー部が九州朝高で創部される。とはいっても、〝幻の日本一〟といわれた在日朝鮮蹴球団の活躍など、在日同胞の誰もがサッカーに熱狂していた時代。同部が学校側からスポーツクラブとして理解を得るには、少し時間が必要だった。

 

 

 

 

 

 

 

●ゼロからの練習

 当時部員だった九州朝高5期生のある同胞は、その頃のようすをこう語る。「部活という形はとっているが、肝心なグラウンドは狭くて石だらけ。靴は学校の運動靴。サッカー部からスパイクを2つほど借りてきて、足のサイズが合ったやつが履く。裸足で練習するやつもいた。ボールは練習試合をした相手からもらったりして1つずつ増えていった。どれも使い古して卵形に変形したものばかりだった」。
 日本の学校との練習試合では、全さんの顔の広さを痛感したという。「会場へ到着すると相手チームの監督がみんな並んで、全先生に一斉にあいさつする。強いチームが対戦相手を指名するため、普通は朝高のように弱いところとはやってくれないが、全先生のチームということで一番強いとことも試合ができた。人数が足りないからサッカー部員を2~3人連れてきて、全先生自らもグラウンドに立った」。
 九州朝高10期生の安光虎さん(67)もラグビーに没頭した1人だ。「合宿は忘れられない。久留米の医大で練習して、寺で寝泊り。練習がそれはもう死ぬほどきつくて、でもまだみんな若いから4~5日目には段々と力が戻ってきた」。
 部員たちは「いわゆる『問題児』集団だった」と笑う。「1年生の頃、日本の学校と練習試合するのにユニホームが足りないから、相手の部室からユニホームを取ってきて、染料で朝高ユニホームと同じ赤色に染めて着たこともあった」(安さん)。
 一方、全さんの指導方法はただ1つ。走れ!突っ込め!逃げるな!タックルせぇ!―。「技術」を教えることは一切なく、その代わりに自身の「一歩も引かないラグビー」をとことん教えた。
 「組織プレーなんてのはまったく分からないまま、毎日毎日走ってタックル。でも段々とラグビーの楽しさが分かってきた。2年、3年に上がっていくにつれてチームも強くなっていった」(安さん)。その頃には、九州朝高ではラグビー部がサッカー部に劣らない地位を確立しており、グラウンドの大半をラグビー部が使用していたそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

●全国に広まった在日ラグビー

 68年に全さんは朝鮮大学校に赴任。朝大ではすでにラグビー同好会が作られていたが、この年から正式なラグビー部となった。九州朝高ラグビー部出身者だけでなく各朝高を卒業したラグビー未経験者も入部し、公式戦には出られないものの日本の大学との練習試合に全力を注いだ。
 全さんが朝大に来た同じ年に同校に入学し、4年間全さんの元でラグビーを学んだラグビー部2期にあたるメンバーらは、卒業を目前にある約束を交わす。「卒業したら全国の朝高にラグビー部を作ろう」。さらに、3年後に「在日朝鮮学生中央体育大会」でラグビーの種目を作り、各地の朝高ラグビー部で試合をしようと。安光虎さんもその中の1人で、卒業後は母校・九州朝高でラグビーを指導する。同期たちは大阪、東京、愛知、神戸、東北、山口の朝高に教員として散らばり、九州朝高以外でも一斉にラグビー部が創設されたのだ。75年には第1回「中央大会」が実現し、夢は現実となった。中央大会の決勝戦は、全さんに笛を吹いてもらったという。
 その後、朝鮮学校の生徒数減少によりラグビー部の多くがなくなり、九州朝高でも2011年以降休部が続いている。現在は大阪、東京、愛知、神戸の朝高にラグビー部がある。
 一方、ラグビーは在日同胞たちの中で広く親しまれるようになった。大阪朝高、東京朝高の「花園」大会出場、またそこでの活躍は全国の同胞たちに大きな感動を与えている。また、在日同胞らによる闘球団やOB会が各地で活発に動いており、毎年開かれるラグビーフェスティバルには全国から在日ラガーマンたちが集結する。日本のチームとの交流にも積極的だ。在日スポーツ界はラグビーなしでは語れなくなった。

【写真説明】
1.九州朝鮮中高級学校のラグビーチーム。正式なラグビー部が出来る前年の1957年(著書「タックルせぇ! 在日コリアンラグビーの父、全源治が走り続けた人生」から)
2.九州中高に赴任した頃の全さん(遺族提供)
3.1963年の九州朝高ラグビー部。後列右から2番目が全源治さん(遺族提供)