朝鮮代表での最初は“おまけ枠”。 引退のJリーガー安英学、代表での日々。 | かっちんブログ 「朝鮮学校情報・在日同胞情報・在日サッカー速報情報など発信」

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安英学選手インタビューと引退セレモニーは4月30日(日)

 

 

 

↑こちらもご覧ください

 

 

 

 

 

北朝鮮代表での最初は“おまけ枠”。 引退のJリーガー安英学、代表での日々。

 

 

http://number.bunshun.jp/articles/-/827828

 

 

 

↑Numberより

 

 

 安英学引退のニュースを耳にした。

 3月17日のことだ。今月30日には新潟で引退セレモニーも行われるという。

 昨年末に横浜FCを退団後、右膝の負傷の回復を待ちつつチームを探したが、結局チームが見つからず。苦渋の決断を下したのだという。

 1978年生まれの38歳。在日コリアン3世だ。

 '02年にプロデビュー後、アルビレックス新潟('02~'04年)、名古屋グランパス('05年)、大宮アルディージャ('10年)、柏レイソル('11~'12年)、横浜FC('14~'16年)でプレー。J1、J2通算でリーグ戦175試合に出場し10ゴールを挙げた。'06~'07年にはKリーグの釜山アイパーク、'08~'09年は水原三星でプレーし、リーグ戦57試合出場7ゴールの記録を残している。

 会って、話をしてみたいなと思った。

 日本代表によるワールドカップ予選の話題で盛り上がっているタイミングでの引退ニュースだったからだ。安は北朝鮮代表として'02年から'12年まで39試合でプレー(3ゴール)。'06年、'10年、'14年のワールドカップ予選(2012年の予選まで)と、'10年の本大会も経験した。

 彼が代表選手として戦う姿を、折々で取材してきた。こちらが見て感じてきたことを、彼に詳しく聞く機会がこれまではなかった。引退した今、これが実現するのではないかと。

 引退後の拠点とする、横浜のホテルで話を聞いた。

「代表選手としての経験と思い」は国籍や立場の違いを超えて伝わるものがあった。

新潟で、北朝鮮籍の選手が大声援を受けていた。

 新潟で、北朝鮮籍の選手が大きな声援を受けているんだな。

 '02年、プロデビューを果たした時の興味はそこにあった。折も折、この年は時の小泉純一郎首相の電撃訪朝により両国の関係はむしろ悪化する、という状況にあった。

 夏頃だっただろうか。一度、インタビューする機会を得た。「ヨンハギ~」と呼びかけたら喜んだ。名前の「英学」はヨンハク、ヨンハッ、ヨンハなどと表記されてきた。“K”の子音で終わる、日本語では表記しにくい音だ。現地の言語でも発音が平易ではないから、「i」の子音をつけて呼びやすくする。家族、親戚の間では昔も今も、「ヨンハギ」と呼ばれている。

 

 

“総連”所属として南北朝鮮の親善試合に出場。

 

 

再会の地はソウルだった。

 '02年の9月、南北親善サッカー大会の北朝鮮代表に選ばれた。東京朝鮮高校卒業後、一度はサッカーを諦め、浪人を経て立正大学からプロ入りを果たした苦労人にとって、栄光の舞台だった。

 ソウルワールドカップスタジアムには、まだ'02年日韓ワールドカップベスト4の熱気が残っていた。メンバーリストには確かに安の名前があった。所属は“総連”となっている。

 安はここで後半残り5分に出場機会を与えられ、代表初キャップを記録した。

 しかし、試合後の表情は冴えなかった。むしろ疲れているようにも見えた。

 取材エリアのムードは南北親善万歳、といったところだったから、とても日本語では言葉を交わせない。朝鮮語で話す方法もあったが、取材エリアで口を開いているのは、チーム付きの“お偉い方”ばかりで、選手は素通りだった。

 たった1人の在日コリアン、安だけに話しかけるのもちょっと迷惑がかかりそうだ。

 

 

初の代表戦で味わった「悔しい、という思い」。

 
 

 安の姿を見つけ、日本語で“読唇術”を使って、聞いた。

“ツカレタ?”

 安はこれを読み取った。指で小さなジェスチャーを加え、同じく唇だけを動かした。

“スコシ”

「せっかく新潟から少し無理をして代表に行ったのに、試合に5分しか出られなかった。悔しい、という思いもあったんです」

 かつては夢にすら描けなかった祖国での代表。しかし、現実は“夢物語”ばかりではなかった。

「代表招集のレターは、新潟のほうにファクスで届きました。行くべきか、だいぶ悩んだんです。新潟は当時、J1昇格を争っている状況で、僕は試合に出ていましたから。代表に行くとなると、移動の時間も含め3~4試合欠場しなければならなかった。申し訳ないという思いがあったんです。でも、クラブの方は『名誉なことだから行ってこい』と送り出してくれた。代表に行く直前のJ2の試合後、新潟のサポーターも『イギョラ 安英学』といういつものチャントをはなむけの意味で歌ってくれて」

 

平壌で課せられた練習は「完全にテスト生」。

 
 

 中国経由で、平壌に入った。そこでは驚くべき事態が待っていた。

「着いた当初は、練習に入れてもらえないし、練習着すら渡されない。念のため持って行っていたアルビレックス新潟のプラクティスシャツを着て、チームの横で個人練習をせざるを得ない、という状況でした。

 代表チーム側に『2~3日遅れて合流する』という点が伝わっていなかったんです。『こいつ、遅れてきやがって、なんだ』という雰囲気になって。

 あちらは代表チームが何より優先される状況でやっている。こちらは新潟の日程を見て、できるだけ欠場試合を少なくするようにスケジュールを組んでいたので」

 ようやく声をかけられたのは、合流後数日経った後だった。

「まずはキックやダッシュをやってみせろと。代表招集されてるのに、完全にテスト生の状況で!」

 

 

北朝鮮での生存をかけた1対1のシャトルラン。

 
 

「そこをクリアすると、次にシャトルランを課されました。ここではチームで一番走れる選手との競走をすることになった。ホントに運命をかけた走りですよね。

 新潟で盛大に見送ってもらったのに、合流もできずには帰れないという思いも強かった。ランでは最後の最後で競り負けたんですが、チーム全体で2番めの数字だったんです。最後には小さなピッチにゴールを置いて、1対1をやりました。

 あちらが最後にスタミナ切れして、幾度かゴールを決めることができた。ランにしても1対1にしても、周りから『日本から来たヤツに負けるな!』と声がかかる状況で……」

 そんなこんなで合流は許されることとなったが、与えられた出場時間は終了間際の5分ほどだった。

 それも本来のボランチではない右サイドで。

「対面したイ・ヨンピョ選手にサラッとボールを奪われて終わった」という記憶しかない。当時の安は、北朝鮮代表では“おまけ枠”に過ぎなかったのだ

 

 

 

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http://number.bunshun.jp/articles/-/827828?page=4

 

 

 

4月30日(日)引退試合の様子

 

 

またアップしますね―

 

 

安英学選手インタビューと引退セレモニーは4月30日(日)

 

 

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