朝鮮学校百物語  輝く、その名も東京朝鮮中学校 | かっちんブログ 「朝鮮学校情報・在日同胞情報・在日サッカー速報情報など発信」

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朝鮮学校百物語フェイスブックより)①東京朝鮮中学校1期生と教員

 

 

vol.19 輝く、その名も東京朝鮮中学校
 

 

 

中等教育のはじまり(東京編)

(月刊『イオ』2016年8月号掲載)

 1945年8月15日の祖国解放後、在日朝鮮人による中等教育が始まって今年で70年を迎える。日本各地で中等教育がどのようにして始まったのか―。まずは、東京朝鮮中高級学校の草創期を振り返ってみよう。

 高まる要望にこたえて

 東京朝鮮中高級学校の前身・東京朝鮮中学校は46年10月5日、現在と同じ北区十条台の一角で開校した。開校から現在までの70年間に中級部8000人、高級部2万2000人の卒業生を送り出し、中等教育機関としては日本各地の朝鮮学校の中で最大規模を誇る。
 同校の草創期を知るうえで貴重な一次資料が残っている。56年10月、東京朝鮮中高級学校創立10周年記念沿革史編纂委員会によって発行された冊子『東京朝鮮中高級学校10年史』(以下、『10年史』)だ(08年に復刻版が綜合企画舎ウイルから発刊)。以下、同書の記述に基づいて同校の揺籃期の歴史をひもといてみる。

 

 

 

 

学生寮の自治委員たち(以上、写真提供:第1期生・朴文侠さん)

 


 東京に朝鮮中学校を設置しようという意見が在日本朝鮮人連盟中央総本部(以下、朝連中総)の中で初めて上がったのは46年初めのこと。具体的に提起されたのは、46年6月に開かれた朝連第2回全国文化部長会議だった。その場で、東京本部の文化部が都内に中学あるいは夜間中学を設置する問題を提案している。当時、朝鮮学校では学年や年齢の区別もなく、みなを一ヵ所に集めて教育を実施していた。また、日本の中学校は朝鮮人生徒の入学に関しては排他的で、朝鮮人生徒たちの進学の道は阻まれていた。生徒および保護者たちの中等教育への要求は切実だった。
 この提案を受けて朝連中総文化部は、東京の各支部委員長有志懇談会を開催。募金集めのために、関東地方一円の有力者たちを招いた会合も行われた。
 祖国の新学年度に合わせて9月開校を目指したが、開校には大きな困難が立ちはだかった。資金は足らず、中学校を運営した経験もないため、教員の準備や物資、敷地、校舎の確保など問題は山積していた。とりあえず開校させることが先決という意見も上がり、8月18日、東京朝鮮人中学校設立期成会を有志らで発足した。
 生徒の募集は9月中旬から始まった。募集期限までわずか10日しかなかったが、入学試験当日までに300人以上が願書を提出した。試験は朝連中総文教局の事務所で行われた。試験は面接のみ。試験官は文教局の若い職員たちが担当した―。『10年史』の記述からは、手探りで進められた開校までのプロセスと携わった人々の苦労が読み取れる。

 

 

創立当時の学校のようす(以上、学校創立60周年記念誌より転載)

 

 

 困難極めた敷地探し

 東京中高の敷地が日本軍の兵器廠跡だというのはよく知られた話だ。当時、用地探しは困難を極めたが、問題解決に多大な貢献をしたのが、当時、朝連板橋支部の委員長を務めていた尹徳昆さん(後の在日本朝鮮人中央教育会会長)だったと伝えられている。
 校舎として使える建物を探し奔走していた尹さんは、板橋区役所に「校舎をあっせんしてほしい」と何度も要請を繰り返した。以前、日本軍の兵器廠として使われていた土地がある―ある日、区役所の職員から朗報が入ってきた。その土地は大蔵省の管轄下にあったが、日本の敗戦後、東京都に移管され、都が管理を板橋区に任せていた。区は土地の使用許諾についても委任を受けていた。交渉の結果、東京朝鮮中学校の敷地に使うことができるようになったという。
 敷地は広大で、樹木と雑草が茂った荒地だった。苔むした木造の火薬貯蔵庫の建物が数棟立っていた。所々に深い水たまりがあり、敷地の奥には大きな山があった。校舎として整備するには相当な手間がかかるところを、当面、開校の日まで倉庫2棟に突貫工事で教室を5つ準備した。これに教員室を加えたものが学校創立時にあった施設のすべてだった。
 46年10月5日、ついに入学式の日を迎えた。当時の校地面積は6700坪で、新入生は329人、教員は11人。初代校長は、朝連中総の尹槿委員長が兼任した。ほかに、事務主任として李興烈さん、教務主任として林光澈さん(後に第4代校長)が任命された。

 火花のような情熱と信頼感

 「学校とは名ばかりで、黒板も机も椅子もまともになかった。ただ、あるのは、先生と生徒の火花のような情熱と信頼感であった。草を刈り、木の根を掘り起こし、運動場にある山を切り崩し、運動場作りや学校の整備に汗を流した。生徒たち一人ひとりが、自らの手で自らの学校を作り上げていくという固い意志と希望にあふれていた」。『10年史』は創立初期の校内の雰囲気をこのように伝えている。
 「朝鮮中学校で何よりもよかったことは、朝鮮人同士で差別なく、互いに助け合い、心が通じ合うこと。誰かの強要によってではなく、自らが学校の主人となった。学校は私にとって、朝鮮民族の一人として生きていくことを教えてくれた場所だった」(第1期生・揚柄栄さん談)。
 その後、学校では46年11月5日に父兄会が立ち上がる。8日には各種学校として東京都知事からの認可を取得。11日には期成会が解散し、学校運営委員会として再出発した。翌47年、運営委員会と父兄会が合わさって学校管理組合になるなど、学校は一つずつ形を整えていった。

 

 

新聞部員たち

 

 


 そして48年6月、学校管理組合は1期生の卒業を控えて、高等学校の併設を決議し、東京都知事に東京朝鮮高校の設置認可申請書を提出。申請書は2日付で受理された。10月4日、記念すべき中学校の第1回卒業式が行われた後、歴史的な高校の第1回入学式も行われた。
 生徒数もうなぎのぼりに増えていった。48年度の新入生は422人で学級数は7つ、全校生徒数は880人。翌49年9月の時点で1000人を超えた(1136人)。

 

 

 

 

歴史を感じますね―