哲学は好きだが,著名な哲学書を読む程ではない.例え和訳であっても.
せいぜい,日本の書物に引用されたり筆者の持論の展開上必要が生じて借用するのを読んで,自分なりにまとめあげる程度だ.その程度でも普段の生活ではことが足りる.ことが足りるというより,実生活の充分邪魔になる,と言う方が正しいかも知れない.
そういった訳で,ドイツの観念論哲学やヴィトゲンシュタイン,フランスのデリダ,ドゥルーズ=ガタリ,などは私的に理解してきた.
が,サルトルには縁がなかった.理由は簡単で,私がこれまで目を通した書物にサルトルがほとんど取り上げられていなかったためである.
実存主義,という名前は知っていても,どういう哲学かは知らなかったし,あまり興味も持たずにいた.それは,“私が目を通してきた書物”,というものが,個人的な趣味を反映しており,サルトルに興味を持つ著者が含まれていなかったということなのでは?
サルトルで唯一何かで読んだ記憶があるのは,“恐ろしいのは単に死ぬことではない,絶望の中で死んでいくことだ”,という知らない方が幸せ(笑)みたいなフレーズのみだ.
まあ,それでも,と思い,Wikiでサルトルの項目を読んでみたら,この人はフランス人でありながら,アルベルト・シュヴァイツァーの祖父の家で育てられ教養を身につけたという変わった経歴をもっている(ちなみに,シュヴァイツァーはドイツ人だがその後フランスで市民権を得ている).この祖父はドイツ語の教授だったという.そのためかどうかは知らぬが,サルトルは最初カール・ヤスパースの著書のフランス語訳の校正にかかわっている.つまり,ドイツ哲学に触れることからスタートしているのだ.
そのせいか,実存主義,の,実存,とは,“いま,ここにいる,自分”,を意味しており,これは物事の本質に先行する,のだそうだ.なんかこれって,ドイツ観念論哲学ととっても似てないか?
ただ,実存には,現在の自分そのものである,即自,と,目指すべき,対自,があり,人はこの対自に関して,“自由を有するという刑に処せられている”,のだそうだ.つまり,この自由は神さまのせいでも何でもなく,責任をもって選ばねばならない,という重荷なわけである.
死は,この,対自,が失われること意味しており(ここまではWikiに書いてある),重荷とは言え自由の選択権が剥奪されることが,絶望,ということなのだろうか(ここはWikiに書いてないけど).
即自と対自の間の関係について着目しているのは,古来ゆかしきドイツ哲学と異なるかも知れないが,ヴィトゲンシュタインや,他のフランス思想よりスタティックで,ダイナミズムに欠ける気がする.それに,対自選択の必然的自由は政治的な行動に利用されやすいことは確かで,サルトルはその思想そのものの深さというより,社会に与えた影響で評価されている気がする.
そんなところで,多分に勘違いもあるだろうが,これまでサルトルに縁がなかった理由が分かったような気がした.