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研究室へ向かう際の電車での出来事である。

その日の天気は快晴。湿度も低く、絶好の研究室日和だった。そんな日は、早朝から薄暗い室内で有機化合物の発する人工的な異臭を嗅ぎながら、分液漏斗でも振り回す。あるいは、薄暗い研究室で、パソコンに向かってニヤニヤしながら作業する、というように理系の健全たる男子大学院生の生活の相場は決定されているのだ。

けれども、運命とは残酷なもので、その日僕は洗濯物を干すという大事な仕事があり、この素晴らしい機会を逃してしまった。

世間一般でいう、遅刻である。

『それでも研究室に一刻も早く着いて、実験をしたい。』

 


その一心で、僕は研究室最寄駅への最速電車である急行電車から降り、各停電車に乗り換えた。

大遅刻である。

 


時間に拘束されない人が集まる、各停電車の車両内。乗客は数名。年代もバラバラ。外からの陽光が、遮光ブラインドによってやさしく散乱し、柔らかい明るさを保っていた。そんな、なんとなくいい雰囲気の車内だった。

僕らの黄色い電車がゆっくりと着発車を数回繰り返したころ、子どもを連れた若い母親と、その友達らしき女性の三人が乗車してきた。

女性陣二人はささやかに談笑を楽しみ、子どもは子どもで、移り変わる車窓風景に夢中だった。まだ、言葉を覚えていないようで、なんだか楽しそうにキャッキャとはしゃぐ。その様子を母親と女性、そして周りの人たちが優しく見守る。


とてもgood feelingな時間だった。僕は遅刻していたのだけれど。


ところが、大事件が起こった。

 

 
子どもが突然、大声で泣きながら、暴れだしたのである。

車両内は、一瞬にしてパニックに陥った。

座席でバタバタ。通路でバタバタ。僕らの前に突如現れたかわいい怪獣。あまりに暴虐非道な有様である。かの有名怪獣映画の中であったなら、すぐにでも例の妖精が飛んできて、彼の怒りを美しい歌で鎮めたに違いない。

僕はといえば、残念ながら妖精でも美しい歌の歌い手でもなかったから、独自の方法で彼の怒りを鎮めようと静かに、けれども入念にウォーニングアップを始めていた。
とっておきの魔法のおまじない「いないいないばぁ」である。

その時の車両内の様子は以下の通りである。
大暴れの子ども。そわそわ、キョロキョロするギャル。無言で変顔の練習をする大学院生。その様子を見て、なんだか楽しそうなおばあさん。

カオスである。いや、chaosである。

そんな中、母親は落ち着き払っていて、周りの慌てた雰囲気の中、子どもに向かってさも当たり前のようにこう言い放った。

母親「アー、ウーナンヤー、バゥエーヨー」
子ども「?(Д`)

 

 

 


僕ら「?????((((;゚Д)))))))

意味不明だった。

 

 

 

それまでの会話からその母親は、(少なくとも僕の人生経験からは)ネイティブの日本人であることは明らかである。しかし、その発声にあまりに迷いが無かったので、『実は外国の人だったのかな?』と本気で考えたほどだった。

僕の混乱が醒めないうちに、母親と、その子どもの世にも奇妙な会話が始まった。

母「Д)アーウェ!エーヨ!!」
子ども「(Д`)エーヨ!!」

僕ら「( ゚д)(エーヨ!?)」


俗にいう、バブ語(仮)である。まちがいない。


どうやら、子どもが怒られている様子だった。すっかり泣き止んだ子どもを母親が抱きかかえた。

と、母親に促されるように、母と子、二人は子守唄のような調子で歌を歌い始めた。

バブ語で。

その内容は、バブ語どころか、英語にすら不自由している僕には全く意味不明だったが、メロディは明らかに「アメージンググレイス」だった。

赤の他人ばかりで構成された車両の中で、突然始まったリサイタルを、僕ら観客は確かな一体感と共に、静かに耳をすませていた。


ささやかに響く、優しいメロディが、明るく柔らかい車内の空気に溶け込んで、ひとつの完成された世界をつくりあげているかのようだった。


歌い終わったあとに、
母親が友人に対して「ひどい歌だね~w
と茶化しながら、僕らに恐縮しながら謝ってはいたけれど、

きっとその場にいた乗客の誰もそれを「ひどい」とは感じなかったに違いない。

まだ、言葉が分からない子供が発する無言語的な言葉を母親が真似をして子供をあやす。たまにその無言語で歌を作り、一緒に歌う。そんな日常のかけらが垣間見えた。

僕は残念ながら、『たまひよ』の熱心な読者ではないから、それが子どもにとって良い育て方なのかは知らない。

けれど、僕にはその光景がとても楽しそうで、微笑ましく、幸せな日常に見えたのは確かである。

最後にかの親子に伝えたかった。
what an amazing grace!!」と。



その日、僕は予定より二時間半遅れて登校した。