2019年7月 石川 三平

◆自分の履歴:1971年駿台予備校午前部文科系卒業、同年早稲田大学政経学部政治学科入学、専攻国際政治学ヨーロッパ統合、77年読売新聞東京本社入社販売局配属。実は最大手石油会社にも内定(早稲田から一人のみ)していたが、新聞社を選ぶ。販売店の方々から、新聞社の人間は優秀大学を出てる、とよく言われるが、駿台予備校では、東大はざら、東大・早稲田以外に行く人はほとんど居なかった。その後の状況を見るにつけ、この販売店の方々の認識は間違っていると言わざるをえない。この時代の大学エリートは東大法と早稲田政経のみだったということ。

新聞社を選んだのはいいが、反対だった親父に職場内容を説明するのが大変。記者職は当時から名前が有名だったので、おとなしく業務職で入ったため、当人も販売担当員なんて全く知らない。社内研修で経験則ばかり話す先輩に「マーケティングはいかに?」と質問して空気を凍らせてしまったことも。エライ遅れている会社だな。販売店実習で「日本の底辺で働く人たちの実像」を知る。これにのめりこんだのが運の尽き。

◆今の若い担当員は礼儀も知らない、とよく聞く。取引法人の店主と話す時、「御社」「おっしゃる通りです」と言える社員がいない。新聞調査でも若い人の右寄り保守性が指摘されているが、6月27日付け日経の春秋の記事「相手に寄り添い、無用な摩擦を避け、それでいて自分の気持ちもきちんと伝える・・・だから若い人たちは波風を立てぬことばかり意識し、保守化していくのではないか。」とある。「強制は絶対ダメである。そして何でも甘受もダメである」。某地区・某担当員のお店への業務連絡を観た。「なんだこれ、強制だらけ。こんなの見て仕事しようとする店主はいない」。何地区か見たが同じくらいひどいものだ。系統をまたいで同じ。上記にあるように相手に寄り添い、無用な摩擦を避けそれでいて自分の気持ちを伝える、同じ世代で何故もこう違うのか。これが今の新聞社の社風なのか。悲しくなってしまう。全員不要。現実の仕事として部長一人でよい。

◆最近、神奈川や千葉で大型合配店の経営苦による自廃の話を聞く。入社当初にはあり得ない話だ。昔から、首都圏の合売店への「押し紙」はあった。それを合売店主が系統へ差配していく。紙新聞が増えなくなって(激減り傾向になって)各社大型合売への押し紙が激しくなり、折込減と相まって、さすがに経営出来なくなった、ということだろう。これを切ると専売への押し紙割り振りになり、専売ももたない。またもや戦国期の話。関ヶ原合戦。これは平たく言えば「徳川VS毛利」。鍵は毛利元就にあった。有名な3本の矢の話。聞かされた吉川広家。毛利は天下の争いごとに巻き込まれてはいけない、の教えを守り、最初から東軍に。動いても家康の気持ちを逆なでしないように。関ケ原では動かず、毛利本体を止め、小早川秀秋に裏切らせた。戦後、自分に与えられた地域を毛利本家に譲る工作。こうして毛利本家は生き残った。「うつけ」と言われた広家の戦略である。本社の「うつけ様」はいかがか。

◆イノベーションの進化の速さについていけない企業が多発。企業30年の時代は過ぎ去った。今、リーダーに求められる要素の第一は「素直」である。周りのいいことをそう受け止められる姿勢だ。第二に「俯瞰する力」。これを実現するにはあらゆる知識・教養が不可欠。筆者の人生の中で、「この人は凄い知識人」だと思った人が一人だけいる。後でわかったことだが、その方は大学の学部の先輩で読売の経済記者、なんと長州の田舎出身だった。物凄い読書量で、6000冊読破の小生でも追いつかない。第三は「実行力」。今から起こることは予測できない事ばかり。。それに対処するには「やたらと原稿を書く」ことである。メモ・原稿の多発である。来月からは「絵」も画いてみよう。