★東北関東大震災で被害に遭われた方々に心からお見舞い申し上げます。新聞界の関係者にも被害に遭われた方も多く、その報に接し心を痛めております。

◆私自身、この震災から未だ立ち直ることが出来ない。地震後暫らくして、旧知の某新聞社幹部から電話をいただき「みんな待っている。今どうするべきか早くブログにアップしてくれ」といわれたのだが、「今は心が乱れて書くことができない。新聞がやるべきことは①共同取材 ②共同配達 であろう。」と答えるのが精一杯であった。あげく風邪をひき、医者に行ったところ「脈が速い。心電図に不整脈がある」と脅かされる始末である。地震発生時(2011年3月11日14時26分)、私は書斎で本を読んでいた。かねてから渡邉恒雄氏(自分が3年前まで所属していた会社のトップ)に興味をいだいており、いい機会だから彼に関する書物を全部読んでみようとして3冊目にかかったところだった。10階に書斎がある。ひどい揺れが3回連続。本棚が3つあり、一つを抑えているのがやっと。テーブルの上の書類入れ、本棚の本は飛び出し、パソコンプリンターが台ごと倒れ、本棚の上の置物はどんどん落ちる。2回目の揺れで椅子の後ろの本棚が崩れた。玄関への通路が塞がり、やっとドアまでたどり着き、階段を駆け上り13階へ(住居がそこで女房と娘がそこにいる)。彼等の無事をみて一安心。食器が半分飛び出したという。階下を見るとマンションの住民の半数が階段をおり、一階の公園へ避難していた。電話は勿論通じず、PCメールで親戚・知人に「家族の無事」を知らせる。TVでは被災地の今の津波が襲う実況中継。目を覆うシーンが映しだされている。これが現実か、日本で今起こっていることか、疑い続ける状態が続く。いままでに経験したことのない恐怖である。

◆以来、11日間、10階での家族3人の避難生活が続く。とにかく目の届くところに3人いないと不安だ。夜も3人並んで寝る。寝るといってもあの緊急地震速報で起こされ満足に眠れない。余震回数が半端ではない。年間300日ぐらい夕方は晩酌と称して酒を飲む私だが、一週間ビールすら飲む気にならない。もともと飛行機に乗るのが苦手であるが、その訳はそれが地に着いていないからである。その地が揺れる。この世には安心できるものがなくなってしまったのか、との思いが強い。翌日に予定されていた「息子の結納」での大阪行きも、その後の「娘の卒業旅行」北陸行きもキャンセル。3月中の予定は殆ど中止。一日中、3人で籠っていると息が詰まるので翌日から買い物と称し近所にでてみるとなんと「世間の人達は普通に笑顔で歩いている」のに驚かされる。買占めには参加しないが、一般の人達の強さにびっくりする自分を発見。日頃、イケイケの親父が落ち込んでいるのを見た女房・娘に「お父さん、まだいつものように本も読めないの」と言われてしまう。完璧さを求める性格の自分のコンピュータが故障してしまった。

◆日頃から仕事では強気で不分別とも思える言動をしてきた私だが、過去を振り返ってみると、今回ほどではないにしても落ち込んだことは何度かある。躁鬱の気があるのではと思ったことも。最近では九州への赴任時のことを思い出す。2000年6月九州への転任の話がきた。当時、長男が高校2年生で性格も温厚であるため、受験に一人耐えられるか心配であった。時の新聞社最高幹部からも3時間に亘って懇切なる説得があったが、「息子の人生が私の人生より優先する」とまで発言し一旦は断ったが、交渉で一年程度の期間という条件で赴任することになった。赴任前の準備は自分のありとあらゆる知識・能力で作成、完璧な資料、ノートが出来上がった。当時九州には「この業界で最も気が合わないと思われた人物」が上司でいた。性格からぶつかるのは時間の問題と周りもみていた。いち早くの脱出が目的とさえ言われていた。

◆こんな中の九州赴任だったが、その人物との対立はすぐ生じたものの、現地の部員達のすばらしさには驚嘆し、大きく励まされた。特にK氏、I君とはその後生涯の友ともいえる関係になる。彼等もその人物と以前から対立していたが、その生き様の男らしさには脱帽だ。九州男児とはこういう人たちのことをいうのか。お陰でその人物の意に反しながらも我が部は成果を出していく。そして部はどんどんまとまっていった。その人物の前では我が部員以外は全員下を向いての生活であったが、我が部員は夜な夜な集合し酒酌み交わすという調子であった。緊張しきった我がコンピュータも息を吹き返し、精神状況は好転。だが東京の我が家は予想通り息子の受験問題で行き詰まり暗くなった。九州でK氏やI君との一緒にという強い想いを残しながらも、転勤を申し出、2001年には帰京することになる。送別の宴は過去に経験がないほどのすばらしいものであったことはいうまでもない。私は彼等に助けられた。

◆東京では関連会社に配属された。しかし新聞販売の現場に戻りたいという強い思いは消えることはない。紙上では書けないことも含めてありとあらゆる手法に最大限の努力もし、そして決して勉強を忘れなかった。日記の再開(以前付けていたがある事件で中断)や一年100冊以上の読書。毎月の担当員考の記述、配布を継続。販売店の所長との意見交換も欠かさない日常。ただ聞き遂げられず、むなしく天を仰ぐ。いくら努力しても勉強しても時間は経過するだけ。周りの友人達も相当動いてくれたのは事実。私も現場には自信があった。時代は大きく変わろうとする時に、業界は動こうとせず、販売店が苦境に陥るのは目に見えているのに。併せて自身55歳になろうとしていた。このままでは自分の人生までダメになってしまう。時間をかけて数々の友人たちに相談。その中に、なんと一年間一日も外さずメール、電話してくれた友人までいた。本当にありがたかった。こんな人達のために恩返しする方法は。2007年11月、多くの友、後輩たちから止められる中、退社を決意し、退社。

最終日、退社時には女房だけ呼んだ。

◆人生の落ち込みに際し、私は多くの本当の友人たちに支えられて今に至っている。多くの恥ずべき人生も歩んできたが、60歳を前にして、そして今回の地震という災害から受けたショックを前にしても、改めて友人・仲間たちの存在に感謝せざるをえない。退社3年3ヶ月を経過した今も、日々多くの人達からの連絡をいただく。私は感謝に答えなければいけないと強く感じているので、在社中とは180度違うスタンスで応じている。特に新聞販売の世界は既に落ち込んでいた入が大地震の結果、さらに絶望的に落ち、今は崖っぷちにある。今、どうするべきかという意見はさらに考える時間をいただきたい。最後に「渡邉恒雄」関連の本にあった「柳生一族の家訓」を記載する。こころから友達に感謝の意を表する。

「小才は縁に出会うて縁に気づかず

    中才は縁に気づいて縁を生かせず

          大才は袖振れ合ふた縁をも生かす」

君命も受けざる所あり―渡邉恒雄 私の履歴書/渡邉 恒雄
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