◆12月23日付け読売朝刊に佐藤栄作氏の日記のことが報道されていた。沖縄返還時に日米の間で密約があったことが彼の日記に記されていたという。他人の日記を覗き見ることは倫理的に許されないことではあるが、自ら明らかにしたり死後一定の期間を経過し歴史的にみて世論が認めた時には公表される。高名な人物の生前の日記はその時の世相に対する故人の見解が記されており、非常に興味深いものがある。僕の周りでも先日先輩が在職中付けていた日記を自費出版され読む機会に接したが、僕自身も当時一部係わりを持っていたため、さらにおもしろく読ませていただいた。

◆僕自身は大学時代の5年(?)そして最近の5年の計10年、日記を付けている。余談ではあるが平成元年から19年の20年間、毎月一回「担当員考」(後年は三平考)なる書き物を著し続け、現在は20年以降ブログ(月4回~5回)発表として続けている。担当員考も世の中の動向を受け、新聞販売業を肌で感じながら、その時(月)何を考え、何をしようとしたかを記録に残したもので、日々のメモの積み重ねを月末集大成し、原稿を世間に発信するもので、発信者としての責任を感じ、真剣に考えた証しでもある。当時多くの担当員が賛同、実践していたが、現在継続されているのはごく一部と聞く。非常に寂しくまた無念でもある。

◆僕の流儀は翌朝、朝食後日記を書く方式である。その日の夜は酒を飲み人との交流も多く、深夜は感情的になり易いためこの方式にしている。前日の記憶をチェックし、それが鮮明にならない時は当然猛省だし、今流行のアルツハイマーの防止にもなる。書き続けてわかることだが、何よりも文章が簡潔で洗練されてくる。自分の考え思いを本質に近く表現できるようになるということだ。これは日常の会話、言動にも影響される。無分別な言動がどんどん減って自信へと繋がっていくと考える。

◆近代日本が成立していく過程にあった明治、大正期、多くのリーダーと言われた先達は必ず自分で日記を記していた。現代日本の各分野でリーダーと言われる人達が彼等と比べ軽い存在であるのはこの差だろう。前述のように「日記を付ける」ことで深く考えた上で責任を持って世の中に問う。そうした言動が出来る原点は「日記を付ける」ことにあるとも考える。今、自分の言動に不満を憶え、危機を感じるならば、即「日記を付ける」ことを始めるべきだ。正月という月だからさらにタイミングがいいといえる。ただし「継続する」ことが前提である。(継続は力なり)