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批判と指摘,否定と批判


否定と批判の違い、
批判と指摘の違いに関して、

読者の方からメールを頂いたので、
この場で回答をシェアしようと思います。


頂いたメールはこちらです。


~以下引用~

サトリさん

いつもメルマガを
ありがとうございます。

先日「引き寄せの法則の真実」を
購入させていただいた中村と申します。


わかるような気がするけど難しい。

時にはなぜか
心苦しくなることもあったり。

そんな、ある意味で悪戦苦闘
しながら少しずつ読んでいます☆


今日はメルマガを読んでの質問です。

いつもメルマガの最後に、
お気軽にご連絡をと書いているので、
送ってみました。



13日のメルマガ、
『批判=自己否定』についてです。

ブログ記事にも飛んで
読ませていただきました。

(このメルマガは、
 『【まぐまぐ版】悟りの書』の方です。

 元記事はこちらです。)



参考記事:
批判=自己否定 世界は自分の認識で創られるので、批判すれば自分自身を否定するのと同じ効果を生む



お聞きしたいのは 、
どこまでが、あるいは
どういったものが

「批判」なのか、です。



例えば改善点の指摘、

オリジナリティ主張のため
に既存のものを前提として置くこと。


あるいは、自分の意見の主張さえも、

その反対側の意見を持っている人
から見ると否定に捉えられると思います。


それは相手の捉え方次第では
ありますが、その可能性を

(単なる空想・想像だとしても)

把握していると、


その人を思い浮かべることで、

「批判になるのでは?」

と考えることがたまにあります。


『指摘・アドバイス=批判・否定』

ではないでしょうが、
そうなってないか?

問うてくる自分はいます。


そうした方向性に対して、
たとえば質問を受けて、

そんな応え方が必要な時、
主張したい時があり、

「批判になっても良いから、
 ここは言っておきたい!!」

と思い、相手にその旨を伝え、
話すこともあります。


熱く語ってしまう性分というか
主張したい背景があるため、

そこに負い目や引け目を
考えてはいません。


それこそ自然の流れに
沿っていないのではないか?

とか、他者の領域に
断りなく入り込むとか。

それそのものも、
たしかに私の主観でしかないのは、

たしかにそうですが、
指摘を超えて批判になって
しまってる気もします。。


ちなみに、誰かを
批判することはありません。

批判になってしまったとしても、

対象は「人」 ではなく
「考え」「構造」「形式」
といった事柄です。


が、サトリさんをはじめ、
こうした記事を書いている人の意見は

「もっともだ」と私も思うのです。


批判ではなくとも、
指摘やアドバイスは
必要項目だと考えます。


この記事を書いている
サトリさんの中での

批判や否定という世界は
どのようなものですか?


お時間のある時にでも

何らかの形で
ご回答いただければ有難いです。


よろしくお願い致します。


~引用ここまで~



僕の見解ですが、自己否定という意味での
『批判』というのは、シンプルに、

『その対象を許せていない』

という定義で考えてます。



言葉と解釈は別物で、
同じ言葉を使っていても、

批判になる場合と
ならない場合があります。


また、その『解釈』は、

言葉を使っている当人の
世界で創られるものなので、

周りの人から観たら『批判』に観えても、

当人の中では『自己否定』という意味での
批判ではない、ということもあります。


たとえば僕も、言葉尻だけをとらえたら、

『批判(否定)』
とれるようなこともよく発言します。



コピペやテンプレートで、アタマを
使わずにラクに稼ごうとする人たち
(人を堕落の道へ誘う発信をする人たち)


を揶揄したり、


信者を集めて盲目的に信仰させようとする、
タチの悪いスピリチュアリストたち


を揶揄したりもします。


でも、僕の中では、
そういう人たちの存在そのものを

『許してない』ワケではないんです。



彼らのような存在が
いてくれるおかげで、

僕は僕のアイデンティティを
体現できるワケですし、


彼らには、彼らを求める人たち

(それが、その人たちの顕在的な
 意志であるかはともかく)

も存在するのです。


僕は、僕自身の解釈が創りだして
自分に観せているこの世界の、

いかなるものも『否定』しないことを、
意識的に、自分に言い聞かせてます。


まあ、もちろん、

自我の自動反応として、
反応的に拒絶したくなる、

拒絶してしまう瞬間というのは
たくさんあるんですけどね。


だからこそ、意識的に
自分に言い聞かせるんです。


瞬間的に、心の中に
否定や拒絶が生まれても、

それを自分の個人メディアで
発信するまでに、心の中で

『許し』『受け容れ』のプロセスを
通り抜けさせるようにしてます。


たま~に、反応的、感情的に
アウトプットしちゃうこともありますが、

でも、投稿後に、
アタマを冷やして考えてみて、

『これは不適切だな』と思ったら、
その発言は削除しちゃいます。



だから、僕がブログやメルマガ、
Facebookなどで自分の言葉
としてアウトプットする段階では、

批判的、否定的に観えるコメントも、
基本的には、すべて『指摘』とか、

自分の意見を際立たせるための『対比』

としてアウトプットしてる、ってことです。


ユダヤ人の格言に、

『自分の言葉を、
 自分が渡る橋だと思いなさい。

 しっかりとした橋でなければ、
 貴方は渡らないでしょうから』



ってのがありますが、
これは数年前に目にして以来、

僕の中でかなりの頻度で
リフレインしてる言葉です。



ちょっと論点がずれちゃってる気もしますが、

まあとにかく、

相手が『指摘』ととるのか、
『批判』ととるのかを、こちらが
コントロールすることは不可能


だと、僕は割り切ってます。


言葉を放つ前に、
どんなに計算して考え尽くしても、

相手の受け取り方を
コントロールはできません。


なので、

相手がどう受けとめても
受け容れるため、自分自身の
言葉に責任を持つ


ってことを、常日頃から
実践していくしかないのかな、

って思います。



究極的に言えば、他人から観て、

どんなにネガティブで
批判的な言葉を使おうと、


自分の心の中でそれを
『許し』『受け容れ』ていれば、

それは批判(自己否定)ではない、

ってことです。


まあただ、言葉とイメージは
自然に結びついているし、

心の中の『許し』『受け容れ』の度合いが
高まると、他者との分離もなくなるので、


わざわざ他人を不快にさせるような
言葉を選んで、それをアウトプット
することもなくなるってのが、

現実的な見解ですね。


この辺り、理屈がどうこうというより、
感覚的な部分も多いのですが、

これもやっぱり、自分自身の器の大きさ、
自分自身や他人、世界に対する、

『許し』『受け容れ』の度合い、
そして、全体的なバランス感覚が
ものをいうって話だと思います。


自分の器を広げるためには、

何ごとも拒絶せず、
壁をつくらず受け容れ、

なんでもやってみて、
経験知を増やしていく


ただそれだけですね。


参考になれば幸いです^ー^



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