サトリってどんな人?
2分で読めるサトリの簡易プロフィール
この前書いた記事、
『予感とは未来の種 量子論の不確定性原理から未来が現在の原因になることを解説する』
の中で、般若心経の
『色即是空、空即是色』
を引用したんですが、
今、読んでいる苫米地氏の
『お釈迦さまの脳科学』に、
この般若心経が正統なものではなく、
中国で生み出された『偽経』ではないか、
という説が述べられていました。
歴史的な考察と般若心経自体の内容から、
その根拠が述べられています。
『色即是空、空即是色』というと、
仏教独自の『空』という概念を表す、
代表的なフレーズだと思っていたのですが、
どうもここにも誤りがあるようですね。
ちょっと考察してみようと思います。
まず、仏教用語である『色(しき)』
というのは、『存在』にあたる言葉です。
仏教では、すべての『存在』は
『物質的現象』としてみなすのですが、
この時点で物質とエネルギーが互いに
変換できるというアインシュタインの
相対性理論に通ずるものがあります。
『色』は認識の対象となる物質的現象の
総称で、感覚器官(眼・耳・鼻・舌・身・意)
によって認識する対象、とのことです。
ここで、感覚器官が通常考えられる
五感に加えて、『意』、
つまり意識が含まれていることに注目です。
『色』は単に『物質』だけを
指すものではなく、
苦しみや悲しみ、喜びといった、
意識が認識する『感情』といった
ものの存在も含むわけです。
『色即是空、空即是色』では、
『色(存在)』に対する概念として
『空』という言葉を持ってきていますが、
『色(存在)』の反対の概念としては
『無(非存在)』という
言葉が当てはまります。
『空』というのは、『色(存在)』と
『無(非存在)』の両方を包括する、
さらに抽象度の高い概念になります。
『有』でもあり『無』でもある、
というのは一体どういう概念なんでしょう?
『空』というのは、ブッダが悟った
『縁起』の概念を説明したもの、
と言われます。
『縁起』というのは、この世のすべての
ものや事柄がつながり(関係性)を
持って互いに支えあっている、
ということを言います。
例えば、一人の男の人がいるとします。
その人は妻にとっては夫であり、
子どもから見れば父親であり、
会社に行けば課長であったり、
上司であったり部下であったりするわけです。
つまり、人(自我)の存在とは
情報によって作り出されるものであり、
周囲のあらゆるものとの関係性(縁)
によって自分自身でいることができるのです。
また、同様に自分の存在が
周りの存在を支えているとも言えます。
『空』というのは、単に存在の有無という
レベルではなく、すべてのものに実体がない、
と考えることです。
ちょっとわかりづらいですが、
例えば人を人として認識できるのは、
人間の脳のRAS
(Reticular Activating System)という、
重要度の高いものだけを認識する
機能のおかげなのです。
重要度の低い情報を遮断して、
曖昧にものを見てくれるおかげで、
僕たちの脳は、人を人として
認識することができるのです。
もし、あるがままに
認識してしまえばどうなるでしょう?
人の身体は数百兆個もの細胞で
構成されているので、
細胞の集まりに見えてしまうかもしれません。
もっと細かく見れば、
さらに多数の原子の集まり、
素粒子レベルで考えれば、
それこそ『有』と『無』を繰り返す、
点滅している存在に見えるわけです。
『空』というのはつまり、
すべてが『現象』と考えるということです。
実体はなく、関連性(縁)によって
起こる現象だということです。
こうした世界観から、仏教では
すべての煩悩をなくしてしまって
『悟り』へ到達することを追求する、
すべてを『空』と考える
『空観』という思想が生まれました。
一般的に考えられる修行僧のイメージですね。
それに対し、すべてが『空』であるとしても、
その関連性(縁起)によって
生まれる意味の方に価値を置く
という思想が『仮観』です。
『空』とか難しいことを考えず、
煩悩を追求すればいい、という考えですね。
これは宗教をもたない多くの
一般の人に当てはまるかんじでしょうか。
さらに、仏教にはその中間である
『中観』という思想もあります。
すべてが『空』であるということを理解し、
認識した上で、関連性(縁起)によって
生まれる意味の方にも価値を認める、
ということです。
『悟り』についても『煩悩』についても
価値を認める、ということですかね。
仏教の初期の経典『阿含経』には
『毒矢のたとえ』という
エピソードがあります。
ブッダが弟子に
『死後の世界はありますか?』
『生まれ変わりはありますか?』
と問われてこう答えたといいます。
『ある人が毒矢に射られたとする。
すぐに治療しなければならないだろう。
ところが医者にかかる前に、
一体この毒矢を射た人は誰か?
どんな名前の人か?身長は?
どんな顔の人で、どこに住んでいた人か?
どんな弓で射たもので、
どんな矢じりがついていたのか?
と言ったような理論を
追求していたら、結局、
死んでしまうだろう。』
『それとおなじで世の中は有限か無限か?
霊魂と身体は同一かそうでないか?
人間は死後も存在しているのか?
そのような問題に答えたところで
私達の苦なる人生の解決にはならない。
そのようなことがはっきりしたら
修行すると言うのは正しくない。
世の中が常住か、常住でないかについて
見解を持ったところで私たちの
老死・憂い・苦痛・嘆き・悩み・悶え
は依然としてここにある。
私はいま、現実のこれらの
老死・苦を超えることを説くのだ。
悟りに達すればそのようなことは
気にならなくなるであろう。』
つまり、
世界観とか自我とか死後の世界とか、
そんなこと考える暇があったら
ほかにやることがあるだろ、
今の現実を大切に生きれば、
そういうことは気にならないよ、と。
なんか上に語ってきたことが
全否定されちゃったようにも見えますね^^;・・・
いやまあ、要は、
知識は役立てるために
身につけるもので、
知識をつけること自体を
目的にしちゃうと良くない
ってことですね。
ちょっと難しいことをクドクドと語って
しまったので最後にさわやかなR&Bで締めましょう。
般若心経R&B 妙にクオリティ高いです(笑)
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この前書いた記事、
『予感とは未来の種 量子論の不確定性原理から未来が現在の原因になることを解説する』
の中で、般若心経の
『色即是空、空即是色』
を引用したんですが、
今、読んでいる苫米地氏の
『お釈迦さまの脳科学』に、
この般若心経が正統なものではなく、
中国で生み出された『偽経』ではないか、
という説が述べられていました。
歴史的な考察と般若心経自体の内容から、
その根拠が述べられています。
『色即是空、空即是色』というと、
仏教独自の『空』という概念を表す、
代表的なフレーズだと思っていたのですが、
どうもここにも誤りがあるようですね。
ちょっと考察してみようと思います。
まず、仏教用語である『色(しき)』
というのは、『存在』にあたる言葉です。
仏教では、すべての『存在』は
『物質的現象』としてみなすのですが、
この時点で物質とエネルギーが互いに
変換できるというアインシュタインの
相対性理論に通ずるものがあります。
『色』は認識の対象となる物質的現象の
総称で、感覚器官(眼・耳・鼻・舌・身・意)
によって認識する対象、とのことです。
ここで、感覚器官が通常考えられる
五感に加えて、『意』、
つまり意識が含まれていることに注目です。
『色』は単に『物質』だけを
指すものではなく、
苦しみや悲しみ、喜びといった、
意識が認識する『感情』といった
ものの存在も含むわけです。
『色即是空、空即是色』では、
『色(存在)』に対する概念として
『空』という言葉を持ってきていますが、
『色(存在)』の反対の概念としては
『無(非存在)』という
言葉が当てはまります。
『空』というのは、『色(存在)』と
『無(非存在)』の両方を包括する、
さらに抽象度の高い概念になります。
『有』でもあり『無』でもある、
というのは一体どういう概念なんでしょう?
『空』というのは、ブッダが悟った
『縁起』の概念を説明したもの、
と言われます。
『縁起』というのは、この世のすべての
ものや事柄がつながり(関係性)を
持って互いに支えあっている、
ということを言います。
例えば、一人の男の人がいるとします。
その人は妻にとっては夫であり、
子どもから見れば父親であり、
会社に行けば課長であったり、
上司であったり部下であったりするわけです。
つまり、人(自我)の存在とは
情報によって作り出されるものであり、
周囲のあらゆるものとの関係性(縁)
によって自分自身でいることができるのです。
また、同様に自分の存在が
周りの存在を支えているとも言えます。
『空』というのは、単に存在の有無という
レベルではなく、すべてのものに実体がない、
と考えることです。
ちょっとわかりづらいですが、
例えば人を人として認識できるのは、
人間の脳のRAS
(Reticular Activating System)という、
重要度の高いものだけを認識する
機能のおかげなのです。
重要度の低い情報を遮断して、
曖昧にものを見てくれるおかげで、
僕たちの脳は、人を人として
認識することができるのです。
もし、あるがままに
認識してしまえばどうなるでしょう?
人の身体は数百兆個もの細胞で
構成されているので、
細胞の集まりに見えてしまうかもしれません。
もっと細かく見れば、
さらに多数の原子の集まり、
素粒子レベルで考えれば、
それこそ『有』と『無』を繰り返す、
点滅している存在に見えるわけです。
『空』というのはつまり、
すべてが『現象』と考えるということです。
実体はなく、関連性(縁)によって
起こる現象だということです。
こうした世界観から、仏教では
すべての煩悩をなくしてしまって
『悟り』へ到達することを追求する、
すべてを『空』と考える
『空観』という思想が生まれました。
一般的に考えられる修行僧のイメージですね。
それに対し、すべてが『空』であるとしても、
その関連性(縁起)によって
生まれる意味の方に価値を置く
という思想が『仮観』です。
『空』とか難しいことを考えず、
煩悩を追求すればいい、という考えですね。
これは宗教をもたない多くの
一般の人に当てはまるかんじでしょうか。
さらに、仏教にはその中間である
『中観』という思想もあります。
すべてが『空』であるということを理解し、
認識した上で、関連性(縁起)によって
生まれる意味の方にも価値を認める、
ということです。
『悟り』についても『煩悩』についても
価値を認める、ということですかね。
仏教の初期の経典『阿含経』には
『毒矢のたとえ』という
エピソードがあります。
ブッダが弟子に
『死後の世界はありますか?』
『生まれ変わりはありますか?』
と問われてこう答えたといいます。
『ある人が毒矢に射られたとする。
すぐに治療しなければならないだろう。
ところが医者にかかる前に、
一体この毒矢を射た人は誰か?
どんな名前の人か?身長は?
どんな顔の人で、どこに住んでいた人か?
どんな弓で射たもので、
どんな矢じりがついていたのか?
と言ったような理論を
追求していたら、結局、
死んでしまうだろう。』
『それとおなじで世の中は有限か無限か?
霊魂と身体は同一かそうでないか?
人間は死後も存在しているのか?
そのような問題に答えたところで
私達の苦なる人生の解決にはならない。
そのようなことがはっきりしたら
修行すると言うのは正しくない。
世の中が常住か、常住でないかについて
見解を持ったところで私たちの
老死・憂い・苦痛・嘆き・悩み・悶え
は依然としてここにある。
私はいま、現実のこれらの
老死・苦を超えることを説くのだ。
悟りに達すればそのようなことは
気にならなくなるであろう。』
つまり、
世界観とか自我とか死後の世界とか、
そんなこと考える暇があったら
ほかにやることがあるだろ、
今の現実を大切に生きれば、
そういうことは気にならないよ、と。
なんか上に語ってきたことが
全否定されちゃったようにも見えますね^^;・・・
いやまあ、要は、
知識は役立てるために
身につけるもので、
知識をつけること自体を
目的にしちゃうと良くない
ってことですね。
ちょっと難しいことをクドクドと語って
しまったので最後にさわやかなR&Bで締めましょう。
般若心経R&B 妙にクオリティ高いです(笑)
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