親知らず2024 | 佐野光来

佐野光来

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 二月の終わり、季節外れの春日が訪れたその一週間後に、親知らずを抜いた。その日はとても寒い日だった。

 わたしの親知らずは上も下も四本しっかり根の太いものが歯茎のなかに身を潜めていて、いつだってきっとその気になればぜんぶ抜くことができるのだけど、下の歯のほうは歯の神経が顎の神経に触れているとかなんとかで、仮に抜けたとしても顎の神経に傷がつけば、しびれが残る可能性が高いので、抜くなら口腔外科、手術必須、今のところ埋もれているし悪さはしないだろうとのことで手がつけられないでいる。

 左上の親知らずは十年ほど前に生えてきたのを抜いていて、今回は右上。奥歯なのか歯茎なのかが急に痛くなって歯医者に行ったところ、飛びだした親知らずと奥歯がぶつかり、そこから虫歯が広がっている、治療をしつつ、親知らずも抜いたほうが良いでしょう、と先生。久しぶりの虫歯の痛みにも震えたけど、しかしまあ、どうして今ごろ、親知らず。このタイミングで親知らず、抜くとは思っていなかったな(いつどのタイミングでもそう思っていたと思うけど)。

 奥歯、ということばをきくといつも川上未映子さんの「わたくし率 イン歯ー、または世界」という小説を思い出す。うろ覚えだけど、奥歯におるぱんぱんのわたし、わたし=奥歯という、、(ざっくりすぎてごめんなさい)。根拠はないけれど、なんかわかる気がするぞ、、という感触だけがなぜだかずっと残っていて、今回の抜歯でそれは確信に変わったのだった。

 当日は血やら痛みやら腫れやら、抜いたときのあの感覚、麻酔は効いていても、歯をねじり引っこ抜かれるあの感覚(マジ怖い)から逃れるのに必死で気づかなかったけれど、抜歯二日目からすこぶる調子が悪い。もう痛いとかじゃなく、こころのバランスが全くとれない。持ち前のネガティブ思考に拍車がかかって、あのときのあの人のあのことば、あの態度、あの視線、あの沈黙、、どうしてなの、、みたいな感じで渦のようにバッド要素が流れ込んでくる。もしかして、すごく大事な、バランスをとるための役割を奥歯が、あの一本の歯が、担っていたのかもしれないと、思い至ったわけです。どこがわたしという人間を担って支えてくれているかなんて、ほんとはよくわからないもんね。

 あったものがなくなる、というのはときに立ち直れないくらいに哀しいことだし、それが、急に、麻痺までさせて強制退去させられるのだから、そらびっくりもしますよね。なくなった状態に慣れるまで時間がかかるのも無理はなくて、だけど十年前に抜いた左上の奥歯の奥を舌先でつつくと、もうそこはがっちり硬い歯茎になっていて、たくさん血がでたことも、穴ぼこがあったことなんて、思い出せないくらいに正確な、形になっている。わたしたち生きものに、うまい具合になにもかもをゆるやかに忘れて、更新する機能が備わっているのは、ひとつの、神からのギフトなのかなあ。ていうか、身体とこころが同時に実存するにあたっては、やっぱり時間っていう概念がないときついのかも。今しか生きられない、ということ、時間は前にしか進まないということ、覚えておく、と忘れていく、が重なり合って過ぎてって、また何年か経ったとき、右上の奥歯の奥を舌でつつきながら、あのときしんどかったなあ、と他人事みたいに懐かしむんだろうな。

 でももう抜きたくない、親知らず2024

 あと、人の歯を抜ける歯科医師って仕事のメンタルってばほんとすごいよね。麻酔がなかったら死ぬほど、ほんとに死んでしまうことだってあるほどに、痛いだろうし、医療に感謝した日でもあった。


 

 東京はもうすっかり春。桜も咲き始めたり、散り始めたりしているね。親知らず抜歯から一ヶ月弱。春の陽気に誤魔化されながら調子も幾分戻ってきた。みなさまはお元気?新生活、新学期、新年度、春に押し寄せるもろもろにどうか挫けず、面白がるくらいの心待ちでいられますように。

 ゆっくりやってこうね。