桜井ジャーナル 2024.02.10
カールソンによるプーチンへのインタビューを米国のエリートが恐怖する理由
タッカー・カールソンが2月6日に行ったウラジミル・プーチン露大統領とのインタビュー映像が公開された。プーチンが過去に語ったことから逸脱する話はその中になく、「スクープ」があったとは思えない。それでもアメリカでは大騒動だ。
プーチンはロシアがウクライナに対する軍事作戦を始めた理由を説明するため、中世までの歴史を語った。現在の出来事は過去の出来事の結果であり、歴史は因果の連鎖だ。ロシアとウクライナとの関係を説明するため、中世までさかのぼることは正しい。ちなみに、日本とアメリカの関係を理解するためには戦国時代までさかのぼる必要があると本ブログでは考えている。
現在ウクライナとされている地域がソ連時代に形作られたことは本ブログでも繰り返し書いてきた。ソ連消滅後、自分たちがロシア人だと考えているウクライナの東部や南部の人びとは西部から離脱しようとしたが、それは実現しなかった。ウクライナを新自由主義化しようとした西側の巨大資本は黒海に面した南部、そして資源が豊富で穀倉地帯の東部を欲しかったのだ。
しかし、東部や南部の住民だけでなく、ウクライナ人の多くはロシア人との対立を望んでいなかった。そうした中、ロシアとの関係を重視するビクトル・ヤヌコビッチは2004年11月に行われた大統領選挙で勝利する。そこで始まったのが「オレンジ革命」だ。
選挙の直後からユシチェンコ陣営は選挙で不正があったと主張し、
デモや政府施設への包囲を始めて国内を混乱させて政権奪取に成功したのだ。
そしてアメリカは
新自由主義者のビクトル・ユシチェンコを大統領に据えることに成功した。
ユシチェンコは2005年1月から10年2月まで大統領を務めるが、
彼の導入した新自由主義的な政策は一部の腐敗勢力に富を集中させてオリガルヒと呼ばれる富豪を生み出す一方、
大多数の庶民を貧困化した。
そこで、2010年の大統領選挙でユシチェンコ 正しくはヤヌコビッチですね が再び勝利し、大統領に就任した。
そこでアメリカ支配層は2013年11月から14年2月にかけてクーデターを実行するのだが、
その手先はNATOから訓練を受けたネオ・ナチだった。
クーデター体制になると軍や治安機関のメンバーのうち約7割が離脱し、
軍や警察が民衆の味方になった例ですね!
東部や南部の住民もクーデターを拒否する。南部のクリミアに住む人びとはロシアの保護下に入り、東部のドンバスでは内戦が始まった。その際、軍や治安機関から離脱した人びとの一部ばドンバスの反クーデター軍へ合流したと言われている。
そのため反クーデター軍は強く、
アメリカはクーデター体制の戦力を増強し、要塞線を築くために時間が必要になった。
そこで出てきたのがミンスク合意にほかならない。
その合意で仲介役を務めたドイツのアンゲラ・メルケル(当時の首相)は
2022年12月7日、ツァイトのインタビューで
ミンスク合意は軍事力を強化するための時間稼ぎだったと認めている。
その直後にフランソワ・オランド(当時の仏大統領)はメルケルの発言を事実だと語った。
アメリカ/NATOは8年かけてクーデター体制の戦力増強に努める。武器弾薬を供給、兵士を訓練、さらにドンバスの周辺に要塞線を構築したのだ。
この地域にはソ連時代から地下要塞が作られていた。その中には親衛隊の中核だったアゾフ大隊が拠点にしたマリウポリ、岩塩の採掘場があるソレダル、その中間にあるマリーインカも含まれていた。
ロシアとの軍事的な緊張を高めると同時に経済封鎖を推進してきた西側の勢力はカールソンのインタビューに激怒している。
本ブログでは繰り返し書いてきたが、
イギリスの支配層は19世紀からロシアを征服しようとしてきた。
そのロシアと新興国ドイツを戦わせようとしたのが第1次世界大戦だ。
その当時、
戦争に反対する大地主と
戦争に賛成する資本家が対立、
グレゴリー・ラスプーチンと
フェリックス・ユスポフが
それぞれの象徴的な存在だった。
ユスポフと親しかったスティーブン・アリーとオズワルド・レイナーはイギリスの対外情報機関MI6のオフィサーであり、ラスプーチンを実際に射殺した拳銃を所持していたのはレイナーだ。
”怪僧ラスプーチン”という語が定着していますが
“西側メディア”の宣伝の結果ということですね
ラスプーチン暗殺後、
ロシアでは「二月革命」で
資本家が実権を握る
革命というと労働者が主役・・というイメージがありますが、少なくとも
上記の例では逆!
が、それを嫌ったドイツが
ドイツは何故それ―ロシアの実権を資本家が握ること―を嫌った?
ボルシェビキの指導者を列車でロシアへ運んでいる。そして「十月革命」が起こり、ボルシェビキの体制が成立。ソ連とドイツはナチスが台頭するまで友好的な関係を維持した。
そのソ連との関係修復を訴えたのが
アメリカのジョン・F・ケネディ大統領だ。
1963年6月10日、アメリカン大学の卒業式で「平和の戦略」と呼ばれる演説を行い、
ソ連と平和共存する道を歩き始めると宣言している。
その演説の冒頭でケネディは軍事力で世界に押しつける「パックス・アメリカーナ(アメリカ支配による平和)」を否定、アメリカ市民は「まず内へ目を向けて、平和の可能性に対する、ソ連に対する、冷戦の経過に対する、また米国内の自由と平和に対する、自分自身の態度を検討しはじめるべき」(長谷川潔訳『英和対訳ケネディ大統領演説集』南雲堂、2007年)だと語りかけたのだ。
ソ連とアメリカとの間で全面戦争が起こればいずれの国も破壊されるとケネディは主張、冷戦の段階でも「両国はともに無知と貧困と病気を克服するためにあてることができるはずの巨額のカネを、大量の兵器に投じている」と警鐘を鳴らし、最後に「われわれは人類壊滅の戦略に向かってではなく、平和の戦略に向かって努力し続けるのです」と語り、演説を終えている。(前掲書)
その年の11月22日、テキサス州ダラスでケネディ大統領は暗殺され、
この戦略 =平和の戦略 が実行に移されることはなくなった。
ソ連/ロシアとアメリカが友好的な関係を築くことを恐れている勢力は
タッカー・カールソンのインタビューに激怒しているだろう。