甲状腺検査のメリット・デメリット「知らなかった」5割超 県調査 (msn.com)

 

PCを開くとでてきてしまうmsnのページ・・・

くだらない記事が多いが、これは何かなと思って

目を通した。

どういうデメリットがあるのかなと思って。

すると何のことはない、「治療の必要のないがんを見つける「過剰診断」が起きる恐れがある」

ということだった。

じゃ、全ての人間ドックやめろよ。

 

↓ このサイトについては問題視している人も多いようですが

✖✖が言っていることだから全部嘘、という観方<みかた>はしませんので紹介。

↓この記事によると、日野原

RAPT | RAPT×読者対談〈第131弾〉小林麻央の死は悪魔への生贄である。(悪の巨塔・日野原重明と市川海老蔵の深いつながり) (rapt-neo.com)

 ↑この記事の一部転載↓ ※ 写真等は略 

 

 
17 8月 RAPT×読者対談〈第131弾〉小林麻央の死は悪魔への生贄である。(悪の巨塔・日野原重明と市川海老蔵の深いつながり)
Posted at 17:30h in Society, TalkRadio by rapt 32 Comments Share
 
皆さん、大変長らくお待たせいたしました。
 
久しぶりに一般記事を更新いたします。
 
今回はまたしても「癌利権」に焦点を当ててお話をしたいと思います。
 
そして、読者対談のオープニング曲も心機一転して新たに作ってみましたが、いかがでしょうか。
 
ここ一年ほどの間、「小林麻央」が乳癌をわずらったとのことで、マスコミ各社が総力を挙げて「小林麻央」とその夫の「市川海老蔵」のことをやたらと熱心に騒ぎ立ててきました。
 
しかし、このブログの読者である皆さんは、これらの報道を見て、すぐさま「癌利権」の関係者たちがボロ儲けしようと企んでいる、と分かったはずです。
 
「乳癌にかかると恐ろしい。だから、きちんと検診を受けて早期発見しなければならない」とのプロパガンダを垂れ流すことによって、この世の多くの女性を不安に突き落とし、病院に駆け込ませようという寸法なのです。
 
しかし、実際のところ、「癌」という病気はこの世には存在していません。これについては、以前にこれまでに何度も記事にしてきました。
 
○RAPT×読者対談〈第114弾〉癌という病気は存在しない。(前編)
 
○RAPT×読者対談〈第115弾〉癌という病気は存在しない。(後編)
 
ですから、「小林麻央」が乳癌にかかったというのも嘘だということです。
 
「癌利権」の関係者どもが、歌舞伎界の寵児(?)である「海老蔵」と結託し、「小林真央」を利用した上で国民を騙してボロ儲けしようと画策したのです。
 
そして「海老蔵」自身、「小林真央」の命を生贄として捧げる見返りとして、今後さらに有名にしてもらえるという保証が与えられたわけでしょう。
 
イルミナティの世界では、有名人としてのしあがるために、自分にとって最も親しい人の命を殺し、悪魔に捧げなければならないという取り決めがあるからです。詳しくは以下のリンクをご参照ください。
 
○キリスト教がミトラ教から誕生したという大嘘。ミトラ教は悪魔教であり、悪魔崇拝者たちが悪魔教の要素をキリスト教に混入していったのです。
 
ですから、「海老蔵」もまたご多分に漏れず、知名度を上げるために誰か親しい人の命を悪魔に捧げなければならなかったのでしょう。
 
実際、これまでの一連の「小林麻央」報道によって、「海老蔵」はすっかり国民的なヒーロー(?)になってしまいました。
 
と同時に、一連の「小林麻央」報道によって、「癌利権」も随分と儲かったに違いありません。
 
しかし、もしこの推測が正しいとしたら、「市川海老蔵」は「癌利権」と何らかのつながりがあったということになります。
 
そこで、私は「市川海老蔵」と「癌利権」に何らかのつながりがないかどうか調べてみたのですが、意外にあっさりとその答えは見付かりました。
 
今回の対談者も、「癌利権」についてかなり深いところまで調べてくださったので、我々の調査は思っていた以上に速いスピードで進むことができました。
 
まず、癌治療の「早期発見・早期治療」などと銘打って、日本で初めて「人間ドッグ」を開設し、「予防治療」なるものを広めた立役者が、実は先日死んだばかりの「日野原重明」です。
 


〈日野原重明〉

 
---------------------(以下、こちらから転載)
 
■訃報 日野原重明さん 105歳=医師
 
「元気に老いる」体現 命と平和訴え続け
 
100歳を超えて現役の医師として活躍し、「元気に老いる」を体現した聖路加国際病院名誉院長で文化勲章受章者の日野原重明(ひのはら・しげあき)さんが18日、呼吸不全のため死去した。
 
105歳。葬儀は病院葬として29日午後1時、東京都港区南青山2の33の20の青山葬儀所。喪主は長男明夫(あきお)さん。
 
1911年山口県生まれ。
 
京都帝大医学部卒業後、41年に聖路加国際病院に内科医として赴任し、2012年に聖路加看護大(現聖路加国際大)理事長の座を退くまで71年間、一線で働き続けた。
 
同病院名誉院長、同大名誉理事長に就任後も患者と言葉を交わしていた。
 
病院によると、日野原さんと話すことが患者の生きがいや喜びにつながっていたという。
 
早くから予防医学の重要性を説き、民間では初となる人間ドックを同病院に開設。
 
「生活習慣病」という言葉も生み出した。
 
一方で、「75歳以上」の人を「新老人」と名付け、00年には「新老人の会」を設立。老後の新しい生き方を提唱した。
 
東京大空襲でも診察に当たり、薬不足などで救えなかった経験から「命と平和の尊さ」を訴え続けた。
 
95年のオウム真理教による地下鉄サリン事件で病院長として陣頭指揮を執った。
 
---------------------(転載ここまで)
 
もし「人間ドッグ」が存在しなければ、日本人の多くが「癌」と診断されて、ムダに死ぬこともなかったでしょう。
 
ですから、多くの人々を「癌」に見せかけて殺してきた立役者の一人が、実はこの「日野原重明」だったのです。
 
マスコミは彼のことをいかにも人の良さそうな名医として報道していますが、調べれば調べるほど、この「日野原重明」は筋金入りの悪であり、イルミナティの最重要人物であることが明らかになってきました。
 
まず以下の記事を読んでみてください。少し長いですが、非常に重大な記事です。
 
---------------------(以下、こちらから転載)
 
■地下鉄サリン事件で日比谷線が最も多くの犠牲者を出したのはなぜか?
 
(1)3月20日に東京メトロ霞ヶ関駅で慰霊式を挙行するのは、「地下鉄サリン事件」と呼ばれる出来事の真相を隠蔽する為ではないか?
 
今年も3月20日に「地下鉄サリン事件」と呼ばれる出来事の慰霊式が東京メトロ霞ヶ関駅で挙行された。
 
TBSニュースバードや NHK総合では、「現場となった霞ヶ関駅」と言う言い方をしていた。
 
この言い方は間違いではないだろう。だけど、この言い方をいくつかの放送局がして、何より毎年霞ヶ関駅で慰霊式を挙行する事により、多くの人々は霞ヶ関駅が1番たくさんの被害者を出して1番悲惨な状況だったと誤解するようになっていないだろうか。
 
実は、地下鉄サリン事件で最も多くの被害者を出したのは、東京都中央区にある日比谷線の築地駅です!
 
○地下鉄サリン事件
 
築地駅は、後述する聖路加国際病院の最寄り駅です。
 
私には、3月20日に東京メトロ霞ヶ関駅で慰霊式を挙行するのは、「地下鉄サリン事件」と呼ばれる出来事の真相を隠蔽する為のように思えてならない。
 
(2)営団地下鉄<当時>霞ヶ関駅
 
オウムは強制捜査を妨害するために、警察庁のある霞ヶ関に通勤する警察幹部を狙って地下鉄にサリンを撒き、捜査を撹乱し、その間に証拠隠滅を狙っていたと言われている。
 
1995年3月20日は月曜日で、事件は平日朝のラッシュアワーのピーク時に発生した。
 
霞ヶ関の官公庁の公務員は、通常は午前9時30分頃に出勤することが多い<えっ、そんなに遅いの! 羨ましい!>。
 
しかし、月曜日だけは朝早くに朝礼があるところが多く、8時という早い時間を狙ったのはそういう官公庁の 内部を知っている者が犯人の中にいたからではないかと推測されている。
 
霞ヶ関の官公庁の公務員、取り分け、霞ヶ関に通勤する警察幹部を狙ったと言う点に着目すれば、確かに霞ヶ関駅は象徴的な駅には違いない。
 
(3)地下鉄霞ケ関駅から採取した毒物が入っているとされる容器を運び出す警視庁科学捜査研究所の職員が笑顔なのはなぜか?
 

 
↑画像:地下鉄霞ケ関駅から採取した毒物が入っているとされる容器を運び出す笑顔の警視庁科学捜査研究所の職員 1995年3月20日、東京・千代田区
 
多くの人々が倒れている状況で、多くの人々が倒れている状況の原因となった毒物が入っているとされる容器を運び出す時、笑顔でいられるものだろうか?
 
常識的に考えれば、笑顔は消え失せ緊張感に満ちあふれているのではないかと思われる。
 
それなのに、このリラックス感たっぷりの警視庁科学捜査研究所の職員の笑顔はいったい何を意味するのだろうか?
 
もしかしたら、中には毒物など入っていないのではないだろうか。笑顔の警視庁科学捜査研究所の職員は芝居を演じているのではないだろうか。
 
もっと踏み込んで書けば、自分達の計画が決行されている事に無上の喜びを感じているようにも見える。
 
(4)地下鉄サリン事件で日比谷線が最も多くの犠牲者を出したのはなぜか?
 
地下鉄サリン事件のターゲットにされたのは、丸ノ内線、日比谷線で各2編成、千代田線で1編成、計5編成の地下鉄車内だった。
 

 
↑画像 東京地下鉄路線図 1995年当時
 
地下鉄サリン事件で13名の方々が逝去された。その中で何と10名が日比谷線利用者であった。
 
○地下鉄サリン事件 – Wikipedia
 
その中で北千住7時43分発の日比谷線中目黒方面行きが8名の死者を出している。なぜ、突出して死者数が多いのか?
 
北千住発日比谷線は散布役の林泰男(現在は小池泰男)と送迎役の杉本繁郎が担当したとされている。
 
他の実行犯がサリン2パックを携帯したのに対し、林は3パックを携帯した。
 
また、3パックの内1パックが破損し、二重層のパックの内袋から外袋内にサリンが染み出ていた。
 
彼は北千住7時43分発の電車の3号車に上野駅から乗車した。
 
林は秋葉原駅で実行犯のうち最も多くの穴を開けサリンを散布したとされている。
 
以上がWikipediaなどから判る突出して死者数が多い理由である。
 
事件発生後の8時10分、日比谷線は複 数の駅で乗客が倒れ、また運転士から爆発事故との通報を受け、築地駅と神谷町駅に多くの緊急車両が送られた。
 
次第に被害が拡大したため営団は8時35分、 日比谷線の全列車の運転を見合わせ、列車・ホームにいた乗客を避難させた。一方で千代田線・丸ノ内線では不審物・刺激臭の通報のみで、更に被害発生の確認 が遅かったため、運行が継続された。
 
(5)なぜ林泰男だけ3パックを携帯し秋葉原駅で実行犯のうち最も多くの穴を開けたのか?
 
それは最初から実に広い収容スペースがある東京築地の聖路加国際病院に多数の犠牲者を収容するつもりだったからではないだろうか。
 
秋葉原駅で実行犯のうち最も多くの穴を開けたというのは絶妙である。こうする事により、悲惨な状況のピークになる頃、電車は聖路加国際病院の最寄り駅・築地駅に到着する。
 
(6)東京二十三区内で戦時中に全く爆撃がなく無被害だったエリア
 
ロックフェラー財団の寄付で建てられた図書館のある東京帝国大学付近。アメリカ聖公会の建てた聖路加国際病院付近。日本正教会のニコライ堂(東京復活大聖堂)と関連施設。
 
丸の内の第一生命館や明治生命館などがある地域などは、戦後統治に米軍が駐屯するために残してました。
 
金持ちが住む白金<しろがね>地区、谷中・根津・千駄木地区など。
 
空襲の標的になったのは主に貧乏な人々が多く住む下町で、ここは人口が密集しているために爆撃の効果が高い上、何より産業・経済の集積地だった。
 
1995年の阪神淡路大震災も、貧乏な人々が多く住むエリアが壊滅的な打撃を受けた。
 
多くの人々が不幸に陥る出来事があった際、金持ちは助かっている例が多い。
 
(7)聖路加国際病院
 
地下鉄サリン事件の時、大半の患者が運ばれた聖路加国際病院は、元米軍極東中央病院です。
 
病院名は、使徒パウロの協力者の一人であり、新約聖書の福音書の一つである『ルカによる福音書』の著者とされる聖人ルカの漢字表記に由来している。
 
1874年、東京・築地の外国人居留地に、スコットランド一致長老教会の宣教医師ヘンリー・フォールズが健康社築地病院を設立した。その後、築地近辺で転々と場所を移動した。
 
フォールズはこの地でエドワード・モースの弥生町遺跡発掘に協力する中で、土器に残された指紋に興味を持ち、指紋捜査法を発見した。エドワード・モースと申す人は、大森貝塚を発掘した事で有名です。
 
1902年: フォールズが帰国した後荒廃していた築地病院の建物を、米国聖公会の宣教医師ルドルフ・トイスラーが買い取り、聖路加病院とした。ロシア革命が起きた1917年に、聖路加国際病院と改称した。
 
1923年、関東大震災で病院が倒壊、入院患者80名を青山学院の寄宿舎に移送、後に仮設病院を建設して診療を継続した。新病院が完成後は、仮設病院は管理棟や看護専門学校(後の聖路加看護大学)として使用された。
 
1933年、 皇室・米国聖公会・米赤十字などの寄付により新病院再建(現在の旧館)された。
 
1943年、政府に「大東亜中央病院」という名称に改名させられた。特高警察がスパイの嫌疑で日野原重明氏や日野原氏の同僚を取り調べたり、特高警察が患者を装って病院に出入りし、「大東亜中央病院」を監視をしていた。
 
1945年: 当病院があることにより築地・明石町一帯はアメリカ軍機による東京大空襲の爆撃を免れた。
 
日本の敗戦後には旧称に復帰したが、日本を占領下においた連合国軍を構成する一員となったアメリカ軍に病院施設が接収されて米軍極東中央病院として使用されたため、現在の国立がんセンター中央病院がある場所に「聖路加築地分院」を開設して診療を行った。1955年、「本院」がアメリカ軍から返還され、現在 地に戻った。
 
(8)日野原重明 104年間の人生 PART1
 

 
↑画像 2015年11月1日実施「日野原重明先生 104歳 記念講演」のポスター
 
日野原重明氏は、1911年10月4日、山口県山口市湯田にある母の実家で生まれた。
 
(註・「湯田」という地名は、イエス・キリストを裏切った「イスカリオテのユダ」から来ているのでしょうか。)
 
6日後の10月10日、 清で武昌新軍が蜂起した。世に言う「辛亥革命」が始まったのだ。
 
前年の1910年、メキシコ革命が始まっていた。
 
メキシコ革命は、1877年以来メキシコ大統領の座にあったポルフィリオ・ディアス氏に対する反対運動として始まった。
 
日野原重明氏が生まれた翌月11月、継続中のメキシコ革命で、農民派のサパタ氏が蜂起した。
 
日野原重明氏が生まれた日本は、中国やメキシコとは真逆の動きが進展していた。革命的な動きを弾圧する動きである。
 
1910年に起きた大逆事件の裁判で幸徳秋水氏ら被告全24人に、大審院が死刑判決を下したのは1911年1月18日 であった。
 
さて、7歳で洗礼を受けた日野原重明氏は、731部隊の石井四郎が首席で卒業した京都帝国大学医学部を卒業後、1941年に聖路加国際病院の内科医となった。
 
1951年、聖路加国際病院内科医長に就任した。
 
1957年、石橋湛山首相が脳梗塞で倒れ入院した際、石橋首相の主治医を務めた。
 
(9)石橋湛山氏を首相の座から引きずり降ろしたのは誰か?
 
孫崎享(まごさきうける)氏の著書「アメリカに潰された政治家たち」で、アメリカと戦った12人の政治家の一人として評価されているのが、石橋湛山氏である。
 
石橋湛山氏は、首相就任後すぐ、不審な病に倒れ辞職した。
 
その後88歳まで生き、長生きであった。あの時の病はなんだったのか。薬物攻撃を受けたのではないかとも指摘されている。その説が正しいとすれば、誰が薬物攻撃をしたのか?
 
石橋湛山首相が脳梗塞で倒れ入院した際、石橋首相の主治医を務めたのがクリスチャンの日野原重明氏ですので、日野原重明氏の可能性が高い。
 
(10)よど号ハイジャック事件
 
1970年、日野原重明氏は、福岡での内科学会への途上によど号ハイジャック事件に遭い、韓国の金浦国際空港で解放された。
 
日本初のハイジャック事件ということもあり、犯行グループが「この飛行機は我々がハイジャックした」という犯行声明に対し、「ハイジャック」の意味を知らなかった日本人乗客の為に日野原重明氏は自ら手を挙げ、「ハイジャックとは飛行機を乗っ取って乗客を人質にすることです」と機内で説明した。
 
ハイジャック中に犯人グループから人質へ本が提供されたが、応じたのは日野原だけで、『カラマーゾフの兄弟』を借りた。
 
日本初のハイジャック事件で、この驚くべき落ち着き。事前に日本初のハイジャック事件が起きる事を知っていなければ、これだけの落ち着きは示せないのではないだろうか。