第6号 平成16年4月15日(木曜日)    会議録本文へ

平成十六年四月十五日(木曜日)

    午前九時二分開議

 

 出席委員

   会長 中山 太郎君

   幹事 小野 晋也君 幹事 近藤 基彦君

   幹事 船田  元君 幹事 古屋 圭司君

   幹事 保岡 興治君 幹事 鈴木 克昌君

   幹事 仙谷 由人君 幹事 山花 郁夫君

   幹事 赤松 正雄君

      伊藤 公介君    岩永 峯一君

      衛藤征士郎君    大村 秀章君

      倉田 雅年君    河野 太郎君

      下村 博文君    杉浦 正健君

      棚橋 泰文君    渡海紀三朗君

      中谷  元君    永岡 洋治君

      平井 卓也君    平沼 赳夫君

      二田 孝治君    松野 博一君

      森岡 正宏君    森山 眞弓君

      綿貫 民輔君    大出  彰君

     鹿野 道彦君    楠田 大蔵君

      玄葉光一郎君    園田 康博君

      田中眞紀子君    武正 公一君

      辻   惠君    古川 元久君

      馬淵 澄夫君    増子 輝彦君

      水島 広子君    村越 祐民君

      笠  浩史君    太田 昭宏君

      斉藤 鉄夫君    吉井 英勝君

      阿部 知子君

    …………………………………

   参考人

   (元早稲田大学教授)

   (早稲田大学国際バイオエシックス・バイオ法研究所元所長) 木村 利人君

   衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君

    ―――――――――――――

委員の異動

四月九日

 辞任         補欠選任

  木下  厚君     馬淵 澄夫君

同月十五日

 辞任         補欠選任

  小林 憲司君     水島 広子君

  山口 富男君     吉井 英勝君

  土井たか子君     阿部 知子君

同日

 辞任         補欠選任

  水島 広子君     小林 憲司君

  吉井 英勝君     山口 富男君

  阿部 知子君     土井たか子君

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 日本国憲法に関する件(科学技術の進歩と憲法)

このページのトップに戻る
     ――――◇―――――

中山会長 これより会議を開きます。
 日本国憲法に関する件、特に科学技術の進歩と憲法について調査を進めます。
 本日は、参考人として元早稲田大学教授、早稲田大学国際バイオエシックス・バイオ法研究所元所長木村利人君に御出席をいただいております。
 この際、参考人に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じます。
 本日の議事の順序について申し上げます。
 まず、木村参考人から科学技術の進歩と憲法について御意見を一時間以内でお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。
 なお、発言する際はその都度会長の許可を得ることとなっております。また、参考人は委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。
 御発言は着席のままでお願いいたします。
 それでは、木村参考人、お願いいたします。
木村参考人 中山会長先生並びに委員の先生方、きょうはこのような大変に大事な会議にお招きを受けまして、感謝にたえないところでございます。本当にありがとうございました。
 本日のテーマは科学技術の進歩と憲法ということでございますが、会長先生、事務局からの前もって御連絡によりますと、非常に幅広い視野で、大所高所からこの問題点について論じていただきたいということでございますので、話の途中で、その詳細その他についてもし御疑問にお感じの節は、後ほど御質問いただければというふうに思っております。
 私は、海外での研究生活が大変に長くございまして、大学を出ましてから、東南アジア比較家族法ということで、タイのバンコクにありますチュラロンコン大学というところで研究を続けておりました。タイに約五年おりまして、それから、その延長線上に、ベトナム戦争当時の、一九七〇年と七一年でございますが、サイゴン大学におりまして、二年間そこで研究、教育の生活をしておりまして、その後、ジュネーブ大学の大学院、エキュメニカル研究科というところでございますけれども、そこで三年間研究と教育に従事いたしまして、ここは人権論をやったわけです。
 一たん日本に帰ってまいりまして、アメリカに一九七八年に参りまして二十二年間、正式には二〇〇〇年までアメリカに、最初はハーバード大学におりまして、それからジョージタウン大学、これはバイオエシックスの研究の世界的なセンターのあるところでございますけれども、そこに参りまして、そこで国際アジアバイオエシックス研究部というのを立ち上げたというわけでございます。
 その間、一九八七年から、早稲田大学に初めてできました、百年を記念してつくり上げられました人間科学部というところで、世界でも最初のバイオエシックスの必修の講義を学部の学生並びに大学院の学生たちに行ってきたわけです。
 私は、背景が法学、法律学、比較家族法学ということでございましたが、実はサイゴンにおりますときに、私の学生が一人で私のうちにあらわれまして、先生、日本から着いたばかりだけれども、今何を食べていますかと聞かれたわけですね。うちに引っ越してしばらくたったところでございましたけれども、エビとか魚とか海産物がベトナム料理は大変おいしいものですから、そういうものを食べている、お米も食べている、水も普通に飲んでいるということで言いましたら、学生が非常に私の顔を真剣な顔で見詰めまして、先生、エビとか魚とかそういうものを大量に食べると大変なことになりますよ、毎日エビを食べるというようなことはやめてくださいというようなことを言われました。そして、彼がかばんの底に隠していたドキュメントを見せてくれたわけですね。それが、実はその当時行われていた枯れ葉剤による、その中に含有されているダイオキシンの影響で生まれた赤ちゃんの写真だったわけです。
 枯れ葉剤というのは、これはダイオキシンを含有しておりまして、大変な猛毒でありまして、これは当時言われていたことですが、ごく微量の、約八十五グラムぐらいダイオキシンがございますと、ニューヨークの市民が一挙に死んでしまうぐらいの効力を持つとされていた大変な劇薬でございまして、私は本当に驚きました。もうエビや何かを毎日食べた後なものですからちょっと遅いかなと思ったんですが、それから非常に慎重にして、水もろ過して煮沸してというような生活に入っていった
わけです。
 これを契機に、私は、法律学の研究ということで、比較的社会とか文化とか家族関係とかということを中心にしておりました研究分野を、科学技術、特にそれに基づく兵器の悪用、誤用の問題と人間の生命の尊厳ということに焦点を合わせまして、そして、人権と科学技術の問題等を中心に研究を始めることにしたわけです。
 つまり、一九七〇年代の初めにこの問題に取り組んでいったわけですけれども、その契機となったのは、私とベトナムの私の学生とのこの出会いでした。この学生は片手がございませんでしたが、後にその学生の友人から聞いたところによりますと、みずから手を傷つけて、そうして戦争に行かないことを、拒否したということでありましたけれども。
 そういう状況の中で、私はサイゴンの街角で、アメリカ軍が放出した本を売っている本屋さんがありまして、そこの本屋さんで一冊買いました。その本のタイトルを今でもはっきりと覚えているんですけれども、それは「バイオロジカル・タイムボム」、生物学的時限爆弾という本なんですね。生物学的時限爆弾というその本の中に、既に一九七〇年代、これは六〇年代の終わりに書かれた本ですけれども、その中に、体外受精の問題とか死の問題、移植の問題とか、あるいはクローンの問題とか、そういうことが取り上げられておる。
 これはゴールドン・テーラーという人が書いた本で、後にみすず書房から渡辺格という方が訳されて出していますけれども、その方の本なんですが、その一章を読んだとき、私は大変に驚いたんですね。それは、ジーンウオーズ、遺伝子戦争というチャプターがあったんですね。七〇年代の初めに、これからの生物化学兵器は特定の人種の遺伝子に働くような爆弾を開発することになるだろうということが書いてあったわけですね。大変に私はショックを受けまして、実はその遺伝子戦争のただ中に私はいたということを実感して、脂汗が出てきたといいますか、非常に衝撃を覚えたわけでございます。
 この遺伝子戦争という、遺伝子というのは、先生方御存じのように、ジーンですね。それで、殺すというのはサイドと言うんですね。ジーンを殺す。これは英語ですけれども、ジェノサイドという言葉がございます。これは、通常ホロコーストと並べて一緒に使われます、いわば大量虐殺のことを言うわけですけれども、まさに遺伝子を殺す大量虐殺の中にいて、しかもそれは、その本に書かれてあったような特定の人種に対する遺伝子ではなくて、敵も味方もやっつけてしまう、遺伝子を攻撃する爆弾なわけ
ですね。
 ですので、アメリカでは、枯れ葉剤による被害を受けたということで集団訴訟が起きまして、ベテランズアドミニストレーション、これは復員軍人局ですけれども、そこでは、集団訴訟を受けて立って、そして、枯れ葉剤による戦傷の度合いに応じて損害賠償金を払っているという事態になりまして、つまりこれは、韓国の人にも、オーストラリアの人にも、当時ベトナムに従軍していた兵士の間にも、いろいろな被害を巻き起こし、がんの多発とか皮膚病とかあるいは出生障害、そういうことを巻き起こしている。
 つまり、生物化学兵器というものは、敵、味方を超えて、実はさまざまな影響を長い世代にわたって及ぼす、これが一九七二年の私の体験でしたけれども、今から三年前にベトナムを再訪しました。再び訪れたわけですが、そのときハノイの赤十字で私が見せられたビデオフィルムがございますが、それは、現在も遺伝的な障害を持った方がお生まれになっている、その数はほぼ十万人というふうに、当時、ハノイの赤十字の方から言われたわけでございます。ということは、ベトナム戦争が終わってから二十五年たってもまだ遺伝的な障害を持った方々が生まれているという大変に悲惨な事態。
 果たして、私は、その私のベトナムの学生がうちに来たとき、それから二十年、三十年後のことを考えていたかというと、自分の身を守るためにそういうものは食べないということは誓ったんですが、ベトナムの学生が私に言ったように、これはアメリカによるジェノサイドですよと言ったそのことには、余り思い及ばなかったわけですね。
 まさにそういう被害が及んでいるということを、つまり、科学技術の悪用、誤用ということが人間の生命に極めて長期にわたって大きな惨害、被害を及ぼすということをベトナムで体験したわけです。
 今世紀は、前世紀から遺伝子の時代と言われておりまして、先生方御存じのように、今、世界的なスケールで、ヒューマン・ジーノム・プロジェクト、ヒトゲノム解析の研究が進み、そして、今から四年ぐらい前でございますけれども、クリントン大統領は、これは月へも到達する偉業に比べられる、あるいはそれ以上の大きないわば成果がヒトゲノム解析研究によって与えられる、人間の遺伝子の解析をベースにしたテーラードメディシンもできるかもしれないし、あるいは再生医療にもつながるかもしれないし、バラ色の未来がヒトゲノム解析の研究の結果得られるというふうにクリントン大統領は声明文の中で言っておりまして、そして、日本におきましても、ヒトゲノム解析研究の一端を担って研究が推進されてきていたという現状があるわけです。
 しかし、よくよく考えてみますと、このことについてはほとんど指摘されていないことなのでございますけれども、私の、Iの「環境破壊―ジェノサイドの悲劇」の2のところでございますが、「ヒトゲノム解析プロジェクトとヒロシマ・ナガサキ」というふうに書いてあります。ヒトゲノム解析プロジェクトというのは、アメリカで始まったときにはエネルギー省が、つまり、現在、厚生省、特にその管轄のもとにありますNIH、ナショナル・インスティチュート・オブ・ヘルスという一大研究機関、ノーベル賞学者が何十人もいるという世界最大の医学研究機関の中のヒューマン・ジーノム・プロジェクトの研究所としてあるわけですが、これが最初に出てきたときには、NIHでも厚生省でもなくて、エネルギー省から出てきたんですね。
 エネルギー省からなぜ出てきたかといいますと、ヒトゲノム計画とエネルギー省というのは普通結びつきませんが、これをさかのぼって考えてみますと、エネルギー省の前身は原子力委員会、その前身はABCCなんですね。アトミック・ボム・カジュアリティー・コミッションといいまして、これは、広島と長崎に原子爆弾が投下されてからすぐ遺伝子の専門家を広島と長崎に派遣して、それによって人間の遺伝子が、特に放射能によってどういうふうに変化したかという、放射能による遺伝子の変容を調べる、そういう科学研究技術プロジェクトがあったんですね。その膨大なデータ、つまり、広島と長崎の原爆のいわばサーバイバー、被爆者の方々の血液からとった遺伝的なデータをベースにして、これをベースにして何かできないかということを考え出したのがエネルギー省だったんですね。
 この膨大な遺伝的データの蓄積を人間のいわば未来への研究、新しい遺伝子の研究につなげることができないだろうかということで始まったのがエネルギー省の計画で、それにつなげていったのがアメリカの厚生省だったわけでございます。
 私たちは、そういう意味で、バラ色のヒトゲノム計画を見るときに、いつも私自身は、広島と長崎の被爆、そしてまたそれで亡くなった方々のことを思いながら、バラ色の未来というのは一体何だろう、科学技術というのは一体何だろうということを考えていたりしているわけです。
 ユネスコができましたときに、これは第二次世界大戦後の教育文化機構ということで、宣言をつくって、そしてユネスコができるんですけれども、ユネスコというのは、御存じのように、教育、文化、そして科学が入るわけです。サイエンスが入るわけですね。初めはサイエンスが入らなかったということなんですね。ユネコという名前だったらしいんですね。
 それは総会の議事録をごらんいただけばわかりますが、Sが入ってユネスコという、Sが入ることになった理由が、人間がつくり出した科学技術が、このように一瞬に大きなスケールで人間に危害を加え、そしてまた、それが長期にわたって人間に極めて激しい悲しみ、苦しみ、悩みをもたらし、そしてまた死んでいく、サイエンスの問題を入れなくちゃいけないということで、そしてユネスコという、Sが入ったんですね。
 私は、今世紀、「「戦争」の世紀から「いのち」の世紀へ」というエッセーを書いて、これは皆様方のお机の上にお配りしてございますけれども、戦争の世紀から命の世紀へということで、これだけ大きいスケールで起こったことへの命の反省が、これは基本的人権を基礎にしてなされねばならないということで、国際機関に、そしてまたそれぞれの国の多くの立法の中にいろいろな影響を与えたというふうに考えているわけであります。
 私は、サイゴンでの仕事を終えましてからスイスに行きましたけれども、スイスでは、ジュネーブ大学に行きまして、これもまた大変に感銘を受けたわけですけれども、先端医科学技術の問題をどのように人間の権利、人間の尊厳と重ね合わせて考えるかというプロジェクトが、一九七二年の段階でWHOで進行していたわけですね。
 ここにその当時のドキュメントも持ってまいりましたけれども、WHOでは特に、「ヘルス・アスペクツ・オブ・ヒューマン・ライツ・イン・ザ・ライト・オブ・ディベロップメンツ・イン・バイオロジー・アンド・メディスン」、生物学と医学における発展の光の中で見た基本的人権の健康的諸問題ということでドキュメントが出ておりまして、そういうドキュメントに基づいて、その後WHOはいろいろな文書をつくってまいります。
 特に、私が一九七二年にジュネーブに行った段階で既に、例えば目次にございますように、人工授精の問題、それから遺伝的障害を持って生まれた赤ちゃんの問題、あるいは胎児を使った研究の問題、あるいは断種の問題、そしてまた避妊の問題、予防医学の問題、人体実験、臨床治験の問題、インフォームド・コンセントと医学へのボランティアとしての参加の問題、そしてまた死をどのように定義するのか、それに関連して臓器移植をどう考えるかというのを、もう一九七二年、今から三十二年前の段階でやっていたわけでございますね。
 それに伴いまして、私も国際会議をジュネーブでオーガナイズいたしましが、その一つがチューリヒで行われたジェネティクス・アンド・クオリティー・オブ・ライフという会議でございました。このジェネティクス・アンド・クオリティー・オブ・ライフ、これは一九七三年、今から三十一年前の会議ですが、ここで出てきた国際的な意見というのがその後の世界の各国の立法府にいろいろな影響を与えている。
 どういう点で影響を与えていたか。三つあるんですね。一つは、命の問題については、命の専門家と称する方々、それが当然、今から三十年前ですから、命の専門家といえば、これは医師であり生命科学者であったわけですけれども、そういう方々に任せてはいけない、私たち一般の市民の一人一人が命の問題を自分の問題として考える方向を出していくべきだ。そのためには、さまざまな学問分野の領域を超えた共同の研究システムをつくると同時に、科学研究についてはある一定のガイドラインを設ける必要がある。そして、そのガイドラインを、特定の国でつくるガイドラインというものを踏まえて、国際的なガイドラインをつくる必要があるだろうということをこのときに話し合ったわけでございます。
 私が一番感銘深く思ったことの一つは、このときまだ、体外受精、IVFと言いますが、イン・ビトロ・ファータリゼーションですけれども、成功する前で、これは一九七三年のことでしたが、ロバート・エドワーズというケンブリッジ大学の体外受精の専門家、その後一九七八年に世界で最初の体外受精児を成功させるわけですけれども、研究の第一線の先陣争いのただ中にある研究者がスイスのチューリヒでの国際会議に来られて、宗教家、哲学者、科学者はもちろんのこと、政策担当官、スウェーデンからも元科学技術庁の次官、ドクター・アネーという方がおいででしたが、それから遺伝学者、さまざまな分野の方々がおいでになって、そのガイドラインのあり方について一緒に考えていたわけですね。
 私は、その当時考えましたのは、このような広がりの中で科学技術が方向づけられるということの非常に大きい意味、しかも、ディプロフェッショナライズといいますか、専門家が専門家であるがために見えなくなっている感覚がございまして、それを広げる形で、一般の参加者も含めてガイドラインを公開でつくっていく、ともにつくっていく。これをバイオエシックスという私の専門分野の用語で言えばパブリックポリシーと言うわけですが、そういうパブリックポリシーを国際的、国内的につくり上げていくということの意味をこのときに教えられたわけです。
 生殖補助医療にいたしましても、あるいは臓器移植にいたしましても、脳死にしても、遺伝子操作にいたしましても、このときの手法を取り入れまして、今までは学会の専門家中心、そしてまたあるときには行政担当官、特に健康、医療を中心にしている、アメリカでも厚生省の方々を中心にした専門家によるガイドラインというシステムが大きく変わるんですね。
 そして、公開の席で、しかも、委員の中には必ずレイパブリックの代表、つまり、専門家でない方々を、いろいろな分野の方々を入れてやっていこうということになっていくわけで、そういう点から考えますと、一九七〇年代の初めに、主催したのは世界教会協議会という、これは欧米の方々ならどなたでも御存じの国際的なキリスト教の世界組織、キリスト教の国際連合と言えるような組織、ワールド・カウンシル・オブ・チャーチスというところが主催したわけでございますけれども、その主催のオーガナイジングコミッティーのメンバーの一人としてこの会に私は参加して、いわば国際的なバイオエシックスのガイドラインづくりを今から三十数年前にやったわけでございます。
 アメリカでもヨーロッパでも、そしてまたアジアの各地でも、この会議に対する注目度は極めて高かったんですが、日本は余り注目しませんでした。当時、「世界」という雑誌が少しこれについて書いたわけですが。
 ジェネティクス・アンド・クオリティー・オブ・ライフという言葉に象徴されておりますように、いわば遺伝子の問題をどう考えていくのか、それを考えるときに、政策担当者並びに専門家だけではなくて、一般の方々を踏まえてこれを展開していく方向にしていかなければいけない。そのためには、公開のいわば検証が必要である。パブリックスクルーティニーが必要であるということで、NIHにいたしましても、あるいはアメリカの厚生省にいたしましても、さまざまな会議は公開でやっておりまして、今まさにそれから三十年を経て我が国も、これは閣議決定によりまして、さまざまな審議会、政府の関連の諸委員会、本日も含めて、公開という方向が出てきているというのは、ある程度時間的なギャップはございますが、大変にこれは望ましい形ではないかというふうに思います。
 私自身も厚生省の厚生科学審議会の委員として公開の主張をいたしましたし、その中には、いわば論議されている事柄の焦点になるべき方々、例えば遺伝子治療あるいは障害者の遺伝的な欠陥をめぐる諸問題について討議いたしましたときには、まさにそのような方々をも含めた公開の委員会が開かれ、そして、それがインターネットで公開されるという時代になったという、いわば三十年たって日本も随分変わったなということを感じているわけでございます。
 今、私は内閣の司法制度改革推進本部事務局の法曹制度検討会の委員もしておりますけれども、そこも、これは公開にすべきかすべきでないかという話がいろいろ出てきたわけですが、これは完全に公開にいたしまして、議事録ももちろん名前入りということで、日本としても大きな変革のときに来ているという方向を、私は大変に望ましいというふうに思っております。
 ジュネーブでの仕事を終えましてから、アメリカに行きました。アメリカでは、私はハーバード大学で、私は元来が法律出身なものですからロースクールと、それから私の宗教的な背景ということがありまして世界宗教研究センターというところでのプロジェクト、ロースクールといわば神学部そしてまた医学部との共同のバイオエシックスのいろいろな研究のプロジェクトがございまして、それに参加しました。それは一九七八年のことでした。
 ハーバード大学では、客員研究員をしておりましたので、先生方のいろいろな講義にも出ることになったわけです。
 私は、本日のテーマにもこれはそのまま関係してくることでございますけれども、ハーバード・ロースクールで憲法のセミナーに出ました。これはそのときの資料の一冊ですね。ハーバード・ロースクールでは、判例その他を全部読みまして、それから、関連するものも全部こうやってとじてあるわけです。
 私は、このハーバード大学でのセミナーをとって大変に驚いたんですけれども、セミナー、コンスティチューショナルローというんですね。コンスティチューショナル、憲法。アドバンスト、これはいわば上級コースです。上級コースの副題がこうなっているんですね。「バイオメディカル・テクノロジー・バイオファンタジー・アンド・ザ・ロー」、生命医科学技術と生命幻想小説、バイオファンタジーですね、そして法律。いろいろな教材を使いましたが、その教材はサイエンスフィクションです。私は大変にショックでした。憲法のセミナーでサイエンスフィクションを使って、そして論議をしている。
 例えば、今でもよく覚えております、これは、ローレンス・トライブというアメリカの憲法学の最高権威の一人の教授のゼミですけれども、将来、人間がクローン技術を開発して、人間のクローンだけじゃなくて、動物のクローンはもう容易にできるようになるだろうから、しかし、人間の持っている情報を例えば猫なんかに入れた場合、そしてまた猫の生態なんかを変えて猫人間みたいなのをつくった場合に、それを猫と見るのか人間と見るのか、猫人格か人間猫かというような論議をやっているんですね。

 法律というのは、時代の中で大きく社会を変化させる意味を持っているんですね。我々、一般的に考えますと、法律というのは後追いですね。大体、社会の後追いなんです、このハーバード・ロースクールの教授は、法律がイニシアチブをとって社会を変化させるようなことも考えていこうじゃないかという非常に前向きの論議を、将来アメリカの大統領や国務長官になるような方々、若い優秀な方々を集めた、たった十五人のゼミで、これから五百年ぐらい先を見て憲法の論議をしようと、この人はマーシャル群島の憲法をつくった人なんですけれども、ということを言っているんですね。
 そのときに、今はっきりと思い出しますのは、君たち、人間でなくても人間として扱われているものがあるけれども、人間でないけれども人間、どういうものだと思うね、あるいは、人間なのに人間でないことも法律的に可能だったよね、それをどう思うと言うんですね。
 人間だったのに人間でないということをアメリカのコンテキストの中で言えば、これは、ロースクールの学生諸君ですと、人間なのに人間として扱われたことがなかった、アメリカの歴史の中でそれはどういう事例ですかと言われれば、これは、ここにいらっしゃる先生方もおわかりかと思いますが、奴隷のことですね。一八五七年の判例に至るまで、その段階でも、これは、人間で、ちゃんとした、れっきとした、本当の尊厳と人格とを持った黒人でありながら、これをいわば家畜と同じように蓄財の対象とし、それをふやしていく、そしてまた家族を分けていくというような、人間なのに人間でない。
 では、人間でないのに人間としたのは、君たち、どういうふうに思いますか、そういう事例が世界の歴史の中であったかねという質問をしたんですね。そのときに配られたドキュメント、一九一一年のハーバード・ロー・レビューの論文のコピーを配られまして、これは判例に基づいて書かれたものですけれども、人間でないのに人間というのは、私たち、言われてみればわかりませんよね、よく。
 しかし、ここに書いてあるのは、コーポレートパーソナリティーということです。法人ですね。法人というシステムを人間はつくり出して、これは、世界の貿易のいわば興隆期に当たって、十六世紀、十七世紀、そういう中で、法人という、そこに投資して、そして人間と同じように誕生して、人間と同じように法律行為ができて、そして人間と同じように死亡する、そういういわばリーガルフィクションをつくって、そして社会を変革していった、この法人という考え方があったために資本主義社会は大きく世界のスケールで定着していったと。
 つまり、法律家というのはそういうことを考えられるんだよ、将来の未来に向けて、私たちは、大体五百年ぐらい前から、そしてまた五百年ぐらいを展望して、ローヤーというのは考えていかなくちゃいけないんだよということを教育されるわけです。
 ロースクールが今度できまして、いろいろな形で実務との交流が起こるわけです。日本の大学の法学教育というのは、こういう発想は一切なかったんですね。私自身が、法学徒としてかつて勉強した者として言いますと、サイエンスフィクションを読むということすらほとんどなかったわけですが、それを教材の中に取り入れて、そうして実際にサイエンスフィクションを読みながらやったわけですが、私はこれをリーガルイマジネーション、法的な想像力というふうに言います。
 私の本の中に書いてあるんですけれども、米国でのイマジネーションの教育は、バイオエシックスや価値観教育の中で行われていますが、現実にSFを教材にして徹底的な学習をさせる例がふえてきているのが注目されます。ウィスコンシンのアルベルノ大学の価値観教育やハーバード大学法学部の憲法ゼミ、これはロースクール、法科大学院ですけれども、生物医科学技術と生物幻想物語・SF及び法律等々で取り上げられてきたテーマには次のようなものがあります。
 臓器移植の法的、倫理的問題はもちろんのこと、クローン人間の人権、地球外生物・動物と人間の合成生物、大脳機能の外的な操作、生命、死、人口のコントロール、中性人間並びに性転換の人権のあり方、あるいは試験管内授精、超人間計画、スーパーヒューマンですね、それから場合によっては人口増加に備えて、疫病の人為的流行計画、ある程度人間はふえ過ぎると困るのでそれを人為的に、他に及ばない形で減らしていくようなこととか、あるいは細菌戦用の遺伝子兵器等々、こういうことを実際に討議しているんですね。
 私は、こういう素養をアメリカのロースクールでやっているということに大変な衝撃を受けたわけです。
 そういう観点から見ますと、リーガルフィクションによる社会変革ということは、これはアメリカのニューディールの動向を見ればおわかりのように、アメリカの最高裁は、憲法の中身を変えるというよりか、条項でつけ加えていく、アメリカの場合には憲法に附帯条項がついていくわけですが、いろいろな裁判の判例を最高裁が下していくことによりまして、そして社会のイニシアチブをとっていくという方向が、アメリカの場合にははっきりと見えている。最高裁判事の任命にかなりポリティカルなエレメントが働いたということが、一九三〇年代、四〇年代にあって、ニューディールがいわば成功した。このいわばアメリカのニューディーラーたちが日本の戦後に来て、その理想主義に燃えて、そして占領政策をいろいろつくっていくことになるわけですね。
 アメリカは、いろいろなことをやりました。アメリカというのは、いろいろな人体実験を含めて、極めて人権侵害を意図的に、大胆にやってきた国の一つでありますし、そしてまた、広島、長崎という、人間が、人類が絶対起こしてはならない犯罪的戦略によって日本の人口に対するアタックをしたわけですけれども、アメリカがしたもう一つの実験の一つは、日本に優生保護法をつくったということです。
 これはもちろん、戦前に国民優生法というのがありまして、これをなくしまして、戦後に優生保護法というのをつくるわけですが、この優生保護法というのは、私たち日本人は、これの持っている国際的な意味合いを余り感じないままに法律として受け入れてきたわけですね。つまり、簡単に言いますと、刑法にあります堕胎罪の違法性を阻却して、優生保護法の適用によって人工妊娠中絶を可能にしたわけです。
 これは、アメリカ占領治下に可能になった法律でありますので、アメリカの戦後の統治の文献などを読みますと、日本にやらせてはいけないことの一つとして、人口の増加ということがあります。人口を極力抑えるということも踏まえて、そして、この優生保護法がマッカーサーの監督下にできることになるわけですが、これについては、アメリカ側から、予想外ですけれども、大変な反発が起きるんですね。
 特にバージニア州のカトリックの方々からマッカーサーに対していろいろな手紙が来ます。このような優生保護法を日本でつくったら、あなたは日本人をジェノサイドしたゼネラルと呼ばれるだろう。ジェノサイドゼネラルと呼ばれることになると。日本人の人口を集団的に、大きいスケールでいわば滅ぼしていく人工妊娠中絶をやめるようにという投書がアメリカから来るんですね。
 日本側は、論議がないんですね。日本側は、背に腹はかえられない。これはいろいろなことがございまして、戦時下の状態の中でどうしても、生活困窮、要するに、背に腹はかえられないということで、苦しい中でいろいろな決断をしなくちゃいけないということが先に立ちましたが、アメリカ側から見ると、これはジェノサイドゼネラルということで、アキューズされるんですね。
 これは、日本で比較的有名で、御存じかと思いますが、マーガレット・サンガーというファミリープランニングの専門家がおりまして、戦前に日本に来て、演説をするわけですが、軍部によって退去を命ぜられるわけです。つまり、人口増加を国是としていた国に来て産児制限を説くとは何かということになったわけですが、このマーガレット・サンガー、彼女が残したすべてのドキュメントがアメリカの国会図書館にありまして、その中で見た、マッカーサーがサインした手紙がございます。
 今、マッカーサー資料室にもありますし、日本側にも恐らくコピーが来ていると思いますが、その中には、ダグラス・マッカーサーが自分でサインした手紙、私は、日本人をジェノサイドするつもりはないと。これは当然ですよね、私は関係ありませんと。日本では御存じのように、太田典礼とかあるいは加藤シヅエとかそういう方々が、当時の衆議院議員の方々ですが、国会に出して、そしてこの法律を通した。このときの日本医師会も、これに対してはやや肯定的であったということになるわけです。
 そういう形で、いわば人工妊娠中絶を極めて世界的なレベルで、結果的にその違法性を阻却した世界で最初の国の一つに日本がなって、そして、これは非常にドラマチックに日本の人口の下降現象が起き上がったわけでございます。
 そういうことから考えると、法律というのは、日本では特に、法律があればモラルがそこにあるというふうに思っちゃうんですね。ですから、人工妊娠中絶がいいとなっちゃうんです。アメリカの場合は、これは一九七三年のロー・バーサス・ウエイドという人工妊娠中絶についての最高裁の判例がございますが、これは、女性のプライバシーの権利として認めた。
 これは、人工妊娠中絶をプライバシーの権利として認めるんですが、法律が認めようが認めまいが、やらない人は絶対にやらない、道徳的に反していると。これは、特にカトリックの方々、バージニア・カトリック、マッカーサーたちに手紙を送った方々ですけれども、そういう方々はもう絶対に反対なわけですね。
 マッカーサー司令部の中にはナチュラル・リソース・セクションというのがあって、そこにはジョンズ・ホプキンス大学のトンプソンという、これは元来人口制御論者なんですけれども、日本の人口をふやさないという論者ですが、この人がつくったドキュメントがあって、それを全部マッカーサーが回収して、我が占領軍は関係ないという形で、日本人がつくったという形になっていますが、そのことにつきましても私は論文に書いております。
 そういう人間の命の問題にかかわりを持って、どこかの国がそれをいわばジェノサイドしていくということを徹底的に避けなければいけない。つまり、私たちは、戦争という形ではなくても、いろいろな形でジェノサイドが起こりつつある、その現状を見ていかなければいけないというふうに思うわけでございます。
 私たちは、自分の健康についてのいろいろな情報、今までの日本の中でありますと、特に医療の現場では、患者に対して、その患者ががんの末期であるとか、あるいはさまざまなその他の病気についての情報を流さないことが当然であると。これはいわば、セラピューティックプリビレッジ、治療の特権といいますか、そういうこととして、患者側にその診断の結果の内容を告げるも告げないも自由ということで、日本のみならず、世界の諸国でそういうことが行われてきたわけですが、こういう時代の中で、私たちは、きちんと自分の命に関する情報については、それを自分が手にして、それに基づいて自分が判断を下すという時代になったということが言えると思うんですね。
 私が、一九七〇年代の終わり、特に八〇年代の初めから、インフォームド・コンセントということを臨床の現場で使うように、私自身がこの片仮名用語で、いろいろな形で、病院や医師会あるいは医学会その他で講演をし、またキャンペーンをしてきたわけですが、そのときに、医師会の先生方を初め、いろいろな方々から忠告を受けました。あなたみたいに若いアメリカ帰りの法律家が、医療という経験と教育と、いわば実践等を踏まえた方々に対して何を言ったって意味がない、医療のことは医者に任せなさいというふうに言われたわけですね。

 私自身も患者になりまして、これはサイゴンにいたときですけれども、結石が発病いたしまして、日本に帰ってきて手術を受けましたが、そのときには、もうほとんど医師には何も言われませんでした。診察室の中にいた医学生と、これはどうだねとレントゲンの写真を見ながらやっていた主治医との間の会話で私の手術を翌日すると決まったわけですが、アメリカで、ハーバード大学におりましたときに結石の手術になりまして、もう一遍病院に行ったときには、約一時間時間をかけてレントゲンの写真を見て、詳しく説明してくれて、そして、最後に言われたことが私は大変に、これまた大きいショックだったんですね。

 それは、日本では有無を言わせず、これは当たり前だと思っていましたからいいんですが、有無を言わせず手術です。ところが、アメリカでは何と言ったか。医者は、これがあなたの病状です。そしてまた、この病状を避けるためには、薬を飲む方法、手術をする方法、それからまた、セカンドオピニオン、ほかの医者に聞く方法、いろいろありますよ。そしてまた、手術を受ける受けないは、私でなくてもいいですと。ドクター・レザビッツというハーバード大学のマウント・オーバン・ホスピタルの医者でしたけれども、私でなくてもいいです、どこか行きたいならどうぞ行ってください、情報は全部上げますと。ですけれども、最後に言った言葉が、ユー・アー・ザ・ファイナル・ディシジョンメーカー、あなたが最終的な決定者ですよ、手術するのもしないのも。

 私は、医療における裁量権は医師側にあると思っていましたので、そのときを契機に、情報を十分に受けて、自分がこの医者に手術してもらいたいとか、あるいは自分がいわば違う形の治療を受けるとかいうことを基本的にわきまえる時代にならなければいけないなということを一九七九年の手術のときに知ったわけです。

 一九八〇年に、私が日本でその経験を踏まえてインフォームド・コンセントの話を片仮名用語で言ったときに、日本の医師会の方々は、ここに医師会の方々もいらっしゃるかもしれませんが、説明と同意でどうして悪い、今までは説明も同意もしていなかったので、説明と同意をする時代になったらそれでいいじゃないですかと言ったんですね。

  中略



木村参考人 これは会長、全く御指摘のとおりでございまして、私がこの問題に取り組むことになった大変に大きいきっかけの一つも、アメリカでの私の子供たちの教育の現状を見たからなんですね。

 アメリカでは、PTAの会というのが、昼間にやりますと父兄が集まらないものですから、夜にやるんですけれども、子供のとっている授業の時間に合わせて各クラスを回る。音楽とかアメリカ史とか体育とか、いろいろ回るわけですが、健康の時間というのがありまして、健康のテキストを見ましたら、その中には、もう患者の権利というチャプターが入っているんですね、一九七〇年代の半ばでしたけれども。

 そして、あなたの体はあなたのものなんですから、何でも医療側に聞きましょうという形で教科書の中に組み込んであって、そして、アメリカのペーシェンツビル・オブ・ライツという、アメリカの病院協会が一九七二年につくった条文が入っているんですね。そして、あなたの命は大事にしなければいけない、と同時に、あなたの周りにいる人たちの命も大事にしましょうというような書き方になっていますが、その高校の教科書、ABCで始まるんですが、最初に出てくるのが、その健康の教科書で、Aからいきますと、アボーション、人工妊娠中絶はなぜだめか、そしてまた、麻薬の問題、そういう事柄がいわば教科書の中に組み入れられております。

 その話をしましたのが一九八〇年代でしたが、つい先月、私は、今使われている高校の倫理の教科書を全部集めた、約三十二冊、いろいろな出版社から。これは私自身が大変驚いたんですが、一九八〇年代には全くなかった項目が入っているんですね。それは恐らく文部省の御努力によるのかと思いますけれども、科学技術の進歩と生命の尊厳というチャプターがどの教科書にも入っているんですね。そして、今会長の言われたような中身の、命の大事さ、命の尊厳、アルベルト・シュバイツァーから始まって、ガンジーさんの平和の運動に至るまで、さまざまな命の尊厳の具体的な事例を入れて、臓器の移植の問題の統計上の賛成、反対みたいなことも含めて書いてあるんですね。

 私は、アメリカの子供たちの教育を見ておりまして、PTAの親として参加して、子供たちが高齢者のホームに歌を歌いに行ったり、あるいはショッピングモール、一番にぎやかなショッピングアーケードで、子供たちの学校のオーケストラの演奏をして臓器移植のカードを配ったり、その前に、臓器移植、是か非かというような討論をしたり、もう中学のころからいわばそういうことについて討論をして、自分はこうと言うことになれているんです。日本の場合は、本当にそういう自分の意見を出すことが下手なわけなんですね。私も、早稲田のバイオエシックスの講義のときには全体討議をするようにしておりますけれども、最初はしない学生たちが、グループに分かれてやりますと大変にいろいろな討議をするようになるわけです。

 そういう中で、命の問題というのが今、日本の教科書の中にも入ってきました。高校の倫理の教科書、これは選択する人しない人がいるので問題なんですけれども、高校の教科書であれば、それはもうほとんど全部に入ってきましたし、中学にも去年あたりから入ってきましたし、小学校では、命の教育ということで、虫の観察、動物の観察に始まって、日本も、そういう意味では、この二十年間、大きな変革期で、命の尊厳の問題を一生懸命取り上げようとしているということについて、私は感慨深く、やはりバイオエシックス、そういうものの背景に、一番日本の問題点は、バイオエシックスという新しい歴然とした学問分野、バイオエシックス、生命倫理というふうに訳しますが、私はあえて片仮名で使っているわけですが、臓器移植、遺伝子治療、遺伝子操作、あるいは末期のケア、ホスピスケア、そういうものを全部包括する、命のことをまとめて考える学問分野が厳然として存在するということがまだ日本人はわかっていないですね。

 「バイオエシックス・ハンドブック」というのを去年の十二月に出したんですけれども、これを見ますと、「豊かに生きるための新しい「いのちの考え方」」ということで、その全体像が先生方の目に入るかと思いますけれども、そういう意味で、命の問題を、少なくとも私たちの生きているこの時代から幅を広げて、百年前後の間隔で、例えば日本の明治期の、そのことについても書いてありますけれども、教育勅語の時代から現代の民主主義の時代の中に至るまでの教育の中でも命の問題が、例えば、私たちはお国のために死ぬということを教育されたわけですね。そういうふうにして、私は集団疎開の世代ですけれども、育ってきたわけですね。

 そういう命の問題をどう考えるかということを含めた新しいやり方を今会長先生の言われたような形で教育の現場に生かしていくということ、しかもそれを、一方的な教育じゃなくて、対話する、ディベートする、その教育の中で生かしていくことが必要な時代に今こそなっているというふうに私は思います。

中山会長 ありがとうございます。

 もう一つのテーマは、知る権利の問題でございます。

 高度工業化社会が先進国で一応一つの上限に達してきた形の中で、通信回線とコンピューターが接続されて、大量の情報が一瞬にして処理される、こういうふうな新しい情報化社会というものに我々は足を踏み入れているわけですね。そこで政府は、結局、小泉内閣になって、二〇〇七年までに電子政府をつくる、国民に対してこういう宣言をしているわけです。

 電子政府がつくられると、個人の情報が行政府に集まってくる。そういう中で、個人がいかに自分の情報を守るか、また知る権利を与えられるか、こういった問題が一つの大きな課題になって、これから生きる日本人にとっても必要になってくるんだろうと思います。

 私は、各国の憲法で個人情報保護に関する憲法規定というのはどれぐらいあるのかということを調査いたしましたが、まず、オランダが一九八三年に憲法でこれに規定をかけている。それから、カーボベルデ共和国憲法が一九九二年、スイスは一九九九年、スウェーデンが一九八八年、スペインが一九七八年、ハンガリー共和国が一九八九年、フィンランドが一九九九年、ポーランドは一九九七年、ポルトガルが一九七六年、ロシア連邦憲法が一九九三年。この年次で憲法が改正されているということを見まして、OECDの理事会勧告とか、あるいはまた一九九五年のEU指令で、この個人情報の保護が我が国においても喫緊の課題とされて、それで個人情報保護法が制定されて、一年後に本格施行に入ってくる見込みでございます。

 このように、海外の個人情報に関するアクセス権、プライバシーの保護権、こういったものが規定されていますけれども、日本の場合、非常に大量の情報が最近流出して、社会の大問題になってきています。つまり、情報処理を専門にやる企業が情報を流しているという、故意に流している悪い人がいるわけですね。そういうことによって多くのプライバシーが侵害されてくる。こういったことについて、憲法上、こういうものをきちっと処理する必要があるんじゃないかというふうに考えておりますが、参考人はどういうふうにお考えでしょうか。

木村参考人 私は、会長の意見に全面的に賛成です。憲法上きちっとした対応をしていきませんと、これは、これからの日本の国の根幹、情報については、漏えいの問題とか自分のプライバシーの保護とか、もう根幹にかかわる問題だと思うんですね。

 特に、情報化時代の中で、私たちは間違った情報にいろいろ惑わされることも多いわけですし、コンピューターの分野では、バイオエシックスに関連してコンピューターエシックスという分野がありまして、膨大なハンドブックが出ております。これをやった場合にどうなるのかというようなことも含めて、さまざまな事例が書いてあります。

 私は、スウェーデンでしばらく研究していたことがございますけれども、例えば臓器移植ネットワーク、スウェーデンにもございますが、これはユーロプラントというのと直結しているわけですけれども、それにアクセスできる人は、スウェーデンでも五人しかいないんですね。そして、しかも、五人しかいないそのパスワードも、三日ごとに変えているというくらいに厳しくしているんですね。

 スウェーデンでは、特に、健康保険に全部、その当時、改正されていたわけですけれども、健康保険に臓器提供の意思について書いてあるわけですので、それが国の、いわばIDカードにもなっているわけですが、そういう関連もございまして、いろいろな情報が特定の人に集中しないような形で、極めて厳重な情報のいわばコントロールを、コントロールというのは、いい意味の管理を行っている。

 そういう意味では、これはこれから、例えば遺伝情報にしましても、特定の企業に勤めていらっしゃる方々が遺伝子の研究をしていて、その情報をコンピューターを使ってほかのところに流してしまったりとか、いろいろな情報の漏えいについては大きな問題があるわけでして、基本的に、今会長の言われたような方向での、憲法の中にきちっと書き入れるということについては、私は前向きに考えていきたいというふうに思っております。

中山会長 ありがとうございました。

 個人情報の保護と並行して起こってきているのが知的財産権の保護問題ですね。

 知財高裁というものが今回日本でもつくられることになって、東京高等裁判所で十七年に設置されるということが決められております。現在法案審議中ですね。そこでいろいろな、生命倫理とか知的財産権とか、あるいは医療事故とか理工系の事故、犯罪、これが非常に多くなっているわけですね。この多くなっている案件について裁判所に提訴があった場合、この提訴を受けていろいろ審査して、判決を下す裁判官はどの程度あればいいのか。

 これは私、ちょっと調べてみますと、全国で裁判官というのは三千人おられるわけです。その三千人の方々が五百四十七の裁判所で働いておられる。その中で理工系の出身者はわずか八人です。ここで判決を下すわけですね、この考え方に基づくか基づかないかは別として。全部この八人に問い合わせをすることはないと思います、全国の裁判所、これだけあって。最高裁では調査員が一人いるだけです。

 こういう新しい、知的財産権とか個人情報の保護の問題、いろいろと科学技術に関する訴訟というものが、公害問題もそうですね、日本の社会にどんどん起こってきている。これに対して、司法の分野で、こういう科学技術による社会への影響を与えた者に対する判断をする人たちをどういうふうにそろえるか、これは国家としての一つの大きな課題じゃないか、私はそういうふうに考えておるんですけれども、先生、どういうふうにお考えでしょうか。

木村参考人 この点は、世界的に見ましても非常に大きい問題の一つになってきているわけですね。つまり、司法が科学の具体的なデータについてどういうふうに判断するのか。ですから、国によってはサイエンスコートみたいなものをつくっている国もございますが、日本では今度新しくそういうことで、知財の方面の、特定の機能を果たすような裁判所を高裁の一部局に設けるということも、私がメンバーであります法曹制度検討会でも話し合いがなされたことがあるわけです。

 今度の新しいロースクールのシステムというのは、まさに今会長の言われたような、システムをある程度補っていこうという方向でできているわけなんですね。科学教育あるいは工学あるいは生物学、いろいろな分野の教育を教養課程並びに専門課程で終えられた方々を法科大学院の中に組み込んで、そして現実に社会の中で大胆にいろいろな形で判例と取り組み、そして新しい方向性を見出すことができるような方々を養成しようというような流れの中で、ある程度時間はかかるわけですけれども、変革を出していこうというわけでございますので、そういう点では、今すぐというわけではなくても、将来構想としては、日本も大きな転換期になっているという点はあり得ると思うんですね。これはもう、特に生命体への特許その他をめぐりましてはさまざまな問題が出てきますので、これは専門家でないと判断できない問題もあるわけです。

 しかし、基本的に大事なことは、その人の人権あるいは特定の人々をめぐる生命の尊厳、そういうことが、専門でない方々の判断をベースに展開されるようにしていきませんと、極めて精緻な専門的な議論の中に組み込まれていってしまう可能性があるので、これは私としては、法律家ではありますが、判例あるいは法律その他は易しい言葉で、わかりやすい言葉でこれからは書かれるような教育もなされねばならないのではないかというふうに思いまして、会長の意見には賛成でございます。

中山会長 この知的財産権を憲法で保障している国家はどれくらいあるかということを、一応、国立国会図書館で調査をいたしましたが、上がってきた報告では、大体二十ぐらいはありますね、憲法で規定している。それから、環境問題に関しての憲法条項を持っているところは二十三ぐらいございます。

 そういうふうに、そこの国に生きる人間の、言えば安全保障あるいは知的財産の保護、そういったものを基本法で決めている国家はこれだけあるということについて、私は大変驚いたわけでございますが、これはいずれもこの二、三十年の間に制定しているんですね。

 つまり、我々が戦後に、終戦のときに占領軍が来て、それから数年間占領していましたけれども、そのころでは、社会の変化がこれだけ起こってくるという予測は、占領軍の中にも予測している人はなかったと思います。こういう中で、この新しい時代に生きていく我々日本人として、科学技術立国をやる以上は、こういった原則論をきちっと基本法に書いていく必要が求められているのではないかというふうに私は思っておりますけれども、いかがお考えでしょうか。

木村参考人 本日御配付されました資料の中にも、三十三ページでございますか、そこに、「各国憲法における科学技術・生命倫理に関する規定」ということで、さまざまな国の事例が出ておりますが、私は、今の会長の御質問に直接お答えするという形でいえば、これは基本的に大変に大事なことになってくるだろうと。

 そういう知的財産権の保護あるいは情報の規制に関する、特にプライバシーについては憲法の中に組み込んで、我が国の憲法は一応あって、そして最高裁の判例の中で、それに中身を与えていくようなさまざまな判例も出てきて、蓄積はあるわけですけれども、その蓄積を踏まえた新しい時代の新しい憲法をつくるということであれば、その蓄積を踏まえた上での考え方の展開、これは突如として何かをやるのではなくて、例えば環境権につきましても最高裁の判例が出ているわけですけれども、そういうことを踏まえた新しい提案、それを国民がまたどういうふうに受け取るのか、あるいは議会の中でそれがどういうふうになるかは、これはいろいろな対応があるかと思いますが、少なくともそういう形での新しい展開を考えることは極めて意味があるというふうに私自身は思っております。

中山会長 ありがとうございます。
 最後、時間が余りなくなりましたので、結論に入らせていただきたいと思います。
 我々人類の歴史の中で、ずっと振り返ってみると、石器時代に始まって青銅の時代、鉄の時代、そして鉄を使った蹄鉄等によって人間の移動距離が非常に長くなる、こういったことでいろいろと文明が変わっていく、こういう歴史があったと思います。そういう中で、天文学が発達して航海術が開発される、それから、グーテンベルクの印刷機ができて、聖書が、印刷されたものがいろいろな地域に散らばっていくということで教義の対立が起こってくるというようなおもしろい歴史があったと私自身思っております。
 そういう中で、ちょうど第二次世界大戦前に、アインシュタインやフェルミとかいろいろおりましたが、原子核の分裂が学問の領域として出てきた。米国に亡命したアインシュタインや学者たちの協力のもとに政府がマンハッタン計画を成功させて原子爆弾を完成させた。
 そういう時代にドイツではロケットの研究が盛んだったですね。フォン・ブラウンが中心になったロケット研究所がつくられて、V1、V2のロケット爆弾がロンドンを空襲するという事態があった。戦後になって、フォン・ブラウンとそのグループがアメリカへ亡命する。研究所の職員の多くはソ連に連れていかれる。こういうことでロケット技術が二極化していくわけですね。

 それで、アメリカはアポロ計画をつくる。その前に、それがまだ進行中に、ガガーリンが乗った人工衛星が地球を周回する、こういったことでアメリカは驚いて、一九六〇年代の終わりまでに月に人間を送り込むというアポロ計画を実現するわけですけれども、それと並行して、今度は、月から地球に向かって月の映像をテレビで送ってくるという驚くべき技術が発達してきた。

 こういった中で、日本も放送衛星によるテレビ時代に入って、二十四時間、いろいろとチャネルを回せば世界の映像が見られる、こういう状況に現在入ってきていると思うんです。

 これだけの科学と技術の進歩が人間社会に影響を与えてきた中で、教育の面でもいろんな問題が起こってきました。犯罪の面でも異常な犯罪が起こり始めた。こういうことについて、先生がおっしゃっているエシックスの問題、これがやっぱり基盤になってくるんだろうと思います。

 ここで、私は、憲法調査会の調査団がアメリカに参りまして、ワシントンのジェファーソン・メモリアルホールへ行ったんですね。あそこで、壁に書かれたジェファーソンの言葉を私たち調査団一同が大変感銘深く見たことがございます。

 そのところに何て書かれていたかというと、憲法の父であるジェファーソンが、私は法律や憲法の頻繁な改正を主張するものではない、しかしながら、法律や憲法は人間の知性の発達と密接な関係があるものである、それがより発展し、啓発されるにつれて、また新たな発見がなされ、新たな真理が発見されて、風俗や世論が変化するといった環境の変化に応じて、制度は時代と足並みをそろえて進歩していかなければならない、こういうことを書いておりました。文明化社会に対して、いまだ未開であった祖先のころの制度を存続させようということは、人に、彼が子供のころに着ていたコートをずっと着るように要求するものである、こういうことがジェファーソンの言葉として刻まれておりました。

 私どもは、これだけの大きな社会の変化、あるいは未来の人類社会はどうなっていくのか、こういうことの中で、国の基本法というものも、この時代を原点として新しい時代の展開に備える必要があるということで、現在、憲法調査会がこうして各分野の専門家を集めて議論をいただいているところでございます。

 こういうことで、先生からきょうは大変貴重な御意見をいただきまして、私ども大変参考になりましたことを厚くお礼を申し上げて、私の質問を終わらせていただきたいと思います。
  後略
 ありがとうございました。

 次に、質疑の申し出がございますので、順次これを許します。水島広子君。
  

 後略