以前紹介した記事は

髄膜炎ワクチンがスペイン風邪の原因だとしていたのですが

以下の記事のほうが実証的かもしれない。

 

 

https://twitter.com/TweetTVJP/status/1312534906560413697

 

 

新型インフルエンザ特措法は再び社会を混乱に陥れる

谷田憲俊1、浜六郎2

1山口大学大学院医学系研究科 医療環境学
2NPO法人 医薬ビジランスセンター(薬のチェック)

TIP誌「正しい治療と薬の情報」2012年3月号より(文献のタイトルおよび図1~4などを追加)

要旨

人々が新型インフルエンザに恐怖を覚えるのは,1918年スペインかぜで多数の若年者が死亡したからである.しかし,その現象は医原性であったので,新型インフルエンザ自体に対する恐れは杞憂である.実際,2009A/H1N1インフルエンザは季節性インフルエンザよりはるかに軽症であった.それにもかかわらず,日本の行政当局や関連学会は過剰な対応を採って社会を混乱に陥れた.その反省に基づくと称する新型インフルエンザ等対策特別措置法(特措法)が2012年3月9日,国会に上程された.しかし,その実態は同じ混乱を再び引き起こそうとするものである.インフルエンザには医科学に基づいた感染症対策が求められ,危機管理の施策は合理的な国際基準に則らなければならない.

1 はじめに

インフルエンザが注目されるのは,流行の発生と広がりの速さによる.とくに,A型は十数年から数十年を経て亜型が変わる大変異を起こすと,人々は新型に対する抗体がないためパンデミックを起こすとされており(註1),人々がインフルエンザのパンデミックに恐怖を覚えるのは,1918年スペインかぜで多数の若年者が死亡したからである[1].

一方,2009A/H1N1インフルエンザは,メキシコの巨大養豚場に近接した村に始まった.2009年2月下旬からインフルエンザ様疾患が多発し,3月には村の人口の6割,約1800人に発症して死亡も続出した.そのため,スペインかぜの再来とメキシコも世界もパニックに陥った.直に軽症と判明したが,パニックが是正されることなく,世界中が大混乱に陥った.とりわけ,非理性的な日本の対応は国際的にも注目された.

この度,改正されたと称する新型インフルエンザ等対策特別措置法(特措法)が2012年3月9日,国会に上程された.しかし,2009年の大混乱への反省は見られず,再び同様の混乱が生じることは明らかである.そこで,インフルエンザには医科学に基づいた感染症対策が求められること,危機管理の施策は合理的な国際基準に則る必要があることを,特措法に焦点を当てつつ示したい.

 註1:亜型がそれまで流行していた型と異なる場合,そのウイルスを「新型」と呼び,パンデミック,すなわち世界的大流行を起こしうるが,それは重症インフルエンザが世界的に大流行するという意味ではない.1918年のスペインかぜで死亡者数が多かった原因は「新型」であったからではなく,次項で述べるように,アスピリンなど解熱剤の過剰使用であった.

2 1918年スペインかぜ重症化の原因は医原性

スペインかぜは1918年5月の流行当初,他の新型インフルエンザと同じく死亡率は無視できる程度であり[1,2],同年1月から8月の死亡率は前年の季節性インフルエンザより低かった.問題は,その後の第二波流行時に25~29歳の米国内の屈強な若年兵に死亡が多発したことであり,それも1918年9月後半から致死率3%と重症化率が跳ね上がったことが目立つ.この現象が弱毒性ウイルスから強毒性ウイルスに変異した結果であるとされ,今日の新型インフルエンザの恐怖につながった..

その突然の死亡率上昇は,1918年スペインかぜの最大の謎であった.同時期の新感染にもかかわらず,米軍兵の致死率は2.1%から10%と駐屯地によって大きな差違があり,全米でも地域により死亡率に大きな差違が表れていた[1,2].この現象は同一期間なのでウイルス変異では説明できず,生活や周囲環境,天候,人口密度,さらには予防法にも違いはなかった.ここで,1918年9月という時期と,サリチル酸(アスピリン)をウイルス疾患に使用したときの害反応を合わせると謎が解ける[2].

1917年にアスピリンの製造特許が切れ,多くの製薬会社が利益を求めてアスピリン製造に群がり,巷にアスピリンがあふれていた[2].スペインかぜで激増する高熱患者は,アスピリンに格好の提供先を与え,アスピリン販売量は前年の2倍に跳ね上った.当時は副作用が出るまでアスピリンを増量して,それから少し減量して継続するのが通常の服用法であった.1918年9月13日には公衆衛生局長官が,同26日には海軍が,10月5日にはアメリカ医師会雑誌(JAMA)が,「外国ではアスピリンで症状改善に成功している」とアスピリンをスペインかぜに推奨した[2].こうして,医師はインフルエンザ患者に大量のアスピリンを用いた.

皮肉にも新患数が減りはじめた秋口に,スペインかぜによる死亡が急増し始め,第二波の流行とされた[1].

それは海軍で9月後半,陸軍で9月末,そして一般人では10月後半のことで,アスピリンが広く推奨され始めた時期に一致する(表1、図1).

表 1918年スペインかぜによるアメリカ陸海軍関係者の死亡者数

表1




 

いずれもアメリカ国内勤務者で,海軍関係者は陸上勤務である.実際の期間は海軍の最終日が 陸軍の計算日初日となる.なお,11月以降は除隊者の数が急増したので,それ以前とは母数が 大きく異なる.クロスビー著『史上最悪のインフルエンザ 忘れられたパンデミック』より[1].


図1




 

表の脚注参照

 

それら兵士の死亡原因は,肺水腫とそれに続く重症肺炎であった.スペインかぜ患者への使用量の1日あたり8.0~31.2gは,アスピリン中毒量が1日3~4g以上であることから許容量をはるかに超えており,血管透過性を増し全身臓器の浮腫が起こり肺水腫も起きてくる.その病態こそ後に動物実験やヒトに見いだされたアスピリンなど非ステロイド抗炎症剤(NSAID)による害反応そのものであった.

以上,恐怖の1918年スペインかぜ重症化の主因は医原性であったとわかる.

3 2009A/H1N1インフルエンザのパンデミック

後に2009A/H1N1インフルエンザと呼ばれる新型インフルエンザをメキシコ政府が公表したのは2009年4月2日であるが,すでにカリフォルニア州に飛び火していた.当初のメキシコの2009A/H1N1インフルエンザでは若年者の死亡が目立ったが,その一方で現地の二次感染者に重症や死亡はなかった.さらに,4月28日以降のメキシコの死亡率は1%以下であり,当初の重症度とは大きく異なる[3].当初の高死亡率の原因は不明であるが,後者の現象はメキシコにおいても2009A/H1N1インフルエンザが軽症であることの疑いようのない証明となった.

ウイルスは,アメリカ疾病予防センター(CDC)の調査でトリ型とヒト型のウイルス遺伝子が夾雑したブタインフルエンザとされた.WHOが把握する情報に感染者数はないので死亡率は計算できないが,季節性インフルエンザよりはるかに低いことに疑いの余地はない.日本における2010年3月での患者数は推計2066万人,死亡総数は198人なので,単純計算で死亡率は0.00096%である[4].歴史的にも「新型インフルエンザ」の死亡率は低いと判明している(図2、図3)[5].

 

                                                                           後略