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どうして世界に誇る日本の伝統的な食生活を捨てたのか

 

  入院見舞いに、友人から藤原正彦著「日本人の誇り」をもらい即読しました。これほどに率直に「昭和史」を語っていることに感銘を受けました。で、そのお陰で半年ほど買ったままになっていた、同じような歴史認識に立った鈴木猛夫著『「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活』を読み出し、「どうして、世界に誇る日本の伝統的な食生活を捨てたのか?」の歴史的事実が分かりましたので、要約をしてみました。

  中略

 戦後、日本人の食生活は世界に例を見ないほど短期間に急速に欧米化した。戦前まで多くの家庭の一般的な食生活のスタイルはご飯に味噌汁、漬物、野菜の煮物、魚介類などが平均的な内容だった。ほとんどが植物性の食材で、動物性のものは魚介類、それも常食というほどではなかった。ところが戦後は主食の米の消費量は戦前に比べおおむね半減し、代わりにパンの消費量が増え、そして肉類、卵、牛乳、乳製品などの動物性たんぱく質と油脂類は大幅に増えて食生活は目立って欧米化した。
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 終戦直後の食糧難を乗り切ると厚生省は伝統的な日本型食生活よりも欧米流栄養学に基づく食生活こそ望ましいと考え、「栄養改善運動」に熱心に取り組んだ。ご飯に味噌汁、漬物という「貧しい」食生活ではなく、パン、肉類、牛乳、油料理、乳製品という欧米流の「進んだ」食生活が望ましいとして普及に全力をあげたのである。そしてその運動は予想以上の成功を収めた。これほどまでに成功した裏には、昭和30年代から本格的に始まったアメリカの日本に対する周到な農産物売り込み攻勢があった。これを一般に「アメリカ小麦戦略」という。

  「アメリカ小麦戦略」は、アメリカの官民挙げての、日本を標的にした極めて政治的な農産物、家畜飼料の売り込み作戦であった。その作戦内容を知ると厚生省が何故これほどまでに欧米流栄養学の普及に熱心であったか理解できる。パン、牛乳、肉類、卵、油、乳製品などのいわゆる洋食材料の供給元はアメリカで、それらの食品を日本ですんなり消費してもらうには、何故それらが優れた食品であるかの科学的説明が必要だった。そのために欧米流栄養学(いわゆる現代栄養学)が最大限活用され栄養学校で教育され、欧米流食生活が望ましいと繰り返し国民は啓蒙された。その結果、日本人は戦前までの伝統的食形態よりも欧米型食生活が望ましい食生活のあり方だと考えるようになった。
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  (財)日本学校給食会は、約5735万円の活動資金をアメリカ側から受け取り、学校給食の地方への普及活動費に当てたが、その活動の中でこんなPR映画を作った。全日本パン協同組合連合会(全パン連)が後援して作った『いたちっ子』という映画である。

  あらすじは次のようなものである。

 「ある田舎町に二つの小学校があった。山場の小学校ではまだパン給食が始まっておらず、子供たちは米ばかり食べているので、腹のでっぱった『いたち』のような体つきをしていた。一方、すでに学校給食を始めている町場の子供たちは体位向上がめざましく、山の子供たちを見つけては『いたちっ子』とバカにするのであった。山場の小学校の先生たちはパン給食導入の意義を盛んに説いたが、父兄には米づくり農家が多く、給食説明会にさえ集まらない。

  Aさんはその典型的な父親で、『親がつくったご飯を持たせてどこが悪い』と頑固な態度を変えなかった。そんなある日、東京へ就職したばかりのAさんの長男が結核で倒れた。Aさんは『栄養がかたよっていたためだろうか』と不安になる。そして、町内マラソン大会の日がやってきた。Aさんの次男は山場の代表選手である。号砲一発、次男は快調にスタートを切るが、父親の声援も空しく途中で息切れし、ついに地面にうずくまってしまう。頑固なAさんも、これで納得した……日の丸弁当ではダメなのだ。こうして山場の小学校にもパン給食が始まることになり、『いたちっ子』とバカにされることもなくなった。めでたし、めでたし」(高嶋光雪『アメリカ小麦戦略』家の光協会 昭和54年)
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  アメリカ側の巧妙な戦略があり、また当時の日本側関係者が、アメリカの余剰農産物に頼って日本人の食生活を変革したいと望んだ結果、食生活が大きく変化していったのだ、ということだけは充分認識しておく必要がある。そのことがほとんど知られていないので、急速な食生活欧米化の原因が分からず、その是非についても的確に論ずることが出来ないのだ。つまり、「栄養改善運動」は、純粋に栄養学的見地からのみ行われたのでないことを知っておくことが大事である。

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  江戸時代中期から白米常食の食習慣が定着し、脚気の大流行が始まるという日本の疾病の歴史上大きな事件となったのである。主食が玄米(分づき米)から白米に変化したことが、いかに健康に悪影響を与えたかを端的に示している。白米常食が定着している今、米の食べ方を考え直すきっかけになるのではないだろうか。

  さて、明治の世になって白米常食は地方都市にも広がりを見せ、脚気はさらに深刻な事態なった。特に軍隊内での発症が顕著だった。
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 明治末期に鈴木梅太郎によってビタミンB1が発見されたにもかかわらず、なお脚気の原因を細胞説と固執した東京帝大医学部、陸軍の抵抗は、まさにドイツ医学の命運をかけた激しい戦いだった。それだけドイツ医学の影響力が強かったということであろう。

  多くのドラマがあった脚気論争も次第に白米食によるビタミンB1欠乏が原因との説に収束されていき、脚気対策は新たな段階を迎えることになった。

  明治17(1884)年の高木兼寛の海軍兵食実験から40数年、大正末期になってやっと脚気論争は主食の米の食べ方に原因があったという結論を得て終結することになった。米の食べ方をめぐってこれほど多くの議論が展開されたのは、米食民族日本人の歴史上初めてのことであった。時代はいよいよ昭和を迎え新たな展開を示すことになる。

 脚気が白米常食によるビタミンB1欠乏症ということが分かってくると、玄米を完全に白米にまで精米して食べることの是非が論じられるようになってきた。「胚芽とある程度の糠を残した七分づき米がいい」と主張する国立栄養研究所長で栄養学者の佐伯矩(ただす)、「いやビタミンB1は胚芽に多いのだから糠は全て取り去って胚芽だけを残した胚芽米こそ望ましい」という東京帝大医学部教授の島薗順次郎、「いや糠も胚芽も全部含んだ玄米のままがいい」と主張する医学博士・二木謙三とそれぞれの支持者との間で三つ巴の主食論争が始まった。

特に七分づき米論者と胚芽米論者との間の論争は「胚芽米論争」とも言われ、感情的な激しい応酬となった。それだけ米の食べ方について真剣に討議されたということであろう。この激しい論争の中にあっても誰一人として白米がいいと主張した医学者、栄養学者はいなかった。また、あくまでも日本人の主食は米ということで一致していた。間違ってもパンが良いなどと言い出した学者はいなかった。
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  明治以来の脚気論争、主食論争の過程で出てきたのが「たくさんのご飯と少しのおかず」という米食に偏りすぎた食生活への懸念だった。確かに脚気はそのような食生活を始めた江戸時代、元禄の頃から庶民にまで拡大されてきた。主食が玄米から白米へという大きな変化があったが、その白米の多食が脚気の原因でそこを改めようという論争だった。だからこそ白米を七分づき米や胚芽米に代えることが大事だとみんな考えたのだ。
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戦後は主食のあり方について深く討議されるとなく法定米は白米になった。
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 いずれにせよ白米が主食になると当然脚気の再燃が懸念された。戦前のような少ないおかずではダメだ、もっとたくさんという方向に栄養指導がされるのは当然の成り行きであろう。戦後の食糧難が過ぎて本格的に始まった栄養改善運動では、牛乳、肉類、卵、乳製品、油脂類等何でもかんでも満遍なく食べることが栄養バランスをとることだという教育が進められた。おかずの種類の多い欧米流食生活を手本にするのは栄養指導の上で好都合であった。それで脚気克服が出来ればもう主食にこだわる必要はないと考えたのかもしれない。戦後の栄養指導はこのとき、白米を主食にしてたくさんの副食という方向が決まったのである。
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  終戦直後の虚脱状態に気前よく援助してくれるアメリカの経済力、底力を身にしみて感じたであろう。戦争に勝ったアメリカ、体の大きいアメリカ人、近代国家を作り上げたアメリカ、その元となるのはパン、肉類、牛乳、乳製品であり、さらに欧米流の栄養学であり説得力であった。

 米よりもパン、味噌汁よりも牛乳、さらに豆腐、納豆よりも肉、卵、という流れであった。その流れに沿った栄養改善が厚生省の指導のもと熱心に行われたのである。
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 何でも満遍なく食べることを教える栄養教育、そしてそれを支える大規模な食品業界、さらにそこから膨大な宣伝費で成り立つマスコミ、そして食料の6割以上を輸入に頼る日本人の食卓、これらの状況の中で、今我々が取るべき行動は食生活に対する確かな視点を持つことである。

  一体日本人は昔から何を食べてきたのかを見れば、その答えはおのずとそこにあるのだ。飽食の今こそ戦前までの伝統的な日本食の良さを再認識したいものである。

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  『「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活』の目次は次のとおりです。
  第1部「アメリカ小麦戦略」と学校給食
  第1章アメリカの小麦戦略
  第2章粉食奨励策
  第3章学校給食とアメリカ余剰農産物
第2部日本人の食生活と栄養学
  第4章脚気論争と主食論争
  第5章戦後の栄養改善運動
  第6章欧米型栄養学導入の間違い
  第7章日本型栄養学の普及を

 上記の著書は2003年に発行されたものですが、その中で欧米型栄養学とか現代栄養学は、日本には合わないと指摘されることに異議を申し立てたいと思います。

 今から25年前の1986年に、丸元淑生著「豊かさの栄養学」が発行されました。それが日本へ最初に現代栄養学を体系的に紹介したのではないかと思います。そしてその6年後の1992年に名著「生命の鎖」が発行されました。そのあとがきで、「栄養学に関してはいえば、いまそれは知的好奇心をゆさぶられることでもある。多数の論文が一つのもの――オプティマルな食事の像――を指し示してきているからだ。しかも、浮かび上がってきたオプティマルな食事、つまり最も望ましい食事の像は、日本の伝統的な食事のそれに見事に一致していくのだ。その像を明確に伝えたいというのが、この本を書きすすめていく私のエネルギーとなった。」と書かれています。

 「生命の鎖」の文庫版(1999年発行)は、表題が「栄養学は警告する 何を食べるべきか」に改められ、「われわれは何を食べるべきか」という新たな章が書き加えられた中で、「それぞれの地域の食事は、主としてその地方の産物によって構成され、長い年月を経て伝統的に作りあげられていったものであるから、栄養的にみて理想的な食事が世界に多種類あっておかしくなく、それが非常に異なる貌を持っていても不思議でない。」といわれるように、現代栄養学が日本に合う、合わないではないと思います。

  そしてそのまえがきで、「現在、栄養学が明白にしている事柄の一つは、精製度の低い穀類で主たるカロリーをとり、多種類の野菜と果物で、それに次いで多くのカロリーをとることの重要性である」と仰っています。

  最近体験しました病院食、それは学校給食と共に最新の栄養学に基づいた食事を提供すべきだと思いますが、ご飯は白米で、牛乳なりマーガリンを使っているところをみますと、今だに古典的といいますか、伝統的な栄養学に基づいていることに驚きます。