れんだいこ さん サイト転載 つづき:
伊藤博文とは、何者だったのか
伊藤博文は、二二歳までは士分ではなく、数多くの違法事件に関与していた。伊藤博文は、一八四一年(天保一二)九月二日、周防(すおう)国(今の山口県南部・東部)熊毛郡に生まれ、家が貧しかったために、一二歳ごろすでに若党(わかとう)奉公(武士の従者。戦闘に参加するが馬に乗る資格のない軽輩)に出ている。
一四歳になると、親子で足軽・伊藤直右衛門の養子となり、その俊輔(博文)の人物を見込んだ藩士・来原良蔵(くりはら りょうぞう)(桂小五郎の義弟。相模湾警護隊勤務)に鍛えられて一人前の下忍(忍者)となった。そのため一六歳のときに松下村塾に入って吉田松陰の教えを受けると、たまたま大室天皇家と俊輔の郷里が近かった縁で中忍(佐官級情報局員)松陰から「玉(ぎょく)」大室寅之祐の傳役(もりやく)を命ぜられた。そしてこれが彼のライフワークとなったのである。一八五八年(安政五)に、俊輔は山縣(やまがた)小助(有朋)らと京に入っている。
この京入りは吉田松陰の策により、長州藩が行った諜報活動であった。大老・井伊直弼が、徳川斉昭、慶篤(よしあつ)、松平慶永(よしなが)などを処分して、オランダ、ロシア、イギリスと修好条約を結んだ直後に、朝廷と京の情勢を探ったわけである。諜報活動にあたったのは、足軽と奴(やっこ)から選んだ六人(の忍者.テロリスト)であり、その中に伊藤博文と山縣有朋が入っていたということである。伊藤博文は、この京における諜報活動のあと、長崎で洋式銃陣法を伝習している。
一八五九年(安政六)になると、桂小五郎(木戸孝允)とともに江戸へ行き、一〇月二七日に吉田松陰が刑死すると、その遺骸を同志とともに江戸の小塚原回向院(こづかっぱらえこういん)に埋葬している。
一八六二年(文久二)七月、久坂玄瑞(くさかげんすい)らと諮って長州藩重臣・長井雅楽(うた)の襲撃を計画するが失敗し、一二月には高杉晋作らと英国公使館を焼き討ちし、山尾庸三(ようぞう)とともに、国学者・塙(あなわ)次郎を斬殺している。
井上聞多(もんた)(井上馨)、野村弥吉、遠藤謹助、山尾庸三らと英国へ密留学をしたのは、その翌年の一八六三年(文久三)であり、士分にとりたてられたのは、この年のことである。英国密留学もそこそこに、翌年には帰国して、外国艦隊との講和に奔走し、この年の年末には、長州の力士隊を率いて高杉晋作の挙兵に従っている。以上が、一八六六年(慶応二)に孝明天皇が急死する以前の伊藤博文の行動である。ざっと見て感じるのは、違法事件への関与の多さである。
伊藤が士分にとりたてられたのは、一八六三年だから、二二歳のときである。つまり、二二歳までは士分ではなく、斬殺を含む違法事件に数多く関与していたということである。そんななかで、いい意味で目立つのは、松下村塾に入って吉田松陰の教えを受けたことだが、この松下村塾が、鹿島説ではたんなる私塾ではなく、大変な問題を含んでいたのである。
次に、鹿島説における「松下村塾とは何か」と「吉田松陰の三つの理念」を見てみよう。そのうえで、伊藤博文は孝明天皇暗殺にどう関わったかに触れたい。
吉田松陰の松下村塾とは、どういうところであったか
松下村熟の塾長であった吉田松陰は、一八三〇年(天保元)に、長州藩士・杉百合之助の次男として萩郊外の松本村に生まれている。幼いころに、山鹿(やまが)流兵学師範・吉田大助の養子となり、叔父の玉木文之進らの教育を受け、一一歳で藩主に『武教全書』を講じて早熟の秀才であることを認められた。
一八五一年に江戸に出て、西洋兵学を学ぶ必要性を痛感し、兵学者の佐久間象山(しょうざん)に入門したが、勉強は進まなかった。同年末、許可なく藩邸を辞し、翌年にかけて水戸から東北、北陸と遊歴したため、士籍永奪の処分を受けたが、その代わりに一〇年間の諸国遊学の許可をもらった。
五三年のペリー来航に際しては、浦賀に出かけて黒船を目の当たりにし、佐久間象山に勧められて海外の状況を実地に見極める決心を固め、長崎でプチャーチン(ロシア提督)の軍艦に乗ろうとしたが果たせず、翌五四年(安政一)に、下田に来航していたアメリカ艦に漕ぎ着けたが、密航を拒否されて、岸に送り返された。
松陰は、江戸の獄に入れられたのち、長州藩に引き渡され、在所に蟄居(ちっきょ)させるとの判決を受けたが、身柄を引き取った長州藩は、萩の野山獄(のやまごく)に投じた。幕府に気をつかい、慎重にことを運んだのである。
在獄一年余で、生家の杉家に預けられることになるが、他人との接触は禁じられた。そんななかで、近隣の子弟が来たりして、幽室が塾と化した。松下村塾は、もともと長州藩士・玉木文之進が始めたものであり、それを外叔の久保五郎左衛門が受け継いだのだが、この時期に、その門弟で松陰のもとに来るものが増えたため、いつしか松陰が松下村塾の主宰者と見なされるようになった。
評判が高まるにつれて、萩の城下から通うものも現れた。久坂玄瑞と高杉晋作がその代表で、松下村塾の双壁と目され、久坂は松陰の妹と結婚した。
松陰の講義は時勢を忌憚(きたん)なく論じるところに特徴があり、彼の膝下(しっか)から益田親施(ちかのぶ)(右衛門介・須佐領主。俗論党により切腹)、桂小五郎(木戸孝允)、吉田稔麿(としまろ)(池田屋にて討ち死に)、伊藤博文、山縣有朋、前原一誠(いっせい)(萩の乱を起こし斬罪)などが出ている。
安政の大獄を強行した幕府は、松陰へも疑惑を持ち、江戸伝馬(でんま)町の獄に投じたのち、一八五九年一〇月、死刑に処した。
鹿島が整理した吉田松陰の三つの理念
一、長州藩が匿ってきた大室天皇による南朝革命論
鹿島説では、その吉田松陰の理念は、おおよそ次の三点であるとしている。まず第一に、南朝革命論である。吉田松陰も水戸学の藤田東湖(とうこ)も、尊皇攘夷を主張したが、この場合の尊皇とは、南朝正系論に立った尊皇攘夷である。南朝が正系であるにもかかわらず、孝明天皇のような北朝の天皇が天皇の座にあるのはおかしい。偽朝である京都北朝の天皇を廃して、正系たる南朝の天皇を再興しなければならない。…そのように主張し、尊皇すなわち南朝革命論を打ち立てたのである。
ただし、同じ南朝革命論としての尊皇攘夷ではあるが、吉田松陰と藤田東湖では、その内容が異なる。吉田松陰が再興すべしとしている南朝は、長州が匿ってきた大室天皇家である。吉田松陰は、自身が「玉」(天皇)を握っていたからこそ、南朝革命論を打ち立てたのである。それに対して、藤田東湖が再興すべしとした南朝は、当然のことながら熊沢天皇家であった。熊沢天皇家は、歴代にわたって水戸藩が匿ってきた天皇家であり、藤田東湖および水戸藩は、みずからが握る「玉」を担いで南朝革命を成立させようとしたのである。
攘夷についても、注意を要する点がある。鹿島によると、藤田東湖の主人であった徳川斉昭は、松平慶永にあてた手紙のなかで「攘夷なんかできっこない。自分は老齢だから、一生攘夷と言って死ぬが、貴殿はそこのところをよく考えてほしい」と述べている。
藩主・徳川光圀(みつくに)の『大日本史』編纂に端を発した水戸学は、国学・史学・神道を基幹とした国家意識を特色とするが、それらが鮮明となり特色ある学風を形成したのは寛政(一七八九‐ 一八〇一)年間以降である。幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えたのも、この寛政以降の水戸学であり、この時点での攘夷は、多分に家康の鎖国政策を擁護するためのものであった。だから、たしかに徳川斉昭のように、それが不可能であることを知っていながら、立場上、攘夷を主張していた者がいたということは、大いにありうることである。そのことがわからずに、攘夷原理主義的に行動したのが蛤御門の変であり、水戸藩の攘夷原理主義集団・天狗党なのであった。
二、徹底した民族主義と侵略思想
吉田松陰の三つの理念の第二は、民族主義である。鹿島曻は、この松陰の民族主義を「徹底した民族主義と侵略思想である」としている。そして、次のような松陰の言葉を引いている。「富国強兵し、蝦夷(北海道)をたがやし満州を奪い、朝鮮に来り、南地(台湾)を併せ、然るのち米(アメリカ)を拉き(くだき)(両手で持って折り)欧(ヨーロッパ)を折らば事克たざるにはなからん」。これは明治以降、途中までは実現できたことである。明治新政府は富国強兵に励み、蝦夷地を耕し、満州国を建てて実質的には支配し、朝鮮と台湾を併合した。
松陰は、その後アメリカを両手で持って折るべしとしたのだが、それはうまくいかなかった。満州を奪い、台湾と朝鮮とを併合したあと、日中戦争を行い、首都南京を攻略するも、蒋介石は首都を放り投げて逃げてしまい、戦争のゴールというものがなくなり、泥沼化してしまったからである。
日本は、そのような状態で大東亜戦争に突き進むことにより、腹背に敵を受ける二正面作戦となってしまった。日中戦争を行わず、あるいは適当なところで和平に持ち込み、国力を蓄えた上で、米を拉いていたならば、アメリカ本土はともかく、太平洋がある程度のところまで日本の海になっていた可能性は、なくはない。そこまでいったならば、ヨーロッパともある程度の戦いはできただろうし、外交的に緊張関係を乗り切ったり、緩和したりすることも可能であったかもしれない。
戦後のいまの常識に照らせば、侵略は悪いことであるが、松陰の生きた時代は、欧米列強が世界支配を完成せんとする帝国主義の時代であった。この時代の帝国主義者は、それぞれの国では、領土を拡大し国に富をもたらす英雄であった。
松陰がもっと長生きをし、明治維新の成立を見、日清・日露戦争の勝利、満州国の建国、台湾と朝鮮の併合を見たならば、その後の国策や外交方針は大きく変わっていたにちがいない。
日本は欧米列強の世界支配を、最後のところで食い止めたわけであり、それができたのは日本に欧米列強と戦い、アジアを侵略せんとする思想と力があったからである。鹿島説は、侵略はすべて悪としているが、一方でアジアの大国であるインドや中国までもが実質的に欧米の植民地にされてしまうなかで、幕末から明治・大正・昭和初期まで、日本が独立を保つことができたのは、松陰の「徹底した民族主義と侵略思想」が、明治の元勲のなかに生きていたからだという点は否めないとしている。
日本は、大東亜戦争に敗れて七年近くもアメリカ軍を中心とする連合国軍に軍事占領されることになるが、このときには松陰の「徹底した民族主義と侵略思想」が心のなかに生きていた明治の元勲は、一人も生き残っていなかった。松陰の「徹底した民族主義と侵略思想」が日本のなかから潰(つい)え去ったとき、ことの善し悪しは別にして、日本の軍事力も潰え去っていたのである。
三、部落の解放(これを全アジアに広めようとしたのが大東亜共栄圏)
吉田松陰の三つの理念の第三は、第二の民族主義と矛盾するようだが、「解放」という理念である。この点に関しては、「長州藩の奇兵隊は、部落解放の夢に燃える若者が中核をなしていた」という私(松重)の研究が基礎となっている。奇兵隊のなかでも、とくに注目すべきは力士隊である。伊藤博文は、実はこの力士隊の隊長だったのである。この時代の力士というのは弾体制(いわゆる同和)に従属していて、部落と密接に関係しているか、あるいは部落そのものであった。さらに、力士隊のあった第二奇兵隊の屯所(とんしょ)は、麻郷(おごう)近くの石城(いわき)山にあった。麻郷はいうまでもなく大室天皇家のあった場所であり、明治天皇となる大室寅之祐が明治維新の前年まで過ごした地である。
つまり、麻郷を共通項として、力士隊と伊藤博文と大室寅之祐(明治天皇)は、つながるのである。そればかりではない。大室寅之祐(明治天皇)は、大の相撲好きだったが、それもそのはずで、力士隊長・伊藤博文や力士隊のメンバーらと、よく相撲をとっていたのである。
『中山忠能日記』に「明治天皇は奇兵隊の天皇」と述べた箇所がある。これまで、それは「薩長連合によって生まれた天皇」というように解釈されることが多かった。明治天皇と奇兵隊に直接の関係があるなどとは、想像だにできなかったからである。しかし、明治天皇すなわち大室寅之祐は、奇兵隊と直接関わっていたわけであり、この記述は文字どおり「奇兵隊の天皇」という意味なのである。
尊皇攘夷の真の意味は、南朝革命であることはすでに述べたが、吉田松陰にとっては、それはすなわち「奇兵隊の天皇」を再興することにほかならず、それは部落を解放することをも意味した。そして、明治維新によってこれらのことは実現されたのである。
さらに、この「解放」を全アジアに広めようとしたのが大東亜共栄圏であり、その精神が八紘一宇なのである。八紘一宇は、次の三つを特徴とする。
1、 日本は神国であり、皇祖・天照大神(ああてらすおおみかみ)の神勅を奉じ、「三種の神器」を受け継いできた万世一系の天皇が統治してきた(天皇の神性とその統治の正当性、永遠性の主張)
2、 日本国民は古来より忠孝の美徳をもって天皇に仕え、国運の発展に努めてきた
3、 こうした国柄の精華は、日本だけにとどめておくのではなく、全世界にあまねく及ぼされなければならない
前段の二つは真っ赤な嘘である。しかしながら、結論の部分はアジアの「解放」、被抑圧民族の解放につながる思想である。
孝明天皇は、伊藤博文が刺殺したのか?
幕末に、暗殺の実行部隊に忍者が選ばれるのは自然なことであった。戦国時代は血統を重んじる源平武士団が敗北して、賎民が天下を奪った時代であった。秀吉は「はちや」部族の出身であったが、長じて「軒猿(のきざる)」といわれる下忍(下級忍者で、実戦部隊)となった。秀吉は大返し(本能寺の変を知った秀吉が備中から姫路城まで大急ぎで戻った一件)によって明智光秀を討ち、さらに引き上げると見せかけて、柴田勝家を奇襲攻撃して破って、ついに天下をとるが、この二つの戦の兵法は、ともに忍者戦法であった。
はちや部族のルーツは、月山(がっさん)の山麓にすむ蜂屋(はちや)賀麻党(兵役もつとめる芸人集団)であり、文明一八年(一四八六)、尼丁経久(あまこつねふさ)が七〇名ほどの賀麻党の者を万歳師(ばんざいし)(新年を言祝(ことほ)ぐ祝福芸人)として富田月山城に繰り込ませ、裏口から放火して城主を討ち取ったという史実があるから、はちやという人々が、賎民といっても万歳師でもあり忍者であったことがわかる。
毛利藩も乱破(らっぱ)の術(情報収集や破壊工作)を得意としたが、これも忍者戦法である。当時の山陰山陽地方は、はちや系の忍者がいっぱいいたと見るほうが自然であり、毛利元就の好敵手であった尼子(あまこ)藩もまた忍者の軍団を中核としていた。
このような忍者によって、長州藩では邪魔になった者はたとえ権力のトップにあっても、毒殺できる技術が、江戸時代にはほぼ完成していた。一八三六年(天保七)、斉煕(なりひろ)、斉元、斉広(なりこう)と、三人の藩主が相継いで変死しているが、これらはおそらく毒殺であったろう。
こういう藩の藩主になったならば、実力者に対して、うっかり逆らえば、すぐさま毒殺されかねない。だから、長州藩主は「そうせい候」(何を言っても「そうせい」と返事をするので、こう呼ばれた)という態度をとるようになったのである。
こうした忍者の伝統は幕末まで連綿として続いていた。薩長の密約によって、将軍家茂と孝明天皇を暗殺する際、実行部隊として長州の忍者部隊が選ばれたのは、むしろ自然な流れというべきである。
伊藤の刀剣趣味と忍者刀(『明治維新の生賛』より抜粋)
伊藤俊輔は、明治の世に伊藤博文と名乗るようになって、趣味としての書画骨董(しょがこっとう)などには深入りしなかったが、刀剣類の鑑識眼は相当なものであったらしい。晩年には名刀も数十本所有し、そのなかには国宝級のものもあって暇なときには夜半電灯に照らし、刀剣のにゅう匂(こう)などを点検するのが道楽であったという。
梅子夫人は維新のころ、萩城下に同伴したとき、俊輔が夜間外出する際には曲がり角などでいつ刺客に襲われるかもしれないと、用心のため抜き身の刀を後手(うしろで)に持って同行したという。そのため、夜中の室内で電灯の光に反射する抜き身の刀を見るたびにそのことを思い出して、「嫌でたまらなかった」と娘の生子に語っている。
そのためかどうか、維新のころ愛用していたという「忍者刀」が俊輔夫妻の手許を離れ、本家の林家の係累に預けられたまま伝承されているのをこのたび確認した。平成九年(一九九七)九月二日、博文の遺品や直筆の手紙などを集めた「伊藤公資料館」が、山口県熊毛郡大和町束荷(やまとちょうつかり)の伊藤公記念公園内にオープンした。同町が公の生誕一五〇年記念事業の一つとして新築整備したものであるが、あらかじめ公の遺族、親族のほか一般へも広く呼びかけて資料の収集に努めた。
林家の妻ヤスの孫娘・静子(祐美子)の夫・村上靖男君も、それを機会に義父の遺品を調べることにして、蔵の中の遺物箱を開けてみると、その底に一本の刀があった。この刀は未登録であったので、早速平生警察署を通じて県に連絡したところ、文化庁の係官が来て鑑定してくれることになった。
平成七年(一九九五)二月、県庁の一室に持参して、まず刀の銘を見ようとして柄(え)を抜いてみると、普通の刀の根元を切って短くつくり直しているために銘の部分が消えていた。刀身の長さは普通の刀と脇差の中間ぐらいになっており、室内や樹林の中などでも自由に使えるように工夫されていた。
そのとき、刀身をじっと見ていた文化庁所属の鑑定人が、「この刀は人を斬った刀で、刀全体に脂がべっとりとついていますね」という。脂には塩気があるから、人を斬ったあと拭わずに鞘に納めると中が汚れる。そのまま一〇日も放っておくと刀に錆が出て、次の斬り合いのとき折れることもあるという。
だから、人を斬ったあとには必ず鹿のなめし革で刀を磨くようにして拭わねばならない。鹿革は五回も使うと汚れてしまうので、心得のある武士は常に三枚の鹿革を懐中にしていたといわれている。俊輔もそのことは十分に知っていて、この刀も鹿革でよく拭ったのち鞘に収めていたようで、鞘から出すときはすんなり抜けた。
しかし、長年の間にジワリと脂が浮き出して刀身全体がどす黒くなり、所々に泡のような錆状のものが付着している。この刀はそれほど多くの人の血を吸っているもので、やはり維新動乱の時代に幾度となく使いこなされた「忍者刀」に違いない。調べてみれば孝明天皇の血痕も出てくるかもしれないのである(口絵写真参照)。
昔から人を斬ったあとには、無性に女性を抱きたくなるものだというから、博文が無類の女性好きになったのは暗殺専門の志士として麻薬患者のような殺人常習者と化していたからであろう。
さて―――
一、この刀は明治のはじめ、林惣左衛門のところへやって来た俊輔が、「すまんがこれを預かっておいてくれ」と言って渡したままになっていたもので、爾来門外不出の家宝として、林惣左衛門→次郎(その次男)→ヤス(次郎の妻)→芳雄(次郎とヤスの子・武田芳雄)→静子(芳雄の末娘・村上祐美子)と伝承され、保管されてきたものであった。村上君は、「人を斬った刀とわかれば気味が悪いし、展示するわけにもいかんから家に置いておこう」といって箱に納め、資料館には提出していない。
二、町の調査報告によれば、「資料収集に努力したけれども、俊輔の一八歳から二四歳までの間の手紙や書などは、今まで知られているわずかなもの以外は全然出てこなかった」という。
この二つの事実は何を物語るのであろうか。筆者(鹿島)もこの稿を書き進むうちに、維新の志士(俊輔たち)の活躍が彼らの青春時代を賭けた決死のテロ活動であり、そしてその活動が維新後に歴史から抹殺されたことをひしひしと感じるのである。
宮崎鉄雄氏による決定的な証言
こうして鹿島は、伊藤博文による孝明天皇刺殺の可能性を唱えたのだが、それを裏付ける証言をする人物が鹿島の前に現れた。作曲家の宮崎鉄雄氏である。宮崎鉄雄氏の父は、渡辺平左衡門章綱といって、幕末、伯太(はかた)藩一万三〇〇〇石の小名として大阪城定番を勤めていた。渡辺家は、もともと嵯峨天皇の末蕎であり、宮崎鉄雄氏はその渡辺平左衛門の子供として一五歳まで育てられ、のち、宮崎家の養子に出されている。宮崎氏によると、平左衛門は、徳川慶喜の命を受けて孝明天皇暗殺の犯人を調べていたが、それが岩倉具視と伊藤博文であったことをつきとめた。しかし、そのために伊藤博文から命を狙われる羽目になり、実際、長州人の刺客に稲佐橋の付近で襲われて重傷を負った。
その平左衛門の遺言として、宮崎氏は鹿島に次のように語った。「父が語ったところでは、伊藤博文が堀河邸の中二階の厠(かわや)に忍び込み、手洗いに立った孝明天皇を床下から刀で刺したそうです。そして、そのあと邸前の小川の水で血刀と血みどろの腕をていねいに洗って去ったということでした」。さらに、宮崎氏の話では、伊藤博文が忍び込むに際しては、あらかじめ岩倉具視が厠の番人を買収しておいたという。だとすれば、岩倉具視が伊藤博文を手引きしたことになる。たしかに、暗殺がプロの伊藤博文といえども、天皇の厠に忍び込むのは危険このうえなかっただろうから、だれかの手引きがあったにちがいない。そうした手引きができるのは、孝明天皇に近い人物にちがいなく、その意味で、岩倉具視が手引きしたという話は説得力がある。
宮崎鉄雄氏がこの話を鹿島にしたとき(一九九七年七月)、すでに宮崎氏は九七歳になっており、それまでずっとこの証言を世に出すかどうか迷っていたそうだが、鹿島曻の著書を読んで公表する決心をしたとのことであった。「日本の歴史家に鹿島氏のような勇気があれば、日本史がウソ八百で固められることもなかったろう」と、宮崎氏はその著書の中で語っている。
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あとがき
日本人が広い意味で中国民族のなかの少数派であることを認めて中国を助けようとするのと、中国民族とは関わりのない、日本列島に生まれた神聖民族だと自惚れて侵略するのでは、結果として、天と地ほどの相違がある。
前者の場合には、中国に古くから伝わる「中原逐鹿」という理念が生きるのであるが、そのためには天皇は北京に住み、中国人になりきらなければ中国人を支配できないし、もし中国人になりきれば、またたく間にその政権は官僚主義が横行して腐敗してしまうだろう。
一つの大陸に十数億の人民がいれば、その統治にはどうしても強制が必要となるし、その強制に対抗する力も巨大なものになるであろう。ジンギス汗の成功に比較すれば、日本の挫折の理由は明らかである。要するに、日本は同じアジア人でありながら、自らを神聖民族としてアジア人を差別したのが失敗のもとであった。
昭和三九年(一九六四)七月、社会党の佐々木更三たちが北京に毛沢東を訪問した際、「日本は戦争中、中国を戦場として中国人民に多大な損害をもたらして申し訳ない」と言ったところ、毛沢東は、「日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらした。なぜなら、中国国民に権力を奪取させてくれたからです。皆さんの皇軍の力なしには、権力を奪うことは不可能だったでしょう」と言ったという(『毛沢東思想万歳』)。
毛沢東が「皆さんの皇軍」と言ったのは、皮肉たっぷりであるが、(自称)社会主義者の佐々木たちがこれに抗議した形跡はない。しかし、紅軍(中共軍)が解放したシナ12億の人民が、果たして独立の幸福を得たか。人民が「思想の自由、生活の自由」を手に入れたか。けっしてそうではない。文化大革命のとき、毛沢東は抵抗する人々を生きながらにして肝臓を抜いて食う蛮行を許したし、天安門事件の際の人民解放軍は、無抵抗の人民と学生たちを戦車で踏み潰し、3歳の幼児を撃ち殺したうえ、それに抗議する母親をも射殺した。
天安門広場は、白由を求めて立ち上がった人民を虐殺する広場となり、中華人民共和国は、改革解放の掛け声に乗って都市に高層ビルを林立させ、公害垂れ流しの経済成長を優先させ、結果、貧富の差が極端に広がり、まさに戦国時代のような様相を呈している。中国人すべてが―――共産党員さえも共産主義を捨てなければ中国の未来はないと知っているのに、とっくに建国の理念を破棄した共産党は戦車と大砲によって人民を支配しているのである。中国の歴史を振り返ると、この国には国民を弾圧しない政権は生まれたことがなかったのであるが、今や中国は大きな「歴史の節目」に差し掛かっているといえるであろう。
第二次大戦で、日本はアメリカに敗れたという。しかし、それは正当ではない。日本は世界を敵にして敗れたのである。アメリカは戦後、中国・北朝鮮の連合軍と戦って引き分けたが、そのあと中国が支援するベトナムに敗北した。第二次大戦のとき、もしも日本がアジアと連帯してアメリカと戦っていたなら、けっしてたやすく敗れはしなかったであろう。日本とドイツが敗れたのは、日本人とドイツ人が弱かったからではなく、最高指導者の水準があまりにも低かったからに過ぎない。
このような歴史の教訓を生かして今日求められるのは、かつて太平洋やインド洋に雄飛し、アジアに文明を伝えた「倭人」の栄光を回復することであり、それによって自覚される「太平洋民族との連帯アイデンティティ」ではないだろうか。やがて地球上に世界連邦が誕生し、すべての民族アイデンティティは発展的解消をとげるであろう。そのためには多くの試行錯誤が必要であり、それを乗り越えるために、われわれは過去の栄光を忘却してはならないのである。本書で明かされた「鹿島史観」の全貌が、読者の関心を呼び、広く国民に伝わるようになれば、泉下の鹿島の霊も浮かばれ、人類の未来に明るい灯を添えてくれると信ずるものである。