katsukoのブログ 131230

トルーマンでなくウォレスが大統領になっていれば


トルーマンでなくウォレスが大統領になっていれば ②



以下ウィキペディア「ヘンリー・A・ウォレス」


Henry Agard Wallace ほぼ転載:

アイオワ州 アデール郡オリエントの近くの農場に1988年生まれる。1910 にエームズのアイオワ州立大学を卒業し、1910年から1924 までデモインで『Wallace's Farmer』紙の編集部に勤務した。また1924年から1929 まで同紙の出版者であった。彼はトウモロコシ の高収量品種の実験を行い、農業に関する著書を多数出版した。1915年には市場における第一の品種となるトウモロコシを考案し、彼が設立した会社は現在パイオニア・ハイブレッドとして知られ、アメリカに於いて最も高収益を誇る企業の一つである。

1933 にウォレスはルーズベルト大統領によって農務長官に指名された。彼は共和党 に所属していたが、ルーズベルトのニューディール政策 を支持し民主党に入党した。ウォレスは1940 9月まで農務長官を務め、副大統領の指名を受け農務長官を辞任した。彼は194011月にフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領の伴走候補者に選出され、1941 120日から1945 120日まで副大統領職を務めた。

ウォレスは副大統領としては異例の要職を任されるなどルーズベルトに信頼されたが、後に意見が衝突、1944年の四選出馬 に際しては副大統領候補に指名されず、事実上更迭された。民主党はルーズベルトの健康状態を懸念し、ミズーリ州選出のベテラン上院議員ハリー・トルーマン を副大統領候補に推す。ただしルーズベルトはウォレスを商務長官にすることで報いている。ウォレスは同職を19453月から1946 9月まで務めた。

1948年大統領選挙 に、新規結成した進歩党 から出馬し、一般投票で2.4%の票を得ている。

彼自身の立場は共産主義 とは異なるが、戦後の反共 運動への同調は拒んでいた。 反核、反帝国主義を訴え、徹底した平和主義で、大統領職には就けなかったが、アメリカの良心と呼ばれた。

エピソード:

1944 620 蒋介石 との会談のために重慶 を極秘訪問(この時期、国共合作 が一時崩壊の危機に瀕し、その様子見のために送り込まれた)した際、5航空軍 司令官下山琢磨 中将が山本五十六 乗機撃墜(海軍甲事件 )の報復として、ウォレスの乗機を撃墜することを画策した。支那派遣軍 総司令部が極秘に入手したスケジュールに基づいて偵察機を飛ばしたが、乗機らしき航空機は姿を見せず、撃墜はかなわなかった。入手したスケジュールが実は偽物だったと言われている。

The Life of Henry A. Wallace: 1888-1965

"The Century of the Common Man" - the text of Wallace's 1942 speech.

Henry A. Wallace Center for Agricultural & Environmental Policy

" An Argument for a New Liberalism by Peter Beinart, The New Republic, December 2 2004

次にウィキペディア「1944年アメリカ合衆国大統領選挙」からほぼ転載:

ルーズベルトは人気があり、戦時の現職としてほとんど公然たる反対に遭わなかった。民主党内、特に南部 では保守派の数が増えて、ルーズベルトの経済および社会政策に懐疑的な者が増えていたが、敢えてルーズベルトに反対する者はほとんど居らず、容易に再指名された。指名投票の結果は以下の通りだった[1]

大統領フランクリン・ルーズベルト 1086

ハリー・F・バード 89

ジェイムズ・A・ファーリー 1

党内保守派はルーズベルトの再指名を止めることができなかったが、大統領の外見が明らかに身体的に衰えており、秘密の健康問題という噂もあったので、(「ので」というのは、ルーズベルトが死ぬと、副大統領が大統領になるから、という意味でしょう=katsuko)多くの代議員や党指導者は現職副大統領ヘンリー・A・ウォレス には強く反対した。ウォレスは保守派の多くの者にとって、大統領を継ぐ可能性がある者としてあまりに左翼的であり、変わり者に過ぎた。多くの党指導者が、ウォレスの指名には反対することと、ミズーリ州 選出のアメリカ合衆国上院 議員で、上院戦時調査委員会の議長として良く知られるようになった中道派であるハリー・S・トルーマン を新しい副大統領候補として提案することを、ルーズベルトに個人的に伝えた。ルーズベルトは個人的にウォレスを好んでおり、トルーマンについてはほとんど知らなかったので、党の結束を維持するためにトルーマンを新しい候補者として受け入れることに躊躇した。それでも、多くの革新的代議員はウォレスを棄てることを拒み、最初の指名投票ではウォレスに票を投じた。しかし、北部 中西部 および南部の大きな州の代議員が2回目の指名投票でトルーマンが指名を得るに十分な票を投じた。ルーズベルトの健康が衰え、翌1945 4月には死ぬことになったので、この副大統領指名を巡る戦いは歴史的な意味が大きくなり、トルーマンは合衆国第33代大統領になった。

副大統領指名投票の結果 (単位不明=katsuko

         ウォレス      トルーマン  その他候補の得票の和

1回目      429.5      319.5     約 210

2回目(調整前) 473        477.5     約 110

2回目(調整後) 105       1031           0

 オリバー・ストーンさんの番組によると、ウォレスだったか、その仲間だったかが、

何かの集会のとき、黒人用の入り口から入ったことがあり(多分わざと)、そのことが

一定の人たちの反感を買ったというできごとがあったそうです。

 ウィキペディアは書いていませが、1948年の選挙のときだった

とおもうのですが、

ウォレス自身も、ペアを組んだ人も、襲撃に遭っているそうです。

 ウィキペディアはかなりフェアな記述をしていますが、ことアメリ

カの裏面史の、それも核心となると、筆が鈍るのでしょうか。

  話が前後しますが、1944の副大統領指名選挙ですが、

一回目でなぜ決めなかったのでしょうか。

 過半数をとらないと副大統領に指名してもらえないという民主党

内規があったのでしょうか?

 また二目目の“調整”って何?

 怪しい、怪しい、怪しい、怪しいの10乗!


 ウォレス大統領が実現していれば、広島長崎はなかったかも

しれないのですよ!歴史にifはないとはいいますが。また

ウォレス大統領が実現していれば、“彼ら”は“交通事故”か何か

起こしたかもしれませんが。