高校時代、藍はどうしても東京に出たかった。その一つの理由が

岩波ホールに映画を観に行きやすいというものだった。

 馬鹿な高校生だったので、東京で一人暮らしをするのにどれだけ

金[*]がかかるかということ、映画のチケットを買うのにも金がかかるということ

は考えになかった。

 ただ毎日やりくりに苦しむ生活の中で、ある新聞が載せた高野悦子さん

の訃報記事に、高野さんが日本に紹介した代表的な作品として紹介

されている「旅芸人の記録」と「木靴の樹」は両方観た。

  「旅芸人の記録」は、題名が劇的だという理由で行ったに過ぎない。

ところがその内容は、戦争の後、アメリカが解放軍だと信じたら逆だった

というものだった。

 もともと宙の影響で藍には“反米”的なところがあったが、アメリカとは

何なのか疑問に思うようになったのは岩波ホールの影響も大きい。

 アメリカが解放軍だと思ったら逆だったというモチーフの映画を

もう一つ、藍は岩波ホールで観ている。これも必ずしも米帝国批判映画だと

意識して観にいったわけではなかったのだが。

 その題名は「ドイツ・青ざめた母」というものだった。

 ヒロインは占領軍の米軍兵士に強姦されるが、その場面は、

監督が女性であることも関係してか、まるで買物をしたりバスに

乗ったりといった感じの感情移入させない乾いたタッチで描かれ、

敗戦国には当然あること、といったナレーションが流れる。つまり

その時点ではまだヒロインはアメリカ軍の流入を、ナチスドイツの

圧制の対極にある自由を約束するものと認識していたのだった。

 それが勘違いだったとわかるにつれ、外形的には

結婚し、子も産み、それなりの生活ができるようになっていったのに

もかかわらずヒロインの苦悩は増していき、顔面神経痛に

悩まされるようになる(メークはどのようにするのだろう!)。

 顔面神経痛。それはもちろん、東西の分裂の比喩だった。

 

 藍がこの映画を観た頃、ドイツ統一は、藍が生きている間に達成

されようとはおもわれなかった。

 けれどもドイツの統一は、世界で紛争がなくなり、人々が

幸福に暮らせる時代を意味はしなかった。事の真相は、

当時の藍には思いもよらないことであったようなのだ。

 

 そのことはしかし「木靴の樹」の監督はもしかすると予測

していたのかもしれなかった。

 この映画にフランス革命直後の熱狂が描かれていた。しかし

主人公の父親だったか、彼にはその熱狂は無意味なのだった。

彼はただそのうかれている群集の中にもぐりこんで、コインの一枚でも

地面に落ちていないかを血眼で捜すのであった。

 男の子は利発だった。学校に通わせたいと父はおもった。だが

学校は遠い。どうしても木靴が必要だった―


 そうだ。ヨーロッパの作品には、フランス革命は虚構だと

いうことが、この映画と限らず示されているのだ。

 例えばディケンズの『二都物語』も!

 フランス革命後の人権宣言―近代憲法のモデルとされるーにおいて

“保障”される人権の、その“人”とは、ブルジョワジーのみであって、

しかも特定の閨閥・財閥のメンバーに過ぎないということが、これから

明らかにされていかなければならないことなのだ。

 一人でも多くの、高野悦子さんのー岩波ホールの子どもたちが、

藍より出でて藍より青くなる必要がある。