“北朝鮮”のロケットの一部がどこかに落ちると大騒ぎしているけれども、

過去に日本人を散々痛めつけてきたのは“北朝鮮”ではなく、アメリカである。


 以下ウィキ「横浜米軍機墜落事件」の一部。

 母親に、周囲は長い間、子の死を伏せていた。


 なお非常に広い意味ではピースサインをしていた米兵も被害者といえるかも

しれない。1%に属するという点では、被害者の母親と同様であろうから。


 嘆死という語はないとおもう。タイトル用のにわか造語。

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 1977年 9月27日13時過ぎ、厚木海軍飛行場 (厚木基地)を離陸し、太平洋

上の航空母艦 ミッドウェイ に向かおうとしたアメリカ海軍 の戦術偵察機

RF-4BファントムII 611号機)が、離陸直後に燃料満載の状態でエンジン

火災を起こした。乗員2名は機外に緊急脱出し、パラシュートで神奈川県

横浜市 緑区 (現・青葉区 )鴨志田町付近に着地したのち、航空救難団

収容されて基地に無事帰還した。一方、放棄され制御を失った機体は5km

ほど離れた同区荏田町(現・青葉区荏田北 三丁目・大入公園付近)の

住宅地に墜落し、周辺の家屋を炎上させた。

ちょうど同時刻に近郊の横浜市立鉄小学校では運動会が行われていたが、

米軍機が炎上し、墜落して行く瞬間を偶然ビデオを撮っていた観客がとら

えた。その映像はTBS のニュースフィルムに残っており、後年「カメラがとら

えた決定的瞬間」として紹介されている。

 事故発生から10分後に出動した自衛隊は、脱出したパイロット2名の

「救出活動」のみをおこなった後、ただちに厚木基地へ帰還した。米軍関係

者は約1時間後の14時20分頃に現場に到着し、真っ先に現場周囲の人たち

を締め出したのち、エンジンなどを回収。この作業の際には笑顔でピース

サインを示して記念撮影をおこなう兵士もいた[1] [2]

 墜落地周辺では、火災により一般市民9名が負傷、周辺の人々により

次々に車で病院に搬送されるも、うち三歳と一歳の男児2名の兄弟は全身

火傷により翌日死亡した。また、兄弟の母親である女性も全身にやけど

負い、皮膚移植手術を繰り返しながら長期間にわたり入退院を繰り返した

のち一時はリハビリを行なえるまでに肉体的には回復するものの精神的

なダメージは計り知れず、最終的には精神科 単科病院に転院し、事故

から4年4ヶ月後の1982年 1月26日 に、心因性の呼吸困難 により死亡した。

NHK 加賀美幸子 アナウンサーは、涙ながらにこのニュースを伝えた。

転院に関して、遺族は「半ば強制的」であったと主張している[1] [