銃撃は選挙戦のさなか、犯人の気に入らない候補者に対してしたものだから、それは言論の自由の侵害であるので、殺した数は一人だが死刑が妥当だというのである。

 刑法は法益(生命・身体・自由・財産)を保護するーーそれを侵害したら処罰されるぞといういわば脅しをかけることで侵害=犯罪を防ごうとするもの。

 殺人罪の保護法益は生命であってそれ以外のものではないはず。

 今回は言論の自由だから聞こえはいいが、これがもし戦前の治安維持法のような法律があって、国家の方針(たとえば隣国の土地を奪おうというような)に抵抗するために首相なり陸軍大臣なりを殺したゆえに殺した数が一人でも死刑という理由付けならどうなのか。

 もっともそもそも殺人罪の刑が死刑もあれば一番軽いと懲役3年という、あまりに幅が広い規定で、その分裁判官の勝手な価値判断をいれこみやすいようになっていること自体が問題なのだろうが。

 

 いっそう問題なのは、あの銃撃事件を言論の自由への挑戦ととらえて普通の殺人事件異常の意味を与えて大騒ぎしてよかったのかということだ。

ただでさえ”見ざる聞かざる言わざる”というカルチャーがまだまだ根強い日本で、あの捉え方はいっそうそういうカルチャーを浸透させる機能を担いはしなかったか。


 この国ではどうも問題がねじれたりそれたりする。おそらく故意に。

 西山記者事件の際も、沖縄返還は基地付きとするという密約をしていた政府が悪いのに、その情報を西山さんが外務省の女性職員と親密な関係になったことを利用したという方法自体や、その職員が国家機密(って何だ?!)を漏洩したこと自体ばかり 大きくとりあげられ、非難されて、密約の不当性は吹っ飛んでしまったのだった。


 どの新聞社・テレビ局にも良心的な人がいるので、マスメディアを一般的に敵視することは避けなければならないが、報道を丸呑みしない注意は常に必要だ。