全てを茶色にという国法のエスカレートぶりについて、他人事のように噂話や論評をしているうちに、ついに自分達自身が茶色のペットを飼ったことがあるという“前科”によって逮捕されるにいたる、その主人公が、原作では一人の男性(とその友人)だけであるのを、洒落たカフェの“セレブ”の十人ほどの客たちにするというのが、演出のMさんの設定であった。

 数少ない、いくらか高価そうな服のうち、二着を考えていたが、舞台全体のカラーコーディネートからして、そのうちの一着は着ることができなくなった。もう一着には今の私の髪型が合わなかった。

 仕方なく私は、大枚一万円をはたいて茶色の肩ぐらいまであるソバージュのウイッグを買った。本番の日の、直前リハーサルがもう始まるというときだった。

 Mさんがそれを着けた私を見て、「本気なんだか本気じゃないのかわからない」とあきれていた。

 たしかに私は全力を出して練習に参加してきたわけではなかった。だがそれは、必ずしも六ケ所再処理工場の本格稼動をやめさせるためのさまざまな努力で多忙だったという理由からだけではなかった。

他のメンバーのいくつかの台詞回しにどうしても納得がいかなかった。Mさんがそれを直さないまま放っているのは素人にあまり苛酷な要求をしても気の毒だという判断からだろうと推測された。だがそれは私にはどうしても我慢がならないことだった。

茶色でない猫を殺すために配られたという「毒入り団子」の最初の「ど」の音がよく聞こえていないことーーそれによって、脚本を見ていない観客(聴衆)の感じる恐怖感が半減してしまうーーもっともこの台詞を言うMさんは、ギターを弾きながらなのでとても大変だったーー、あるいは猫に次いで犬も茶色ではないものを飼うことが許されなくなったことに違和感がある理由として、脚本(原文)は「猫より大きい」と書いてあるのに、その台詞を担当するOさんが必ず「よりは」と誤読するーーまたはOさんの性向からしてわざとーーこと、等々、等々。(犬にも小型犬というのがあって、犬のほうが絶対大きいとは限らないが、ラブラドールなど大きい犬がこの作品では想定されている。猫より大きい哺乳類を屠殺さなければならなくなったことで作者は切迫感を出そうとしているのに、「猫よりは」として「は」という係助詞をつけてしまうと、猫と大きさが対して違わないことになってしまって、この台詞の意味がやはり半減する。)

本気なのか本気じゃないのかわからないとは、私がM氏に言いたいことであった。

こういう技量の問題以外に、劇団の運営がデモクラティックではなく、またごく一部のメンバーに負担がーー払う労力としても金銭の面でもーーかかりすぎていることにも疑問があった。

公演直後に、意を同じくするメンバーと相談して、急遽ミーティングを開くことになった。そこで、このにわか作りの劇団の蔵していた膿をか私はえぐりだした。

もちろん相当な摩擦が起きた。

そのまま打ち上げに出ないで帰ってしまいたい気持も強かった。だが練習を通じてできた人間関係を、そうして断ち切ってしまうことで新たな軋轢<あつれき>に苦しむことになるのも面倒だった。

煮え切らない自分を滑稽に感じつつ私は打ち上げに出た。

Mさんの率いる劇団の看板俳優のNさんーー今回の公演で照明を担当してくれていたーーが代替エネルギーに強い関心をもっていることを知ったのはその席でのことだった。

結果的に、この打ち上げに出たのは、私にはいわば運の尽きであった。