毎日、毎日の「熊」話題が出ているとき、思い出すのは宮沢賢治の『なめとこ山の熊』の物語でした。
「熊」が人里に下りてきては、‟わるさ”をするという。それは、果たして‟わるさ”なのだろうか。
宮沢賢治の『なめとこ山の熊』の物語を思い出しては、哀しい思いになっていました。
かつてイーハトーブの旅で、「なめとこ山の熊」の舞台とされている豊沢川上流に行ってみたことがあります。
その時の記事【2014年8月25日】

曲がり橋の奥が菊水館。

宿(この時は豊沢川沿いの大沢温泉の菊水館に泊まりました)を出て、車で向かうのはいつもと違う方向です。豊沢川上流にある豊沢ダム湖周辺に行ってみました。
宮沢賢治『なめとこやまの熊』の作品舞台です。
「なめとこ山の熊のことならおもしろい。」とはじまる物語。貧しさゆえに熊を殺すことを余儀なくされている熊うちの小十郎。その小十郎がもってきた熊の皮や胆を欲深な荒物屋が安く買いたたきます。
この理不尽さを賢治は語り手にこう語らせます。
「こんないやなずるいやつらは世界がだんだん進歩すると、消えてなくなっていく。」賢治の弱者に寄せる思いがよくわかります。
熊のことばが聞こえるようになった小十郎は熊を殺すこと耐えられなくなっていきます。最後には自分が熊に殺されることになる物語、どう見ても「おもしろい」ことはないのですが、賢治らしさがよくわかります。
命の不思議さや人の罪深さに思い悩み、菜食主義を貫いた賢治。熊の命を奪う小十郎を責めるような描き方は決してしません。熊たちの視点からも命を考えさせます。
ダム湖に沈んだ豊沢の村の人々や賢治の作品世界を深い木々のなかでしばし感じながら立ち尽くします。
この物語、ネット上の「青空文庫」から読むことができます。
人と熊の関わり合いには、かつてはマタギという人たちがいて、熊と人間の距離を保つために役割を果たしていました。
花巻の山の奥に「なめとこ山」があり、その場所で、熊を打って暮らす小十郎の話です。「なめとこ山の熊のことならおもしろい」という書き出し。どんなにか「おもしろい」話かと思って読んでいくと…。
まあ、読んでみてください。長い話なので、ゆったり構えてどうぞ。
まず登場人物とあらすじを紹介します。
なめとこ山の熊の主要登場人物
淵沢小十郎(ふちざわこじゅうろう)
なめとこ山の熊捕りの名人である主人公。熊の毛皮と薬になるといわれる胆を捕るために何頭も熊を殺しているものの熊たちから好かれてもいる。
主人(しゅじん)
小十郎が熊の毛皮を売りに行く荒物屋の主人。小十郎が弱腰なのを良いことに、安い額でしか毛皮を買おうとしない。
母(はは)
小十郎の九十歳になる母。小十郎の妻や息子が赤痢で死んだ後、小十郎と一緒に孫たちの面倒を見ている。
なめとこ山の熊 の簡単なあらすじ
なめとこ山の熊捕りの名人・淵沢小十郎は、年老いた母と小さな孫たちを養うために熊の毛皮と薬になるといわれる胆を捕っていたので、熊を殺しては「憎くて殺したのでねえんだぞ。
この次には熊なんぞに生れなよ。」
と言っていました。
しかし、ある日から熊の言葉がわかるようになり、小十郎の心の中で熊たちへの情がだんだんと深くなってしまうのでした。
なめとこ山の熊 の起承転結
【起】なめとこ山の熊 のあらすじ①
熊捕り
なめとこ山には熊がごちゃごちゃとおり、その熊の胆は腹痛にも傷にも効く薬として有名でした。
淵沢小十郎はなめとこ山のあたりでは熊捕りの名人といわれ、胴は太く、手のひらも大きく厚い。
さらに山刀と大きく重い鉄砲を持ち、たくましい犬とともに山から山へと縦横に歩くのです。
そんな小十郎ですが、実は山の熊たちからは好かれていました。
小十郎が山中をひたすら歩いているとき、熊たちは木の上や崖の上からおもしろそうに見送っていたほどです。
しかし、そんな熊たちも犬が飛びついてきたり小十郎が鉄砲をこっちへ構えてきたりするのはあまり好きではなく、気の激しいやつは小十郎の方へ襲いかかっていきます。
それでも、小十郎は落ち着いて一発で仕留めてみせますが、息絶えた熊に近寄ると「憎くて殺したのでねえんだぞ。
おれも商売ならてめえも射たなけぁならねえ。
この次には熊なんぞに生れなよ。」
と言うのです。
そして、手早く熊から毛皮と胆を取ってしまうと谷を下っていくのでした。
【承】なめとこ山の熊 のあらすじ②
母子の熊と荒物屋
小十郎は熊の言葉がわかるような気がしていました。
ある年の春、犬とともに白沢をずっと上って手製の小屋へ向かう途中、小十郎は柄にもなく登り口を間違えてしまったのです。
何度も降りたり登ったりをくり返したすえ、犬も小十郎もへとへとになりながらもついに半分崩れかかった小屋が見つかり、さらに小十郎がその下側に湧き水があったのを思い出して降りかけたときでした。
そこに二頭の母子の熊がおり、月光の中、向こうの谷を見つめながら話をしていたのです。
そして、小十郎はその様子に胸がいっぱいになって音を立てないようにこっそり戻るのでした。
そんな小十郎ですが、町へ熊の皮と胆を売りに行くときのみじめさといったら全く気の毒でした。
町にはざるや砂糖やガラスのはえまである大きな荒物屋があり、小十郎はそこに毛皮を売りに来ていました。
小十郎は店の主人の前では山の中と違って弱腰なのですが、それは年老いた母と小さい孫ばかりの家族に米を買ってあげたいという思いからでした。
そのため、主人があえて毛皮を断るそぶりを見せると、小十郎はいくらでもいいと言ってしまい、あまりに安い額で売るはめになるのでした。
【転】なめとこ山の熊 のあらすじ③
二年目の約束
ある年の夏、小十郎におかしな出来事が起こりました。
小十郎が谷を渡り岩を登ったところ、すぐ目の前の木に大きな熊が背中を丸くしてよじ登っているのを発見します。
小十郎はすぐ鉄砲を突きつけ、犬は大喜びで木の周りを駆け回ります。
その最中、木の上の熊はしばらくじっとしたままで、小十郎に飛びかかろうかこのまま撃たれてやろうかと考え込んでいるようでしたが、いきなり両手を木から離してどたりと落ちてきました。
小十郎は鉄砲を構えたまま今にも撃とうとしていたところ、熊は両手を挙げて「何がほしくておれを殺すんだ。」
と叫びました。
小十郎は「毛皮と胆のほかにはなんにもいらない。」
と答えながらも「栗かしだのみでも食っていてそれで死ぬならおれも死んでもいいような気がするよ。」
と付け足します。
すると、熊は「少しし残した仕事もあるしただ二年だけ待ってくれ。
二年目にはおれもおまえの家の前でちゃんと死んでいてやるから。」
と言ってゆっくり歩き出したのです。
小十郎はぼんやりと立ったままで、熊も小十郎が撃たないとわかっているようで後も見ないでゆっくり歩いていきました。
それからちょうど二年目のある朝、小十郎が庭に出ると垣根の下にその熊が口いっぱいに血を吐いて倒れていました。
【結】なめとこ山の熊 のあらすじ④
青い光
一月のある日、小十郎は熊取に出る直前、母に弱音を吐いてしまいます。
母は笑うか泣くかするような顔つきをするだけで、小十郎は急かす孫たちへ「行って来るじゃぃ」と言うと堅雪の上を白沢の方へ登っていきました。
小十郎は白沢から峰を一つ越えたところに大きな熊がいたのを夏のうちに確かめておいたのです。
五つの支流をさかのぼったり滝の下から崖を登ったりして着いたのは栗の木が生えたゆるい斜面で、小十郎はその頂上で休すんでいました。
しかし、いきなり犬がほえ出したので後を見ると、目をつけていた大きな熊が両足で立ってこっちへ襲いかかってきており、小十郎は鉄砲を撃ったものの熊は倒れるそぶりもなく嵐のように向かってきます。
そして、犬がその足元にかみついたと思うと小十郎はがあんと頭が鳴るなり目の前が真っ青になったのに気づきました。
さらに、遠くから聞こえた「おまえを殺すつもりはなかった。」
という言葉にもうおれは死んだと思うと青い星のような光が見え、小十郎は「熊ども、ゆるせよ。」
と思いました。
それから三日目の晩その栗の木の山の上に黒い大きなものがいくつも輪になってじっと動かずにおり、その一番高いところには小十郎の死骸が半分座ったように置かれ、その顔はどこか笑っているようにさえ見えました。
長いので、場合によっては、以下の音読ビデオを聴く方が楽かもしれません。
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以下は本文です。
なめとこ山の熊
宮沢賢治
なめとこ山の熊のことならおもしろい。なめとこ山は大きな山だ。淵沢川はなめとこ山から出て来る。なめとこ山は一年のうち大ていの日はつめたい霧か雲かを吸ったり吐いたりしている。まわりもみんな青黒いなまこや海坊主のような山だ。山のなかごろに大きな洞穴ががらんとあいている。そこから淵沢川がいきなり三百尺ぐらいの滝になってひのきやいたやのしげみの中をごうと落ちて来る。
中山街道はこのごろは誰も歩かないから蕗やいたどりがいっぱいに生えたり牛が遁げて登らないように柵をみちにたてたりしているけれどもそこをがさがさ三里ばかり行くと向うの方で風が山の頂を通っているような音がする。気をつけてそっちを見ると何だかわけのわからない白い細長いものが山をうごいて落ちてけむりを立てているのがわかる。それがなめとこ山の大空滝だ。そして昔はそのへんには熊がごちゃごちゃ居たそうだ。ほんとうはなめとこ山も熊の胆も私は自分で見たのではない。人から聞いたり考えたりしたことばかりだ。間ちがっているかもしれないけれども私はそう思うのだ。とにかくなめとこ山の熊の胆は名高いものになっている。
腹の痛いのにもきけば傷もなおる。鉛の湯の入口になめとこ山の熊の胆ありという昔からの看板もかかっている。だからもう熊はなめとこ山で赤い舌をべろべろ吐いて谷をわたったり熊の子供らがすもうをとっておしまいぽかぽか撲りあったりしていることはたしかだ。熊捕りの名人の淵沢小十郎がそれを片っぱしから捕ったのだ。
淵沢小十郎はすがめの赭黒いごりごりしたおやじで胴は小さな臼ぐらいはあったし掌は北島の毘沙門さんの病気をなおすための手形ぐらい大きく厚かった。小十郎は夏なら菩提樹の皮でこさえたけらを着てはむばきをはき生蕃の使うような山刀とポルトガル伝来というような大きな重い鉄砲をもってたくましい黄いろな犬をつれてなめとこ山からしどけ沢から三つ又からサッカイの山からマミ穴森から白沢からまるで縦横にあるいた。
木がいっぱい生えているから谷を溯っているとまるで青黒いトンネルの中を行くようで時にはぱっと緑と黄金いろに明るくなることもあればそこら中が花が咲いたように日光が落ちていることもある。そこを小十郎が、まるで自分の座敷の中を歩いているというふうでゆっくりのっしのっしとやって行く。犬はさきに立って崖を横這いに走ったりざぶんと水にかけ込んだり淵ののろのろした気味の悪いとこをもう一生けん命に泳いでやっと向うの岩にのぼるとからだをぶるぶるっとして毛をたてて水をふるい落しそれから鼻をしかめて主人の来るのを待っている。小十郎は膝から上にまるで屏風のような白い波をたてながらコンパスのように足を抜き差しして口を少し曲げながらやって来る。
そこであんまり一ぺんに言ってしまって悪いけれどもなめとこ山あたりの熊は小十郎をすきなのだ。その証拠には熊どもは小十郎がぼちゃぼちゃ谷をこいだり谷の岸の細い平らないっぱいにあざみなどの生えているとこを通るときはだまって高いとこから見送っているのだ。木の上から両手で枝にとりついたり崖の上で膝をかかえて座ったりしておもしろそうに小十郎を見送っているのだ。まったく熊どもは小十郎の犬さえすきなようだった。
けれどもいくら熊どもだってすっかり小十郎とぶっつかって犬がまるで火のついたまりのようになって飛びつき小十郎が眼をまるで変に光らして鉄砲をこっちへ構えることはあんまりすきではなかった。そのときは大ていの熊は迷惑そうに手をふってそんなことをされるのを断わった。けれども熊もいろいろだから気の烈しいやつならごうごう咆えて立ちあがって、犬などはまるで踏みつぶしそうにしながら小十郎の方へ両手を出してかかって行く。小十郎はぴったり落ち着いて樹をたてにして立ちながら熊の月の輪をめがけてズドンとやるのだった。すると森までががあっと叫んで熊はどたっと倒れ赤黒い血をどくどく吐き鼻をくんくん鳴らして死んでしまうのだった。小十郎は鉄砲を木へたてかけて注意深くそばへ寄って来てこう言うのだった。
「熊。おれはてまえを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめえも射たなけぁならねえ。ほかの罪のねえ仕事していんだが畑はなし木はお上のものにきまったし里へ出ても誰も相手にしねえ。仕方なしに猟師なんぞしるんだ。てめえも熊に生れたが因果ならおれもこんな商売が因果だ。やい。この次には熊なんぞに生れなよ」
そのときは犬もすっかりしょげかえって眼を細くして座っていた。
何せこの犬ばかりは小十郎が四十の夏うち中みんな赤痢にかかってとうとう小十郎の息子とその妻も死んだ中にぴんぴんして生きていたのだ。
それから小十郎はふところからとぎすまされた小刀を出して熊の顎のとこから胸から腹へかけて皮をすうっと裂いていくのだった。それからあとの景色は僕は大きらいだ。けれどもとにかくおしまい小十郎がまっ赤な熊の胆をせなかの木のひつに入れて血で毛がぼとぼと房になった毛皮を谷であらってくるくるまるめせなかにしょって自分もぐんなりした風で谷を下って行くことだけはたしかなのだ。
小十郎はもう熊のことばだってわかるような気がした。ある年の春はやく山の木がまだ一本も青くならないころ小十郎は犬を連れて白沢をずうっとのぼった。夕方になって小十郎はばっかぃ沢へこえる峯になった処へ去年の夏こさえた笹小屋へ泊ろうと思ってそこへのぼって行った。そしたらどういう加減か小十郎の柄にもなく登り口をまちがってしまった。
なんべんも谷へ降りてまた登り直して犬もへとへとにつかれ小十郎も口を横にまげて息をしながら半分くずれかかった去年の小屋を見つけた。小十郎がすぐ下に湧水のあったのを思い出して少し山を降りかけたら愕いたことは母親とやっと一歳になるかならないような子熊と二疋ちょうど人が額に手をあてて遠くを眺めるといったふうに淡い六日の月光の中を向うの谷をしげしげ見つめているのにあった。小十郎はまるでその二疋の熊のからだから後光が射すように思えてまるで釘付けになったように立ちどまってそっちを見つめていた。すると小熊が甘えるように言ったのだ。
「どうしても雪だよ、おっかさん谷のこっち側だけ白くなっているんだもの。どうしても雪だよ。おっかさん」
すると母親の熊はまだしげしげ見つめていたがやっと言った。
「雪でないよ、あすこへだけ降るはずがないんだもの」
子熊はまた言った。
「だから溶けないで残ったのでしょう」
「いいえ、おっかさんはあざみの芽を見に昨日あすこを通ったばかりです」
小十郎もじっとそっちを見た。
月の光が青じろく山の斜面を滑っていた。そこがちょうど銀の鎧のように光っているのだった。しばらくたって子熊が言った。
「雪でなけぁ霜だねえ。きっとそうだ」
ほんとうに今夜は霜が降るぞ、お月さまの近くで胃もあんなに青くふるえているし第一お月さまのいろだってまるで氷のようだ、小十郎がひとりで思った。
「おかあさまはわかったよ、あれねえ、ひきざくらの花」
「なぁんだ、ひきざくらの花だい。僕知ってるよ」
「いいえ、お前まだ見たことありません」
「知ってるよ、僕この前とって来たもの」
「いいえ、あれひきざくらでありません、お前とって来たのきささげの花でしょう」
「そうだろうか」子熊はとぼけたように答えました。小十郎はなぜかもう胸がいっぱいになってもう一ぺん向うの谷の白い雪のような花と余念なく月光をあびて立っている母子の熊をちらっと見てそれから音をたてないようにこっそりこっそり戻りはじめた。風があっちへ行くな行くなと思いながらそろそろと小十郎は後退りした。くろもじの木の匂が月のあかりといっしょにすうっとさした。
ところがこの豪儀な小十郎がまちへ熊の皮と胆を売りに行くときのみじめさといったら全く気の毒だった。
町の中ほどに大きな荒物屋があって笊だの砂糖だの砥石だの金天狗やカメレオン印の煙草だのそれから硝子の蠅とりまでならべていたのだ。小十郎が山のように毛皮をしょってそこのしきいを一足またぐと店では又来たかというようにうすわらっているのだった。店の次の間に大きな唐金の火鉢を出して主人がどっかり座っていた。
「旦那さん、先ころはどうもありがどうごあんした」
あの山では主のような小十郎は毛皮の荷物を横におろして叮ねいに敷板に手をついて言うのだった。
「はあ、どうも、今日は何のご用です」
「熊の皮また少し持って来たます」
「熊の皮か。この前のもまだあのまましまってあるし今日ぁまんついいます」
「旦那さん、そう言わなぃでどうか買って呉んなさぃ。安くてもいいます」
「なんぼ安くても要らなぃます」主人は落ち着きはらってきせるをたんたんとてのひらへたたくのだ、あの豪気な山の中の主の小十郎はこう言われるたびにもうまるで心配そうに顔をしかめた。何せ小十郎のとこでは山には栗があったしうしろのまるで少しの畑からは稗がとれるのではあったが米などは少しもできず味噌もなかったから九十になるとしよりと子供ばかりの七人家内にもって行く米はごくわずかずつでも要ったのだ。
里の方のものなら麻もつくったけれども、小十郎のとこではわずか藤つるで編む入れ物の外に布にするようなものはなんにも出来なかったのだ。小十郎はしばらくたってからまるでしわがれたような声で言ったもんだ。
「旦那さん、お願だます。どうが何ぼでもいいはんて買って呉なぃ」小十郎はそう言いながら改めておじぎさえしたもんだ。
主人はだまってしばらくけむりを吐いてから顔の少しでにかにか笑うのをそっとかくして言ったもんだ。
「いいます。置いでお出れ。じゃ、平助、小十郎さんさ二円あげろじゃ」
店の平助が大きな銀貨を四枚小十郎の前へ座って出した。小十郎はそれを押しいただくようにしてにかにかしながら受け取った。それから主人はこんどはだんだん機嫌がよくなる。
「じゃ、おきの、小十郎さんさ一杯あげろ」
小十郎はこのころはもううれしくてわくわくしている。主人はゆっくりいろいろ談す。小十郎はかしこまって山のもようや何か申しあげている。間もなく台所の方からお膳できたと知らせる。小十郎は半分辞退するけれども結局台所のとこへ引っぱられてってまた叮寧な挨拶をしている。
間もなく塩引の鮭の刺身やいかの切り込みなどと酒が一本黒い小さな膳にのって来る。
小十郎はちゃんとかしこまってそこへ腰掛けていかの切り込みを手の甲にのせてべろりとなめたりうやうやしく黄いろな酒を小さな猪口についだりしている。いくら物価の安いときだって熊の毛皮二枚で二円はあんまり安いと誰でも思う。実に安いしあんまり安いことは小十郎でも知っている。けれどもどうして小十郎はそんな町の荒物屋なんかへでなしにほかの人へどしどし売れないか。それはなぜか大ていの人にはわからない。けれども日本では狐けんというものもあって狐は猟師に負け猟師は旦那に負けるときまっている。ここでは熊は小十郎にやられ小十郎が旦那にやられる。旦那は町のみんなの中にいるからなかなか熊に食われない。けれどもこんないやなずるいやつらは世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなっていく。僕はしばらくの間でもあんな立派な小十郎が二度とつらも見たくないようないやなやつにうまくやられることを書いたのが実にしゃくにさわってたまらない。
こんなふうだったから小十郎は熊どもは殺してはいても決してそれを憎んではいなかったのだ。ところがある年の夏こんなようなおかしなことが起ったのだ。
小十郎が谷をばちゃばちゃ渉って一つの岩にのぼったらいきなりすぐ前の木に大きな熊が猫のようにせなかを円くしてよじ登っているのを見た。小十郎はすぐ鉄砲をつきつけた。犬はもう大悦びで木の下に行って木のまわりを烈しく馳せめぐった。
すると樹の上の熊はしばらくの間おりて小十郎に飛びかかろうかそのまま射たれてやろうか思案しているらしかったがいきなり両手を樹からはなしてどたりと落ちて来たのだ。小十郎は油断なく銃を構えて打つばかりにして近寄って行ったら熊は両手をあげて叫んだ。
「おまえは何がほしくておれを殺すんだ」
「ああ、おれはお前の毛皮と、胆のほかにはなんにもいらない。それも町へ持って行ってひどく高く売れるというのではないしほんとうに気の毒だけれどもやっぱり仕方ない。けれどもお前に今ごろそんなことを言われるともうおれなどは何か栗かしだのみでも食っていてそれで死ぬならおれも死んでもいいような気がするよ」
「もう二年ばかり待ってくれ、おれも死ぬのはもうかまわないようなもんだけれども少しし残した仕事もあるしただ二年だけ待ってくれ。二年目にはおれもおまえの家の前でちゃんと死んでいてやるから。毛皮も胃袋もやってしまうから」
小十郎は変な気がしてじっと考えて立ってしまいました。熊はそのひまに足うらを全体地面につけてごくゆっくりと歩き出した。小十郎はやっぱりぼんやり立っていた。熊はもう小十郎がいきなりうしろから鉄砲を射ったり決してしないことがよくわかってるというふうでうしろも見ないでゆっくりゆっくり歩いて行った。そしてその広い赤黒いせなかが木の枝の間から落ちた日光にちらっと光ったとき小十郎は、う、うとせつなそうにうなって谷をわたって帰りはじめた。
それからちょうど二年目だったがある朝小十郎があんまり風が烈しくて木もかきねも倒れたろうと思って外へ出たらひのきのかきねはいつものようにかわりなくその下のところに始終見たことのある赤黒いものが横になっているのでした。ちょうど二年目だしあの熊がやって来るかと少し心配するようにしていたときでしたから小十郎はどきっとしてしまいました。そばに寄って見ましたらちゃんとあのこの前の熊が口からいっぱいに血を吐いて倒れていた。小十郎は思わず拝むようにした。
一月のある日のことだった。小十郎は朝うちを出るときいままで言ったことのないことを言った。
「婆さま、おれも年老ったでばな、今朝まず生れで始めで水へ入るの嫌んたよな気するじゃ」
すると縁側の日なたで糸を紡いでいた九十になる小十郎の母はその見えないような眼をあげてちょっと小十郎を見て何か笑うか泣くかするような顔つきをした。小十郎はわらじを結えてうんとこさと立ちあがって出かけた。子供らはかわるがわる厩の前から顔を出して「爺さん、早ぐお出や」と言って笑った。小十郎はまっ青なつるつるした空を見あげてそれから孫たちの方を向いて「行って来るじゃぃ」と言った。
小十郎はまっ白な堅雪の上を白沢の方へのぼって行った。
犬はもう息をはあはあし赤い舌を出しながら走ってはとまり走ってはとまりして行った。間もなく小十郎の影は丘の向うへ沈んで見えなくなってしまい子供らは稗の藁でふじつきをして遊んだ。
小十郎は白沢の岸を溯って行った。水はまっ青に淵になったり硝子板をしいたように凍ったりつららが何本も何本もじゅずのようになってかかったりそして両岸からは赤と黄いろのまゆみの実が花が咲いたようにのぞいたりした。小十郎は自分と犬との影法師がちらちら光り樺の幹の影といっしょに雪にかっきり藍いろの影になってうごくのを見ながら溯って行った。
白沢から峯を一つ越えたとこに一疋の大きなやつが棲んでいたのを夏のうちにたずねておいたのだ。
小十郎は谷に入って来る小さな支流を五つ越えて何べんも何べんも右から左左から右へ水をわたって溯って行った。そこに小さな滝があった。小十郎はその滝のすぐ下から長根の方へかけてのぼりはじめた。雪はあんまりまばゆくて燃えているくらい。小十郎は眼がすっかり紫の眼鏡をかけたような気がして登って行った。犬はやっぱりそんな崖でも負けないというようにたびたび滑りそうになりながら雪にかじりついて登ったのだ。やっと崖を登りきったらそこはまばらに栗の木の生えたごくゆるい斜面の平らで雪はまるで寒水石という風にギラギラ光っていたしまわりをずうっと高い雪のみねがにょきにょきつったっていた。小十郎がその頂上でやすんでいたときだ。いきなり犬が火のついたように咆え出した。小十郎がびっくりしてうしろを見たらあの夏に眼をつけておいた大きな熊が両足で立ってこっちへかかって来たのだ。
小十郎は落ちついて足をふんばって鉄砲を構えた。熊は棒のような両手をびっこにあげてまっすぐに走って来た。さすがの小十郎もちょっと顔いろを変えた。
ぴしゃというように鉄砲の音が小十郎に聞えた。ところが熊は少しも倒れないで嵐のように黒くゆらいでやって来たようだった。犬がその足もとに噛み付いた。と思うと小十郎はがあんと頭が鳴ってまわりがいちめんまっ青になった。それから遠くでこう言うことばを聞いた。
「おお小十郎おまえを殺すつもりはなかった」
もうおれは死んだと小十郎は思った。そしてちらちらちらちら青い星のような光がそこらいちめんに見えた。
「これが死んだしるしだ。死ぬとき見る火だ。熊ども、ゆるせよ」と小十郎は思った。それからあとの小十郎の心持はもう私にはわからない。
とにかくそれから三日目の晩だった。まるで氷の玉のような月がそらにかかっていた。雪は青白く明るく水は燐光をあげた。すばるや参の星が緑や橙にちらちらして呼吸をするように見えた。
その栗の木と白い雪の峯々にかこまれた山の上の平らに黒い大きなものがたくさん環になって集って各々黒い影を置き回々教徒の祈るときのようにじっと雪にひれふしたままいつまでもいつまでも動かなかった。そしてその雪と月のあかりで見るといちばん高いとこに小十郎の死骸が半分座ったようになって置かれていた。
思いなしかその死んで凍えてしまった小十郎の顔はまるで生きてるときのように冴え冴えして何か笑っているようにさえ見えたのだ。ほんとうにそれらの大きな黒いものは参の星が天のまん中に来てももっと西へ傾いてもじっと化石したようにうごかなかった。
