ぼくのブログを読み、連絡をしてくる方は結構な数になります。SNSなどで、実践データを提供しますよというアピールをしているからなのでしょう。

 

2学期を前に、「カタカナ指導」「漢字指導」のデータリクエスト(これは小学校1年生担任の人)が数人から来ました。新しく学習指導をするのにどうしようかということです。

もちろん、すぐさまデータは送りますが、ぼくの中にはモヤモヤが残ります。問い合わせしてくる人の中に、「自分はどうしたいのか」、それがあまり見えないのです。(これは批判ではありませんよ。現場の忙しさや「指導」という圧力があり、じっくり教材研究する時間がない事も知っていますから。それでも、自分はどうしたいかは大事なことです。)

 

    流れ星 流れ星 流れ星

 

ぼくは、文字指導(1年生でいえば”ひらがなあそび”も)をつくるとき、その指導の在り方に対して迷い、悩み、七転八倒しながら考え、実践してきました。

 

自分が教室で子どもたちにひらがな、カタカナ、漢字の文字指導をしたとき、この3つの文字の関連性や特徴を踏まえて指導しなければならないと痛感しました。通例の、広く行われている「何度でも書いて、読んで覚え込む」文字指導に疑問を感じ、自分で文字通り格闘して文字の学びをつくってきました。ことばの学びとして取り組むこと軸に据えました。

その際、様々な過去の実践から学ぶことは当たり前でしたが、最後は自分の教室で具体化し、それを何度も訂正、修正し、オリジナルな部分を大事にして実践データにしてきました。

 

    流れ星 流れ星 流れ星

 

ぼくから送られた資料を手にし、使えるところだけを読んでもらっても、あまり上手く行くことはないように思います。それは、学校の日々の今の指導方法への疑問や問題意識が無ければ実践はつくれないと考えるからです。

3・2実践は面白い、個々は使えるというエッセンスにだけだ目を向けたけだだけでは、同一歩調ばかり強調される学年では受け入れられにくい(みんな同じからの脱却が必要です)、業者のつくったドリルの方が重視される(自分たちで考えない依存性への問いも必要)、さらに保護者から違和感や不安感を持たれれる(なぜに学ぶ文字の順序を変えたりするのかなど説明もしなければならないけれど、そうした声を発することが制限されるために、結局は安易に教科書という権威に寄り掛かる)などして、続けることが困難になるようです。(もちろん、ぼくが提供した個々の学びのアイデアとして使えるのもはいくつもあるでしょうが。)

こうした状況を踏まえて、リクエストする人とはデータを間において、実践づくりを語ることとセットにしたいと思っています。

 

ぼく自身は自分の中にどのような実践が必要かを明確にしながら、格闘して「文字の学び」をつくりました。日々の忙しさや、周りからの圧力により、マニュアル頼みの本質的な教材観なしの、更に子どもの意欲につながらないドリル・訓練に流されそうになったこともありました。

しかし、自分のなかに軸をつくっていくこと無しには、面白い学びはつくれません。教材観、指導観を問い直し、実践をつくる契機にしてほしいと、データ提供に当たっては考えるます。

それなくしては、”主体的””対話的””深い”学びは単なるお題目にしかなりません。子どもに苦痛を与えている安易なドリル学習への無頓着さ、言語観無き教科書一辺倒学習に流されていることを根本から問いたい。

 

   流れ星 流れ星 流れ星

 

上のようなことを考えるのも、下で紹介するようなメールをいただいたからです。

 

ぼくのブログ読者には、海外在住の方が複数います。これまでもそうした人たちからのデータリクエストがありました。この方たちのリクエストは、日本の小学校での子どもたちの学習の指導のためというリクエストではありません。いわゆる「教員」ではない方からのリクエストが多いのです。

現地校に通う自分のお子さんの学習をサポートしたいという思いや、自身が勤めたりサポートしたりする日本語補習校での「国語」の授業をどのようにするかと考えて、ネット上でさまざまに調べるうち、「さんにごりらのらぶれたあ」ブログ(そのなかの「ことばを文字にとじこめない」というぼくの実践)を知ったということで連絡をくれました。目の前の子どもに応じて「ことば」の学びをすすめること、大人である自身の学びとしてもデータが欲しいという思いの強い方たちです。

 

そこでは、学校的な枠組みではなく、ことば・文字そのものに向き合う学び、目の前の子どもの興味に添うことが関心の中心となります。大人学びと一体であることも大事です。自分が納得しないことは、子どもたちに押し付けられないからです。

この点では、このことこそ日本の学校現場でも第一とされなければと思います。残念ながら、多忙化、個別最適化と言いながらも型にはまった指導の強まりがあります。そこでは教師の問題関心と無縁の学習指導(子どもたちの実態ともかけ離れます)が広がっています。

 

ハートのバルーンアメリカ在住のKさんからのメール(一部を抜粋しました)

 

《3年前、初めて頂いた資料のなかで真っ先き読んだのが「漢字の学び」についての部分でした。『らぶれたあ』で保護者に向けて丁寧に説明されている部分も、何度読み返したことか…。

 

成り立ちに始まり、文章で使いこなすという一連の流れは、我が家でもほぼそのまま踏襲しました。

うちの中の食卓のすぐ脇の壁に「黒板」が貼ってあるんです(笑)。ホームセンターで見つけた小さいのを4枚合わせて、一面に。そこで夕飯後に2人でやりました。

 

私は白川静さんの常用漢字の辞書を使っていたので、成り立ちについての話し始めると、どうしても古代中国の歴史や文化、民俗などまで行かざるを得なくて、二人で延々と話し込んだものです。「あっ大変こんな時間だ!」っていつも最後は大急ぎでした。文章の練習も、一つ一つじっくりとやり取りしたものです。こんなですから、なかなか進まないんです(笑)。

 

でも、1年365日続けるおうち学習なのだから、いつかちゃんと追い付くはず、と自分に言い聞かせたものです。お互い大変ではあったけれど、楽しく濃密な時間でした

細かい知識なんていつか忘れてしまうのでしょうが、一つのことばの回りには豊かな広がりを持つ世界があって、そこでたっぷり遊んだ経験は心に残るものであってほしいというのが、私のささやかな願いです。

 

もう一度、漢字の資料を通し読みして私も学び直します!》

 

うずまき学びの原点を教えていただくメールです。

個人だからできるではないと思います。何を大事にして学びをつくるのか、でしょう。漢字いえば「表意文字」の特徴を踏まえ、成り立ちを、ことばや文章のなかで、深く学ぶ。Kさんのお宅で「主体的・対話的で深い学び」が成立している事実に感動します。

ぼくのデータがここで生かされていることに、作り手、送り手としても感謝しかありません。

 

うずまき応答が必要だと痛感しています。

近々、オンライン、対面で学びの場をつくろうかなどと考え始めています。

「タンテイする学び」、「ことばあそびの実際(デザート授業)」、「文字の学び」、「ことばを文字にとじこめない」などをやったら、参加者はいるかしらん。

 

拍手本日(9/7)は国立で「学びをつくる会」。13時半。ひかりプラザ。

ぼくは本日は不参加です。すみません。14時半過ぎに京成八広へ。関東大震災時に虐殺された朝鮮人の追悼のつどいに参加。こちらに来る人、連絡ください。終わって四つ木で交流。