ミリーの人物像について

物語を読む(タンテイする)とき、その出て来る人物はどんな人かということが大事なことです。中心人物である、ミリーについて、書かれていること(絵も)からつかみます。

 

教科書の書き出しの部分です。

教科書は以下の様に書いてあります。ひらがな、漢字に直す、句読点などは、2年生という学年に応じた記述(分かち書きも)に変えられていますが、ここではそこは問題にはしません。

ミリーは、さんぽのとちゅう、ぼうしやさんの 前を 通りました。

ウインドーには たくさんの ぼうしが ならんでいます。

ミリーは、なかでも、色とりどりの 羽のついた ぼうしが 気に入りました。

 

人物像に関わって、絵本は以下の赤字の部分が原作絵本との違いがあります。比べてみます。下は原作絵本。(絵本は、いろんな年齢層の人が読むので、全てひらがな(名前はカタカナ)表記です。

ミリーは がっこうのかえり、ぼうしやさんの まえを とおりました。

ウインドーには たくさんの ぼうしが ならんでいます。

ミリーは なかでも いろとりどりの はねのついた ぼうしが きにいりました。

 

絵本(原本)の方では「がっこうのかえり」となっています。

ミリーは何歳くらいの子どもかと考えた時、「学校のかえり」ということばは、そのヒントになります。「さんぽのとちゅう」と「がっこうのかえり」ではかなり違います。

 

教科書では「さんぽのとちゅう」とあります。この改変について、作者の同意もなく行われたとは考えられませんから、そのことを考えてみます。

 

「がっこうのかえり」を読んで、学校にただふらりと行ったとは考えられません。ミリーの姿(絵)を見るかえり、背負っている鞄などをみても、通学の帰りと見るのが妥当でしょう。だから、本来なら変える必要はないはずです。

 

では「さんぽのとちゅう」にしたのは何故か。(ここは子どもの読みではなく、教師の教材研究として目にとめておきたいところです。)

おそらくそれは、日本的な学校教育への配慮だと思われます。

「学校の帰り」に帽子屋に立ち寄る、財布(お金)を持っているという設定は、日本の教育的には「おかしい」「問題だ」とされるからではないのでしょうか。(だとしたら、こういうところはややカタいなあ。ミリーの年齢などつかむとき、「がっこうのかえり」のほうが小学校の低学年だろうなあということがつかみやすいはずです。このミリーの話の”無国籍な感じの作品世界”からすれば、カタイ教育の枠を、持ち出さなくていいのいになあと、ゆるやかさを求めるぼくには違和感があります――3・2)

 

ということで、原作絵本だと、ミリーの年齢がおおよそ推定できるのですが、お散歩の途中だけだと、年齢をやや推定しにくいかもしれません。けれど、ミリーの行動的なところ、好奇心旺盛なところは、「さんぽのとちゅう」でもわからないわけではないですが。

 

「がっこうのかえり」を「さんぽのとちゅう」に変えたことには、教室で「教育的にまなぶ」という、大人側の”意図”が透けて見える――そう言ったら言い過ぎかな。日本社会の枠に入れた作品になったということでしょうか。脱線の話でした。

次回から、作品に入って読みます。

 

教材研究に当たっては、原作絵本にも当たる必要性があることが、ここでも確かめられますね。

(つづく)