yoshieさんが、授業でモヤモヤしているというので、ぼくの最近の主張の例の「デザート授業」(*本教材<メインディシュ>の合間においしい<デザート>この場合はことばあそびを投げ込むこと)と『大きなかぶ』の教材を読みあいましょうと、メールしてみました。

 

ノリの良い人だから、すぐに返事が来て、19時からLineの電話で語りあうことになりました。傍らには。パソコンから送った『大きなかぶ』の授業データを置いてもらいます。この方法だと、会わなくてもできる。こうやって『大きなかぶ』の教材研究をしました。

この方法、ZOOMを使わなくてもできるので簡単便利、少人数でも可能。

 

    ねこクッキー うさぎクッキー

 

そのことを、そのやりとりをした後、yoshieさんがFBの記事にしています。

資料を送って、「読んでみて。質問あったらどうぞ」では限界があります。やはり実際の「声」の往還に意味があるとよくわかります。「デザート授業」で楽しんでいる様子も紹介してくれています。

 

三二さんのブログにあった和田誠さんの『ことばのこばこ』を授業でやってみたらどんどん詩をつくって私に出してくる。(詳しくは写真を!)

チケットの半券、テキストの画像のようです

1年生の子どもたちに少しずつトラブルが増えてきたのは、たぶん私が子どもたちの渇きを潤していない。(やんちゃくんとのトラブルでケアが追いついていないのもあるけど。)だから、トラブルの質を変えるためにも、みんなの渇きを授業で潤さねばと思った。

昨日は三二さんと「大きなかぶ」について電話でお話しできた。(ありがとうございました!)紙で読むのと、声で聞くのとじゃ、温度感が全く違う。三二さんの名優ぐあいを感じ取れる。笑

 

自分の実践の問題点の分析、冷静でいい。知的かつ柔軟な若者です。

ぼくのデザート授業の発想を取り入れて子どもたちの「渇き」を潤しています。(子どもたちの姿から、その渇きを見る、それを潤すという表現がぴったり来ます)

 

そのyoshieさんに「名優」と言われたぼくですが、そんなことありません。大体テレビ向けじゃないですね。ラジオのような声のみの俳優です。ビジュアルに難ありです。

 

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『大きなかぶ』のデータを一緒に読みませんか

『大きなかぶ』の実践データの中に、ぼくのこの実践に当たって次のようなことを書いています。

 

≪現場にいる間中、ぼくは自分の指導法でいいのかなあと悩み続けました。
そこで、さまざまな教育実践書を読み参考にしました。授業を見せてもらうことでヒントを得ようともしてきました。

若い頃は「これはいいぞ」と思ったものはすぐに取り入れました。けれど、ただの物まねのような実践は、付け焼刃でしかなく、大体において上手くいきませんでした。
その当時は、上手くいかないと「ぼくってダメだなあ」と落ち込み、しばらくして元気をとりもどすと、新たな方法を探すといったくり返しの日々でした。


もちろん学んだことは無駄ではなかったことはわかります。無駄のような試行錯誤は、自分の中に時間をかけて位置づいていったことは間違いありません。失敗のなかからこそ学ぶものも大きかったからです。
けれど、「私の授業」を目指すことがこのなかから一番の願いになりました。

 

『大きなかぶ』の授業に、その頃学んだ「読書のアニマシオン」の一つの作戦を使ってみたりしました。”ダウトをさがせ”を取り入れてみた、それもまた、悩みの果ての”苦肉の策”でした。≫

 

データには、ぼくが子どもから学んで、「物語を読む意味」をつかんだことを紹介しました。

もえちゃんこそ、ぼくの低学年実践の発想の困難の扉の鍵を開いてくれた子でした。

 

<題名を大切にする>
<地の文、会話文を意識する>

<かぶのたねに呼びかける>

 

これらの重要性。そのうえで、<おじいさんの人物像をつかむ>ことこそ、最も重要だったということに気づかせてくれたのが、もえちゃんの”疑問”のつぶやきでした。

 

「大きなかぶって見ればわかるのに、なぜあまいかぶだってわかるんだろう」――これがもえちゃんのつぶやきでした。初め、ぼくにはこのつぶやきの意味がつかめませんでした。迂闊なセンセイです!

 

「大きな、大きな、あまい、あまいかぶになれ」という<願い>と、「大きな、あまかぶになりました」という<結果>の間を、イメージし、タンテイすることが、読むという意味なのではないか。

ここからぼくの、ことばを手掛かりに「イメージをつくり」「タンテイする」活動が、まさに「ことばを文字にとじこめない」へと広がったのでした。

 

このことの実際は、『大きなかぶ』の実践データをお読みください。リクエストあれば送ります。

A-4 17ページの記録です。読んでオモシロい記録をめざしています。

 

「名優」ならぬけれど、語りは大事

yoshieさんが、ぼくのラジオのような語りにいくらかでも魅入ったのは、ぼくが考えてきたことの苦悩や喜びに共感してくれたからではないかと、都合よく考えています。

 

現場の教師たちは侮られてはいないか、ぼくはずっとそう思っていました。

・授業は大事だ、本務だといわれながら。肝心の教材研究の時間がない(ほかの雑務に追われる)、

・指導書や赤本に頼れとの「善意」をまとった指導、

・どのクラスも同じ指導をするようにとくわえられる同調圧力、

・実際の授業より指導案の重視、見栄えのある板書、

・更には子どもたちに機械的な音読練習を何回も強いる、

・その評価を保護者に求めるなど――

これらは、現場の教師を侮っているとしか思えません。自分らしさを奪うものなのだから。

 

yosieさんへの語りは、自分らしく、オリジナルな授業を求め続けた結果の、自分なりのスタイルなのです。

だからと言って、ぼくの様にしなさいと押し付けるつもりはなく、一つの異議申し立て、本統(当)は何だろうと索め続け結果(なんだか賢治の言葉になってるかな)ではないでしょうか。(ははは)

リクエストは、

shimomura-sanni@jcom.home.ne.jp  までどうぞ。Lineを併用した学び、ZOOMなども計画してみようかな。<温度感>のある学びができます!?

遠慮なく。他の教材もね。