谷川俊太郎さんは、「あいうえお」であそぶことについて、発言をしてきています。

 

「あいうえおっとせい」谷川俊太郎・詩/白根美代子・絵

あいうえおっとせい

あ…あさ い…いすの う…うえで え…えらそうに お…おっとせい

この『あいうえおっとせい』は、アクロスティック(折句)であそんだ詩。

 

くびがでるわ

やけがさすわ
にたいくらい
んでたいくつ
ぬけなあなた
べってころべ

 

これもまたその一つ。

 

谷川俊太郎さんのことば

 あいうえおの文字をおぼえることは、もちろんたいせつですが、文字より先に、あいうえおの音の豊かさを身につけることも負けずおとらずたいせつだと思うんです。ただ棒よみするんじゃなく、その一行一行の、一音一音の表情を味わってほしい。そのためには、あいうえおを、言ってみればひとつのおもちゃとして、親子で遊んでみるのもおもしろいんじゃないかな。

 

 詩を大人の言葉で書くよりも子どもの言葉で書きたくなる。その方が生きている実相に近づけるんじゃないかと思える。一時期僕は詩に日本語の音韻の豊かさを回復したいと考えて、一連の「ことばあそびうた」を書きました。

 

 のみすけのみの

 みのののみ

 さけをのみのみ

 からむのみ

 きのみきのまま

 みのののみ

 みにはみののみ

 かみだのみ   

 『ことばあそびうた また』(福音館書店)

 

また英語詩のアクロスティックという技法を借りて、

 あさ

 いすの

 うえで

 えらそうに

 おっとせい

 まっすぐな

 みち

 むかでが

 めざすのは

 もり   

『あいうえおっとせい』(さ・え・ら書房)

 

舌もじり(早口言葉)を考えて、

 さるさらう

 さるさらさらう

 さるざるさらう

 さるささらさらう

 さるさらささらう

 さらざるささらさらささらって

 さるさらりさる

 さるさらば    

『ことばあそびうた』(福音館書店)

 

 意味を伝えると言うより日本語の声音を楽しむものはノンセンスと紙一重ですが、こんなものも僕はマージナル(取るに足りない)な詩だと考えている。

 んぽか

 んぽき

 んぽく

 んぽけ

 んぽこ    

『んぐまーま』(クレヨンハウス)

 

 こういう物語も意味もないテキストは、画家の協力によって絵本として存在感を持つことがあります。活字になった言葉だけでなく、絵や写真やコラージュなどとコラボレーションすると、詩が生き返ることがあって、日本では古くから画の余白に賛を入れていましたね。

 

 人間は言葉の意味に囚われ、言葉の意味によって解放される存在なんだと思う。意味と一口に言っても、詩の場合は、明示的意味(denotation)と同時に含意的意味(connotation)が大事だから、散文に比べて分かりにくくなることがあって、時に読者に敬遠されてしまうんだけど。

 

 僕は詩と散文とを問わず、コトバと何十年もくんずほぐれつしてきたから、言葉の意味という自分一人ではどうにも動かせないものに愛想が尽きた、と言うより少々疲れてしまったので、近頃は意味の元にある実体にどうにか言葉で近づけないかなと思うようになっている、これは無理な相談ですよね。でも稀にその実体の手触りみたいなものに触れることがある。散文と違う機能が言葉に働いていると思うことがあります。

 

 源が中国である漢字は既に日本人の血となり肉となっていますが、それでも少なくとも僕は、いまだに漢字を海外由来のものとして感じている。語源をたどっていくと馴染みのないところへ出たりしますから。最近小津夜景さんという翻訳・解説者に恵まれて僕も漢詩に親しむことができるようになりました。漢字に凝縮された意味の働きが少し分かってきたんです。ひらがな一字にはない存在感が漢字一字にはあるんですね。

 

 話があちこちに飛びますが、先日ゴリラ語を話すという山極寿一さんに、ゴリラの記憶について聞く機会があったのですが、どうやら僕は記憶の仕方が人間よりゴリラに似ているようです。物語としてではなく、ある時点で経験した事実をゴリラは一つの場面として思い出すらしい。

子どものゴリラと遊んだ山極さんが初老になった彼(ゴリラ)と再会した時、最初の日は山極さんを思い出さなかったんですが、二日目に会ったら子どもに戻って昔遊んだことを体で再現したんだそうです。言語に頼らず生きているゴリラのいのちのあり方に胸が熱くなりました

 

 僕に小説が書けないのは、自分に生きることを物語として捉える興味がないから、ひいては自分自身を含めて人間そのものに執着がないからかもしれませんが、生きるいのちの一瞬には時として深い感動を覚えます。詩を感じる僕の感性の源がそこにあるのかもしれません

 

 私的という言葉と詩的という言葉は音が同じのせいで声に出す時にはよく混同されるんですが、僕は詩は基本的に私的な書き物だと思っています。かつて小説には私小説というジャンルがあって作中の私はイコール作者と見るのが普通でしたが、いつか小説はフィクションだと考えるのが主流になった。でも詩についてはいまだにほとんどの読者がまず私詩として読み、それがフィクションであることに(わざと?)気づかないことが多いようです。

 

 僕は自己表現という意識をほとんど持たずに、ちっぽけな自分の内なる世界よりも外部に広がる広大で豊かな世界を言葉にするのが面白くて詩作を始めたので、逆に自身を意識下まで掘り下げて言葉にする詩人に対すると、自分という人間に疑問を感じることがある。

 

 今マックを前にしてこれを書いているテーブルは、父母が長年住んでいたこの家にあった食卓で、引き出しがないので使い勝手が悪いんだけど、壁に父母の大きないい写真があって、独居老人の僕を見守っているような感じが悪くないんでそのままにしています。九十年もこの世にいると、びっくりするようなことが少なくなって、当たり前なことにびっくりする。さっきも庭先に小鳥が五六羽何か啄んでいたんだけど、そんな平凡なことをこれは奇跡なんじゃないかと本気で思う……ということを詩に書きたいと考えたりするけど、これが書けないんだなあ。

(初出:「新潮」2022年1月号)

 

なが~い引用をしてしまいました。

でも、ことばやあいうえおについてのぼくのぐだぐだで半端な説明より何十倍も、おもしろくてわかりやすい。語りじたいががもう谷川さん、詩人だものね。

 

     ラブラブイエローハーツグリーンハーツラブラブブルーハーツ

 

「あいうえお」の絵本はいっぱいあります。探してみると楽しい。

 

「あいうえあそびえほん」石津ちひろ・文/荒井良二・絵

あいうえあそびえほん : 石津ちひろ | HMV&BOOKS online - 9784905015031

 

あいうえ  おおかみ  もりのなか 

かきくけ  こうもり  ねむるあさ

さしすせ  そうっと  ぞうがきた

 

楽天ブックス: あいうえあそびえほん - 石津ちひろ - 9784905015031 : 本

 

「あいうえおゴリラ」こやま峰子作/やなせたかし絵

 

「あいうえおうさま」寺村輝夫・作/和歌山静子・絵

 

 

「あいうえおおかみ」工藤直子・作/ほてはまたかし・絵

あいうえおおかみ えほんひろば : 工藤直子 | HMV&BOOKS online - 9784338180221

あいうえおおかみ - 中古絵本と、絵本やかわいい古本屋 -secondhand books online-

 

 

もっと、もっとさがしたいなあ。かつてのCMのかっぱえびせん状態。それが朝からです。